第十一話
「これは……」
息を呑む光景が、俺の眼前に広がっていた。
そこは広々とした空間――運動場と呼ぶに相応しい、訓練のための部屋だった。
石造りの床には複雑な幾何学模様が刻まれ、薄暗い光を放っている。
天井は高く、屋外の空間を思わせる開放感。
壁という壁に、歳月を重ねた様々な訓練用の道具が粛然と掛けられている。
古雅な木製の人形、重厚なる鉄球、そして俺には名前も分からぬ異国の武具。
剣、槍、弓、そして遥かなる大陸より伝来せし奇怪なる武器の数々。
それらが兵器庫の至宝の如く、整然たる美しさを以て配列されていた。
これは――ラトが日々の鍛錬に身を捧げていた場所なのであろうか。
百年もの永き歳月、独り此の地にて武技を研鑽し続けてきたのか。
壁に掛けられた武器の数々が、彼女の果てしなき孤独を物語るかのように、薄暗き光の中で静寂を湛えて佇んでいた。
ドンッ!
背後の扉から雷鳴の如き激しい衝撃音が響いた。
ラトが兎人族の誇る膂力を以て体当たりを仕掛けているのであろうか。
しかし血で強化した扉は微動だにしない。
――!――!
続いて銃声が轟然と響く。
愛用のリボルバーで扉を撃ち抜かんとしているのか。
だが、厚い木材と血の魔力によって強化された扉は、弾丸すらも弾き返しているようだった。
「う~んこの扉も硬いね~。お兄さん、几帳面だな~」
扉越しにラトの愛らしい声が聞こえてくる。
少し困惑したような、それでいて楽しそうな響き。
ドンッ!ドンッ!
今度は蹴りを入れているようだ。
兎の脚力を活かした攻撃だろうが、血で固着した扉はびくともしない。
俺は安堵のため息をついた。
とりあえず、時間は稼げそうだ。
ラトがあの扉を突破するには、かなりの時間がかかるに違いない。
回ってくるにしても、時間がかかるはず。
その間に――何か対策を考えなければならない。
ふぅ……
俺は深々と息を吸い込んだ。
冷厳なる空気が肺腑を満たし、昂ぶった心が徐々に鎮静を取り戻していく。
左腕の痛みは未だ鋭く脈打つが、生命に関わる傷ではない。
血は流れ続けているが、まだ戦うに足る力は残されている。
そうだ――冷静になれ。
この状況は確かに危機であるが、同時に好機でもあるのだ。
俺は左腕より滾々と流れ続ける血液を見つめた。
深紅の生命の河が石床に滴り落ち、小さき紅の池を静かに湛えている。
その血液に魔力を注ぎ込めば、俺の意志によって自在に操ることができるのだ。
出血――それは俺にとっては武器でもある。
俺は意識を左腕の傷口に集中させた。
リリィから受け継いだ朱脈操術が俺の意志に呼応し、流れ続ける血液の動きが緩やかになっていく。深紅の液体が傷口で渦を巻き、出血の勢いが徐々に弱まった。
「くそっ、いてぇ……」
痛みに震えながら、俺は出血を完全には止めずに流量を調整する。
血液が糸のように細く流れ続け、石床に赤い筋を描いていく。
痛みは和らいだが、まだ血は滴り落ちている。
これでいい。
完全に止血してしまえば、確かに体力の消耗は抑えられる。
魔法の威力を高めたり、魔力で身体強化をする際、俺は体内の血液を魔力として消費しなければならない。これ以上の血液の浪費は、確実に俺の戦闘能力を削ぐことになるだろう。
だが一方で――出血により操作可能な血液が増えるのは、大きな利点でもある。
血の入った瓶の数が、単純に増えたようなものだ。
傷から流れ続ける血は、武器として活用できる。
これを利用しない手はない。
例えリスクがあっても……出血量が多くてぶっ倒れるかもしれないとしても……
「あと……あと使える血液はどのくらいだ?」
ラトに対抗するには、俺の持っているものを全部出し切らなければならない。
そのためにも自分が使える血の量の確認が必須。
俺は革袋の中身を確認した。
残されているのは――
小瓶が1つ、中瓶が2つ、大瓶が1つ。
それと剣に纏わせている、中瓶半分の量の血液。
出血量は10秒で中瓶が溜まるくらい。
これ以上増やすことはできない。動けなくなれば元も子もない。
これが俺の持ちうる全力の戦力。
これまでの戦闘で飛び散った血液は基本的に使えない。
攻撃を防ぐ際に、飛び散った血液は水滴が小さすぎて操作の対象外。
時間が経ちすぎて固まってしまった血液も同様だ。
魔法で使用したまとまった血液であれば、避けられた場合…塊として残りやすい。
そして液体のままでいる時間も長い。
意図的に纏わせるなど薄くして使用することが無ければ、さっきの奇襲したときのように操作できる血液もあるはずだが……
おそらく、もうない。
このリソースを全て割けば、彼女に勝てるだろうか?
ラトの固有魔術『止針ノ兎刻』――
彼女自身の時間を停止させることで、あらゆる攻撃を無効化する能力。
傷つくことも、老いることも、死ぬこともない。
まさに無敵と呼ぶに相応しい、絶対的な防御能力。
だが――本当に完全無欠なのだろうか?
俺は暗がりの中で考えを巡らせた。
この世に完璧な魔術など存在しない。
どれほど強力な能力であっても、必ず何らかの制約や弱点があるはずだ。
リリィの朱脈操術にしても、血液という有限のリソースに依存している。
ラトの能力にも、きっと何かしらの限界があるに違いない。
無敵と言っているが、完全な無敵ではないなんてことはないのか?
彼女は嘘を言っている雰囲気ではなかった、はったりを言う可能性もある。
完全な無敵ではなく、発動と解除を切り替えている可能性もある。
そうであるならば攻撃のタイミングで能力を解除した瞬間、俺の一撃が命中する可能性もあるはずだ。いや、けどさっきの奇襲攻撃も、彼女は完全に防いでいた。
じゃあやはり、常に無敵なのか?
――分からない。
俺の思考は堂々巡りを続け、明確な突破口は見つからなかった。
あまりにも理不尽な能力を前に、戦術も戦略も全て無意味に思えてくる。
どれほど血液を注ぎ込もうと、どれほど巧妙な策を弄しようと、無敵の前では全てが徒労に終わるのではないか。
冷や汗が額に滲み、握りしめた拳が微かに震えた。
運動場の冷たい空気が、俺の絶望感を一層深めていく。
その瞬間――
―――!
轟音と共に、背後の扉が粉々に砕け散った。
重厚な木材の破片が宙に舞い散り、血で強化したはずの扉が無残にも崩壊していく。
石床に響く轟然たる響きが運動場全体を震わせ、壁に掛けられた武器たちがかちゃかちゃと音を立てた。
「やっと壊れた~!」
愛らしい声と共に、ラトの小さな姿が煙の向こうから現れた。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が俺を見つめている。
手には例の愛用のリボルバーが握られており、まだ硝煙が立ち上っていた。
「なっ……!?」
俺は愕然とした。
血で強化したはずの扉が、こうも簡単に破壊されるとは。
確かに詠唱をしていない分、魔力の込め方が不十分だったのか――?
それとも、彼女の攻撃力が俺の想像を遥かに上回っていたのか。
その瞬間、ラトの愛銃が俺に向けて構えられた。
――!
躊躇なく引き金が引かれる。
轟音が運動場に響き、弾丸が俺に向かって飛来した。
火薬の刺激的な匂いが鼻腔を満たし、硝煙が白い霧となって立ち込める。
「くそっ!」
俺は咄嗟に左腕から流れ続けている血液に意識を集中させた。
そして……この部屋でこれまで出血した血液。
全部かき集めれば一つの塊になる。
深紅の液体が俺の意志に呼応して宙に舞い上がり、弾丸の軌道上で盾を形成する。
「 藤布!」
血液が空中で円形に展開され、薄いながらも弾丸を受け止めるのに十分な密度を保った。
弾丸が血の盾に激突し、赤い飛沫が四方八方に散らばる。
しかし盾は持ちこたえ、俺への直撃を防いでくれた。
そのまま運動場の奥にある扉へと駆け出した。
「ねえねえまだ逃げるの~?もう勝てないんだよ~?私無敵なんだよ~?もう十分頑張ったじゃん。努力したじゃん。私をあそこまで追い込む人は中々いないんだよ?いつもだったらわざと隙を見せて、固有魔術を披露するのに~」
ラトが楽しそうに声をかけてくる。
しかし、その手に握られた銃は間違いなく俺の命を狙っている。
「諦めなよ。こうしておしゃべりできるのは嬉しいけど、そこまで無理する必要はないと思うな~。死ぬのが分かってるのに、必死に足掻くだなんて……醜いよ。とっても醜い。だからさ、さっさと諦めようよ!ね?死の?」
石床を蹴る音が武器の金属音に混じって響き、冷たい空気が頬を撫でていく。
背後でラトの足音が軽やかに追いかけてくるのを感じながら、俺は必死に次の部屋を目指した。
扉の取っ手に手をかけた瞬間、俺は勢いよく扉を開け放つ。
そして彼女の言葉をよそに、隣の部屋へと転がり込んだ。
そこは――寝室だった。
薄紫色の天蓋付きベッドが部屋の中央に優雅に鎮座し、絹のカーテンが幽玄に垂れ下がっている。枕元には小さな魔法の明かりが柔らかく灯り、琥珀色の光が部屋全体を慈愛深く包んでいた。ラベンダーの芳香がほのかに漂い、安らぎの空間を静謐に演出している。
絨毯は深い紫色で、足音を吸収するほどに厚く敷き詰められていた。
壁には優美な絵画が飾られ、小さな化粧台には銀の手鏡や香水瓶が整然と並んでいる。
まるで貴族の令嬢の私室のような、上品で女性らしい空間。
これもラトの部屋なのだろうか。
百年もの間、彼女がここで眠っていたのか。
ベッドの上には愛らしいぬいぐるみが置かれている。
俺は即座に扉を背にして身を寄せ、左腕から流れる血液を扉全体に塗りつけていく。
しかし――足りない。
先ほどラトの弾丸を防ぐのに出血した血液を使い果たしてしまったため、この数秒間の出血量では扉全体を覆うには到底足りなかった。
深紅の液体が扉の表面に薄く広がるだけで、強化に必要な密度には程遠い。
この際、しょうがない。
俺は躊躇なく革袋に手を突っ込んだ。
そして――中瓶の冷たいガラスを引き抜く。
コルクを引き抜くと、琥珀色の魔法の明かりに照らされた血液が、紅玉のような輝きを放った。俺はその血液を惜しげもなく扉に叩きつける。
深紅の液体が木材の表面を覆い、出血した血液と混じり合って十分な厚みを形成していく。
痛みに顔を歪めながら、扉の隙間という隙間に血を染み込ませた。
取っ手の周り、蝶番の部分、床との境目――
あらゆる箇所に血液を浸透させ、魔力で固着させていく。
今度は詠唱も忘れない。
「血と肉は乾き降りて川の如く、強固なる渦とならん。縮織!」
血液に込められた魔力が扉の強度を飛躍的に高め、まるで岩盤の一部と化したかのような堅牢さを与えている。
深紅の膜が古雅な木材を覆い、先ほどよりも遥かに強固な障壁を形成した。
ラベンダーの香りに血の生臭さが混じり合い、優雅だった寝室の空気が一変する。
魔力が空間に満ち、ぴりぴりとした緊張感が肌を刺していた。
ドンッ!
案の定、背後から激しい衝撃音が響いた。
ラトの蹴りが扉を叩く音が、寝室の静寂を破って木霊する。
しかし今度は扉が微動だにしない。
詠唱を伴った血の魔術によって強化された障壁は、彼女の攻撃を完璧に受け止めていた。
ドンッ!ドンッ!
何度も蹴りを叩き込む音が響くが、扉は巌の如く不動を保っている。
――!――!
続いて銃声が轟く。
愛用のリボルバーで扉を撃ち抜こうとしているのだろうが、血で強化された木材は弾丸すらも弾き返していた。
「はぁ……またこれ?そんなに引きこもって楽しいの?芸の一つ覚えのように扉の強化を繰り返してさ~、意味なんてないんだよ~。もうやめようよ~こんな楽しくないことさ~」
扉越しにラトの声が聞こえてくる。
蹴りと銃声が交互に響き、轟音が寝室に響き渡る。
執拗に続く攻撃音の中、俺は必死に思考を巡らせた。
残りの血液の貯蔵は少ない。
各大きさの瓶が一個ずつ。
そして出血も、いつまでも続けているわけにはいかない。
失血が進めば戦闘能力は確実に低下し、最終的には意識を失うことになる。
長期戦は明らかに俺に不利だ。
つまり――この数分間で勝負を決めなければならない。
ラトの『止針ノ兎刻』を何とかして攻略し、確実に仕留める必要がある。
しかし――どうする?
俺は寝室の中を見回しながら、必死に策を巡らせた。
天蓋付きのベッド、化粧台の鏡、壁に飾られた絵画――
この部屋にある物を利用して、何か打開策を見つけられないか。
その時――ふと、ラトの言葉が脳裏を過った。
「その階層主を倒すことが出来たら、次の層への階段が現れる仕組みなの」
階層主を倒せば――次の階層への道が開かれる。
ちょっと待て、倒すってなんだ?
寝室の琥珀色の光に包まれながら、俺の思考が一点に収束していく。
天蓋から垂れ下がる絹のカーテンが微かに揺れ、ラベンダーの馥郁たる香りが鼻腔を満たしていた。血の鉄錆びた匂いと混じり合い、優雅な空間に死の気配を漂わせている。
もし――
その瞬間、俺の脳裏に一つの可能性が閃いた。
まるで暗闇に差し込む一筋の光のように、突破口となり得る妙案が浮かんだのだ。
「そうか……」
俺の唇から、微かな呟きが漏れた。
寝室の柔らかな琥珀色の光の中で、俺の表情に希望の色が宿る。
確証はない。だが――これしかない。
もう一回――あいつを――
俺は立ち上がろうとした。
左腕の痛みを堪えながら、革袋に残された血液の瓶を確認する。
まだ戦える。まだ諦めるわけにはいかない。
リリィのために――
その時だった。
ふと気づくと、背後からの音が止んでいた。
先ほどまで執拗に続いていた蹴りの音も、銃声も、完全に静まり返っている。
寝室には再びラベンダーの芳香と、血の生臭さが混じり合った静寂が戻っていた。
まるで嵐の前の静けさのように、不吉な予感を孕んだ沈黙が空間を支配している。
絹のカーテンすらも動きを止め、琥珀色の明かりだけが静謐に揺らめいていた。
あれ……?
嫌な予感が背筋を駆け上がった。
冷たい汗が首筋を伝い、心臓の鼓動が急激に早まっていく。俺は扉に意識を集中させ、血液の気配を探ろうとする。彼女の衣装に付着しているはずの、俺の血液の反応を――
「……消えてる?」
ラトから感じていたはずの血液の気配が、完全に失われていた。
扉の向こうから感じ取れていた微かな魔力の痕跡が、霧のように消散している。
まるで彼女の存在そのものが、この世界から掻き消えてしまったかのように。
まさか――彼女はもうそこにいない!?
寝室の温かな空気が急激に冷え込み、肌に刺すような寒気が走った。
ラベンダーの香りさえも薄れ、代わりに金属の冷たい匂いが鼻腔を侵していく。
まさか――
俺の顔が青ざめた。
血の気が引き、唇が震える。急いで扉から身を離し、寝室の奥を見回す。天蓋付きベッドの向こう、紫の絨毯が敷き詰められた空間の彼方に――確かに別の扉があった。
居間へと続く扉。
最初にラトと出会った、あの暖炉のある部屋への入り口。
そして――その扉は既に開け放たれていた。
闇のように口を開けた入り口から、暖炉の暖かい風が流れ込んでくる。
「しまった……!」
俺の脳裏に、この階層の構造が鮮明に浮かび上がった。
居間を中心とした回廊状の配置――
寝室、居間、そして武器庫。
これらの部屋は一直線に繋がっているのだ。
その瞬間、俺が振り返った先の武器庫に、ラトの小さな影が現れた。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が俺を捉えている。
愛用のリボルバーが既に俺を狙って構えられており、薔薇色の唇に勝利の笑みが浮かんでいた。
「あれれもう気付いてたんだ?相変わらず勘が鋭いね」
愛らしい声が武器庫から寝室へと響く。
その声色には、獲物を追い詰めた猟師の満足感が滲んでいた。
――!
轟音が寝室を震わせた。
武器庫の奥からラトが放った弾丸が、まるで意思を持ったかのように正確無比に俺の心臓を狙って飛来する。距離は十数メートル――普通なら命中精度が落ちるはずの射程だが、彼女の腕前は人間の域を遥かに超えていた。
硝煙が白い霧となって立ち込め、火薬の刺激的な匂いが優雅な寝室の空気を汚していく。
咄嗟に足元を見下ろす。
この数秒間で左腕から流れ続けた血液が、紫の絨毯に小さな深紅の水溜まりを作っている。琥珀色の魔法の明かりに照らされた血液が、まるで暗い宝石のように鈍く光っていた。
「藤布!」
俺の意志に呼応して、血液が重力に逆らって宙に舞い上がった。
深紅の液体が空中で円形に展開され、弾丸の軌道上で盾を形成する。
薄いながらも、俺の命を守るのに十分な密度を保った血の障壁。
――!
弾丸が血の盾に激突した瞬間、凄まじい衝撃が俺の全身を貫いた。
赤い飛沫が四方八方に散らばり、寝室の優美な壁紙を血で汚していく。ラベンダーの芳香に鉄錆の匂いが混じり合い、死の気配が空間を支配した。
しかし――盾は持ちこたえた。
弾丸の運動エネルギーが血液に吸収され、俺への直撃を防いでくれる。
だが、今のは紙一重だった。
血も飛び散り、既に盾は崩壊。
これ以上この位置に留まっていては、次の弾丸で確実に仕留められてしまう。
俺は即座に射線から外れるべく、運動場側の扉へと身を翻した。
絨毯の上を滑るように移動し、扉の死角となる位置に身を潜める。
同時に先ほど血で固着させた扉の魔術を解除。
深紅の膜が木材から剥がれ落ち、液体となって俺の足元に流れ戻ってくる。
扉の強化が解除され、再び普通の木製の扉に戻った。
取っ手に手をかけた瞬間、背後からラトの足音が聞こえてきた。
紅白の縞模様の靴下に包まれた足が、石床を軽やかに踏みしめる音。
その音は次第に近づいてきており、彼女が寝室へと侵入してくるのは時間の問題だった。
「まだ逃げるの~?もうそろそろ、きついんじゃない?」
俺は歯を食いしばりながら扉を開け放ち、運動場へと駆け込んだ。
冷たい石床が足裏に伝わり、訓練用具の金属音が微かに響く。広々とした空間に硝煙の匂いがまだ残っており、先ほどの激戦の痕跡を物語っていた。
背後でラトの足音が確実に近づいてくる。
兎人族の俊敏性を活かした、無音の歩み。
しかし俺には、彼女の接近が手に取るように感じられた。血液を通じて感知できる、微かな魔力の気配が俺の感覚を研ぎ澄ましていく。
寝室の扉口に、ラトの小さな影が現れるのは――もう間近だった。
その瞬間、琥珀色の瞳が俺を捉えた。
兎耳がぴょこんと揺れ、薔薇色の唇に勝利の笑みが浮かんでいる。愛用のリボルバーが既に俺を狙って構えられており、引き金にかかった指が微かに動いた。
こいつ決め打ちで、俺の逃げ道を読んで……
寝室に入ると同時に撃ってきやがった――
俺は反射的に血液を操作し、開け放たれた扉を勢いよく閉めた。
深紅の液体が意思を持ったかのように蠢き、扉を内側から引っ張る。
重い木材がきしみながら閉じていく――
――!
轟音が響いた瞬間、扉が完全に閉まった。
弾丸が扉の間をすり抜ける寸前での閉鎖。
扉が閉まる速度と弾丸の到達――まさに紙一重のタイミングだった。
「はぁ……さすがに危なかった」
俺の荒い息遣いが冷たい運動場の空気に白く溶けていく。
冷や汗が額から滴り落ち、心臓が太鼓のように激しく打ち鳴らされていた。
もしも――もしもあと一瞬でも反応が遅れていたら。
武器庫からの奇襲に気づけず、そのまま血の海に沈んでいただろう。そして今の銃撃も、扉を閉めるのがほんの僅かでも遅れていれば、弾丸が俺の頭部を貫いていたに違いない。
まさか最初のラトの作戦に、今度はまんまとはまるとは……。
彼女の狡猾さと戦術眼を、完全に見くびっていた。
「気を抜いてんじゃないぞ、俺!すぐに扉を強化しないと……」
先ほど解除したばかりの血液を再び扉に向けて操作した。
深紅の液体が木材の表面を覆い、隙間という隙間に染み込んでいく。
しかし一度解除したため、血液の量は明らかに減少していた。
扉全体を覆うには心もとない厚さしか確保できない。
それに――運動場側から扉を見ると、その損傷は一目瞭然だった。
ラトの執拗な攻撃によって木材は所々ひび割れ、表面は弾痕だらけ。まるで戦場の残骸のように無残な姿を晒している。この状態では、どれほど血で強化しても長時間は持たないだろう。
ドンッ!
案の定、背後から激しい衝撃音が響いた。
ラトの蹴りが扉を叩く音が、運動場の静寂を破って木霊する。
だが今度は扉が軋むような音を立てた。明らかに限界が近い。
「ここはもう駄目か」
俺は即座に時計の間への移動を決断した。
運動場と時計の間を隔てる扉は、先ほどの激戦で既に破壊されている。
そこから書庫へと逃げ込み、さらに時間を稼がなければならない。
壁に掛けられた訓練用具が微かに揺れる中、俺は破壊された扉口へと駆け出した。
石床を蹴る音が響き、冷たい空気が頬を撫でていく。
書庫への入り口に到達した瞬間――
――!――!
立て続けに爆音が響いた。
運動場と寝室を隔てる扉が、ついに限界を迎えて崩壊したのだ。重い木材の破片が宙に舞い散り、血で強化したはずの障壁が無残にも粉々になっていく。
俺は時計の間へと身を躍らせながら、背後で響く破壊音に身を震わせた。
しかし、もはや安息の時は残されていない。
ラトの足音が、確実に俺を追いかけてくるのを感じながら――
俺は時計の間へと飛び込んだ。