第十四話
激しい魔力の衝突が空間を震わせ、血液と見えない障壁がぶつかり合う異常な光景が居間に展開されていた。
暖炉の炎が二人の戦いに煽られて激しく揺らめき、琥珀色の光が壁面の絵画に踊るような影を投げかけている。
俺の剣はラトの左腕に阻まれたまま、それ以上進むことはできない。
しかし剣身を纏う血液は、彼女の無敵能力の隙間を縫って着実に目的を達成しつつあった。
深紅の液体が糸のように細く分岐し、ラトの左腕を包み込んでいく。
「え――これ、何?なんで血が――」
ラトの声に初めて動揺が滲んでいた。琥珀色の瞳が困惑に揺れ、兎耳が不安そうに震えている。
彼女の左腕は今や深紅の繭に包まれ、まるで血に染まった包帯を巻いているかのような異様な姿と化していた。
血液は彼女の体を傷つけることはできない。
しかし覆うことは――可能だった。
「何これ!?何なのこれ!?気持ち悪い!離れてよ!」
ラトは慌てて右手で左腕に巻きついた血液を剥がそうとした。
白い手袋に包まれた指が、深紅の液体を掴もうと必死に動き回る。
しかし当然のことながら、流動する血液を指で摘まんで取り除くことなど不可能だった。
液体は彼女の指の間をするりと逃れ、再び腕に張り付いていく。
「なにこれ!つかめない!」
「当たり前だ、血だ。液体だぞ。液体がつかめると、お前は習ったのか?」
「きぃ……気持ち悪い。変な小細工しないでよ!もう本当に怒ったんだから!」
ラトが苛立ちを露わにして叫んだ。
薔薇色の唇が嫌悪に歪み、顔全体に拒絶の表情が浮かんでいる。
彼女は咄嗟に右足を振り上げ、俺の腹部を狙って蹴りを放とうとした。
―――!
兎人族の脚力が炸裂しようとする瞬間――俺は素早くバックステップを踏んだ。
血液で強化した脚が床を蹴り、ラトの蹴りの間合いから一気に離脱する。
風を切る音と共に、彼女の足が俺のいた空間を虚しく通り過ぎていった。
「あ~もう!」
ラトの蹴りは空振りに終わったが、俺の狙いは既に達成されていた。
彼女の左腕に巻きついた血液は、俺が距離を取っても消えることなくその場に留まっている。
血液が乾燥することなく、魔力によって流動性を保ったまま彼女の腕に密着している。
ラトが腕を振っても、擦り付けようとしても、血の膜は剥がれることなく彼女の左腕に張り付いていた。
俺は冷静にラトの様子を観察する。
確かに彼女は怒っている――
これは好機だ。
怒りに支配された状態で、冷静な判断は困難になる。
彼女の戦闘能力が高いのは間違いないが、感情的になれば隙も生まれやすい。
そもそも俺の血の制御には距離制限がある。
その弱点に気付かれてしまっては困る。
できれば、このまま怒らせておきたい。
「もう~本当に気持ち悪いよ~」
ラトが左腕を振り回しながら叫んだ。
しかし血液は頑固に腕に張り付いたまま、彼女の動きに合わせて伸縮するだけだった。
「もう――我慢ならない!」
怒りに任せて、ラトが追撃に転じた。
腰を大きく捻りながら、俺の顔面を狙って前蹴りを放つ。
兎人族の柔軟性を活かした、高い位置からの鋭い一撃。
紅白の縞模様の靴下に包まれた足が、まっすぐ俺の鼻先を狙って突進してくる。
しかし――
「うわっ!」
蹴りを放った瞬間、ラトの体勢が大きく崩れた。
左腕に巻きついた血液が、まるで見えない鎖のように彼女の動きを制限したのだ。
腰の回転と共に左腕が後方に引っ張られ、バランスを失った彼女の蹴りは大きく軌道を外れた。
紅白の靴下に包まれた足が、俺の頭上を虚しく通り過ぎていく。
本来なら確実に命中していたはずの攻撃が、血液の拘束によって完全に無力化された。
「え――これって――」
ラトの瞳の色が変わる。
どうやら彼女は理解したらしい。
血を左腕に巻き付ける、言ってしまえばただそれだけ。
いやがらせにも見える行動。
左腕に巻きついた血液の厄介さに、ようやく気づいたのだ。
これは単なる嫌がらせではない――俺の真の狙いだった。
血で纏われた彼女の左腕は、俺が血液を操作することで意図的に行動を制限することができる。
攻撃の瞬間に血液を引っ張れば体勢を崩し、防御の際に逆方向へ押し込めば隙を作り出せる。
それどころか、予測不能な方向にベクトルを加えることで、彼女の身体のバランスそのものを根本から破綻させることが可能なのだ。
ラトの体術は確かにピカイチだった。
あの人間離れした身体能力、兎人族の天賦の才――
それらは単に動きが良いというだけではない。
無駄のない洗練された動作の連続こそが、彼女の真骨頂なのだ。
長年の修行によって研ぎ澄まされた身体は、意識せずとも最適な軌道を描き完璧なバランスを保ち続ける。
しかし――そこに血液による制御が加われば話は別だ。
意味の分からない方向に引っ張られ、計算外の負荷がかかれば、当然ながら無駄が生まれる。
そのストレスと違和感、動きのずれは、彼女が武の実力者であるからこそ一層大きく作用する。
完璧を求める者ほど、その完璧を乱されることへの苦痛は深い。
俺は即座に剣を構え直し、体勢を崩したラトに向かって斬りかかった。
血に染まった刃が弧を描き、彼女の足元を狙って振り抜かれる。
「くっ――!」
ラトも咄嗟に足を上げて剣を受け流そうとしたが、左腕の血液に引っ張られてバランスを失いかけていた。
それでも持ち前の身体能力で何とか体勢を立て直し、足で俺の剣を弾き返す。
―――!
いつもの流麗さが失われ、ぎこちない受け流し。
俺はそれを好機と見て、間髪入れずに剣を振るい続けた。
血に染まった刃が暖炉の明かりを反射しながら、連続攻撃を仕掛けていく。
同時に俺は全身の血流を意図的に増加させた。
心臓の鼓動を早め、血液を魔力として全身に巡らせる。
筋肉の繊維一本一本に深紅の力を送り込み、骨格を血の魔術で強化していく。
身体能力が段階的に上昇し、人間の限界を遥かに超えた領域へと到達していった。
体内への負荷は凄まじい。
心臓が激しく脈打ち、血管が破裂しそうなほどの圧力がかかっている。
おそらく数分――いや、下手をすれば数十秒しかこの状態は保てないだろう。
しかし、ここしかない。
今この瞬間こそが、ラトを倒せる唯一の機会なのだ。
「はあああああ!」
俺の咆哮と共に、血に染まった剣が嵐のような連撃を繰り出した。
上段から、袈裟斬りに、突きに、払いに――
あらゆる角度からの攻撃がラトを襲う。
「くっ、あぁもう!動き辛い!」
ラトも兎人族の身体能力を存分に発揮し、足技でそれらを迎撃しようとした。
―――!―――!―――!
剣と足が激しくぶつかり合い、火花が四方八方に散った。
魔力同士の衝突が空気を震わせ、バチバチと電撃のような音が響き続ける。
突風が嵐のように生じ、髪と服を激しく揺らした。
血で左腕を制御し、そして俺が全力を出して――
そこまでして、やっとまともに肉弾戦ができるとは。
ラトの戦闘能力は本当に恐るべきものだ。
磨き上げられ研ぎ澄まされた技術と、種族的な身体能力の高さ。
それらが組み合わさった時の戦闘力は計り知れない。
しかし――今は俺の方が有利だ。
無敵だろうがなんだろうが、衝撃波は防げないのだろう。
だから何度も俺の攻撃に負けじと、魔力をぶつけて来ている。
しかし左腕の血液を操作してラトの体勢を崩しながら、俺は剣の連撃を緩めることなく続けた。
彼女が反撃しようとするその瞬間に血液を引っ張り、攻撃の軌道をずらす。
防御の体勢を取ろうとすれば逆方向に押し込み、隙を作り出していく。
「ぎぃ―こんな――こんなの――!」
ラトの声に初めて焦りが滲んでいた。
琥珀色の瞳に困惑と苛立ちが入り混じり、兎耳が激しく震えている。
いつもの余裕は完全に失われ、必死に俺の攻撃に対応するのが精一杯の状況だった。
―――!―――!―――!
剣と足の激突音が連続して響く。
深紅の刃が彼女の足首を狙い、袈裟斬りに腰を狙い、突きで胸部を狙っていく。
「ラトちゃんは、負けないんだよ!」
ラトが苛立ちを露わにしながら、俺の剣を蹴り上げようとした。
しかしその瞬間、俺は左腕の血液を思い切り後方に引っ張る。
「うわっ――!」
バランスを崩したラトの蹴りが大きく外れ、俺の剣が彼女の脇腹を狙って突進した。
見えた――好機!
ここで当たればダメージはなくとも、斬り飛ばすことはできる。
そうすれば――
しかしその瞬間――
「うっ……!」
クラっと眩暈が俺を襲った。
全身の血流を極限まで高めた反動が、ついに限界を迎えたのだ。
視界が一瞬ぼやけ、剣を握る手に力が入らなくなる。
足元がふらつき、体勢が大きく崩れた。
その隙をラトは――
「逃がさない――」
琥珀色の瞳がギラリと光る。
兎人族の本能が、絶好の反撃機会を捉えたのだ。
ラトの全身から魔力が爆発的に噴出し、俺の目にも見えるほど濃密なオーラが彼女を包み込んだ。
濃密な魔力が渦を巻き、大気そのものを震わせて空間を歪ませていく。
暖炉の炎が魔力の奔流に煽られて激しく揺らめき、居間の絨毯が風圧で波打った。
「無理がたたったね、お兄さん。ここで終わりだよ!」
ラトは笑みをこぼしながら、足に大量の魔力を集中させた。
光が彼女の脚を包み込み、筋肉の繊維一本一本に魔力が浸透していく。
同時に左腕にも魔力を注ぎ込み、血液による拘束に対抗しようとする。
魔力で強化された四肢が、まるで紫水晶のような輝きを放っていた。
不味い――
左腕を制御しようと力を込めるが――
それよりも強い推進力が、ラトの身体を前方へと押し進めた。
魔力で強化された脚力が石床を蹴り抜き、床材に蜘蛛の巣状の亀裂が広がる。
彼女の小さな身体が弾丸のような速度で俺に向かって突進してきた。
「Laufe, Schneehase. Tanze im Halbmond―――」
聞いたことのない言語の詠唱。
ラトの右足の周囲に複雑な幾何学模様の魔法陣が展開される。
光る線が空中に描かれる、三日月を象った紋章。
魔法陣は回転しながら彼女の足に密着し、深紫の光が白く変化していく。
図形魔法と言霊魔法が融合し、単なる蹴りが絶大な破壊力を秘めた必殺技へと昇華されていく。
死ぬ――このままでは確実に死ぬ。
激しい閃光。
そして――
「雪野兎!」
ラトの右足が、俺の首を狙って半円を横に描く軌道で放たれた。
魔法陣が足と一体化し、まるで三日月の刃のような白い軌跡を空中に刻みながら、必殺の蹴りが空気を切り裂いて迫ってくる。
紅白の縞模様の靴下が残像を残し、魔力を纏った足が確実に俺の命を刈り取ろうとしていた。
魔法陣から放たれる光の粒子が軌道上に散らばる。
風圧だけで頬が切れる。圧倒的な死の予感が俺を包み込んだ。
魔力の奔流が俺の全身を打ち据え、呼吸すら困難になる。
しかし――
「ここで死んでたまるかあああああ!」
俺は再び全身の血流をたぎらせた。
心臓が破裂寸前まで激しく脈打ち、血液が魔力となって全身を駆け巡る。
限界を超えた身体強化が再び発動し、深紅の魔力が俺を包み込んだ。
剣を構え直し、ラトの必殺の蹴りを正面から受け止めにかかる。
―――!!!
ここで受けきるしかねぇ!
三日月の軌跡を描く蹴りと血に染まった剣が激突した瞬間、これまで感じたことのない凄まじい衝撃が俺を襲った。
白と深紅の魔力が激しくぶつかり合い、空間そのものが歪むような光の爆発が生じる。
「ぐっ―――」
衝撃に耐えきれず、俺の剣が粉々に砕け散った。
三年間の相棒だった刃が無数の破片となって宙に舞い散り、金属の甲高い悲鳴が居間に響き渡る。
血液の膜も完全に霧散し、俺は丸腰の状態に追い込まれた。
それでも――
俺は砕けた剣の柄で、ラトの蹴りの軌道を僅かにずらすことに成功した。
白い三日月の刃が俺の首を掠め、髪の毛一本の差で致命傷を回避する。
切り落とされた数本の黒髪が、魔力の余波で宙に舞い踊った。
――!
蹴りから放たれた衝撃波が俺の身体を包み込む。
凄まじい風圧が全身を打ち据え、足が床から浮き上がりそうになった。
それでも俺は唇を食いしばって踏ん張る。
大技を外したこのチャンス――絶対に逃すわけにはいかない。
「ちっ、外れた――」
ラトが小さく呟いた。
完璧だったはずの一撃が、紙一重で外れたことへの困惑。
その瞬間を――見逃さなかった。
そして俺の視線は、地図の間の方へと向く。
地図の間――そこ落ちているのは一丁の銃。
先ほどリボルバーを打ち抜いた銃である。
その銃は未だに俺の血液を纏い、表面を揺らめかせていた。
――今だ!
俺は血液を操作し、背後の地図の間に落としてきた銃を勢いよく引き寄せた。
大技を放ったばかりで片足立ちのラト――
その足元を狙って、俺は銃を投げつけるように操作した。
血液で制御された武器が、彼女のバランスを崩すべく低い軌道で突進していく。
しかし――
「背後から狙う――そんな同じ手には引っかからないよ!」
ラトはそれを瞬時に読み切った。
琥珀色の瞳が銃の軌道を捉え、その場で身体を浮上させて縦に回転する。
紅白の縞模様の靴下が宙で弧を描き、迫ってくる銃を華麗に躱していく。
兎人族の身体能力が遺憾なく発揮され、まるで舞踏のような美しい回避動作。
そして着地しようとする瞬間、ラトが両手を地面に向けて伸ばした――
両手で着地し、逆立ちの体制になるつもりなのだろう。
けど――そんなことはさせない!
逆立ちの体勢になる直前で、俺は左腕に巻きついた血液を操作し、ラトの左手を思い切り引っ張った。
このタイミングなら、確実にバランスを崩せるはず――
「……!?」
ラトの左手が血液に引っ張られ、着地の軌道が大きく歪んだ。
しかし――
「兎人族を――なめないで」
彼女は片手だけで地面に着地し、そのまま華麗な片手倒立を披露したのだ。
右手一本で全身を支え、まるで重力を無視したかのような完璧なバランスを保っている。
兎人族の驚異的な身体能力と体幹の強さが、この離れ業を可能にしていた。
「もう――終わりだね」
ラトの声に、確実な勝利への確信が滲んでいた。
逆さまになった琥珀色の瞳が、冷たく俺を見下ろしている。
既に俺の剣は粉々に砕け散り、無理をしているのは誰の目にも明らかだった。
血の瓶は既に使い切り、かなりの体力を消耗している。
左腕の傷、全身の血流を酷使した反動ーー
もう――限界。
「もうこの足を振り下ろせば――お兄さんを殺せるね。じゃあね、お兄さん」
そうラトが確信した瞬間――
「あ、あれ――?」
ラトの手が滑った。
支点となっていた右手が石床で滑り、完璧だったはずのバランスが一瞬で崩壊する。
訳も分からず身体が崩れ落ちていく中、彼女の視線が捉えたもの――
彼女の手が付いていた場所。
それは最初に俺が放った綴織の跳弾先だった。
先ほど彼女が手のひらで弾き返した、俺の血の魔弾が撃ち落とされた場所。
白い手袋で受け止められて軌道を逸らされ、床に落下した血液の痕跡。
時間が経って乾いたかに見えたその血の跡が、微かに蠢いていた。
ラトはその場所に手を付くことで、俺の血液によって手を滑らせたのである。
「まさか――ここまで読んで――?」
そう思うと同時に……
ラトの身体が勢いよく地面に叩きつけられた。
「うぎゃ――!」
ラトはそのまま、石床に背中を打ち付けた。
その隙を――
俺は素早くラトの元へ駆け寄り、前回のように彼女の上に馬乗りになった。
しかし今度は、単純に押さえ込むだけではない。
引き寄せた銃に付着している血液を操作し、ラトの手首、足首、そして関節という関節を深紅の液体で拘束していく。
血液が糸のように細く分かれ、彼女の身体を隈なく縛り上げた。
「ぐぅ~……」
間接を縛り上げられたラトは、虚しくそう唸っていた。