第十話
「あははははは……」
ラトが笑い始めた。
最初は微かな笑い声だったが、次第に大きくなっていく。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
ラトの笑い声が時計の間に響き渡る。
狂ったような時計の針音と混じり合い、不協和音の交響楽を奏でていた。
琥珀色の瞳に涙を浮かべながら、何かがおかしくて仕方がないといった様子で笑い続けている。薔薇色の唇が弧を描き、兎耳がぴょこんぴょこんと揺れた。
その笑い声には、歓喜と絶望と、そして何か別の感情が入り混じっている。
俺は剣を握りしめたまま……
恐怖に身体が震えるのを感じていた。
カチ、カチ、カチ……
チク、タク、チク、タク……
シャラ、シャラ、シャラ……
壁一面の時計たちが刻む針音が、ラトの狂気じみた笑い声と共鳴して響いている。
振り子が規則正しく揺れ、砂時計の砂粒が落ち続け、掛け時計の針が永遠の時を刻んでいる。
それらの音がラトの笑い声に合わせて波打ち、俺の神経を削り取っていく。
「あははははははは!」
ラトの頭が左右に振られ、蜂蜜色の髪が石床に散らばった。
兎耳がぺたりと寝そべり、まるで糸の切れた人形のように身体が弛緩している。
それでも笑い声だけは止まらない。
琥珀色の瞳から涙がとめどなく流れ落ち、頬を伝って石床を濡らしていく。
しかし――その涙は悲しみのものではなかった。
あまりの愉快さに流れる、歓喜の涙。
最高の喜劇を見ているかのような、狂気に満ちた感情の発露。
薔薇色の唇が大きく開かれ、白い歯が時計の明かりを反射している。
「あはは……あははははははははは!」
俺の背筋に冷たい汗が流れた。
剣を握る手が微かに震え、血液が刃の表面で脈動している。
しかし、剣は一向にラトの首筋を貫くことはない。
見えない障壁が俺の一撃を阻み、完璧に防御していた。
なんだ……これは。
なんなんだ、この状況は。
俺の理解を超えた現象に、思考が追いつかない。
物理法則を無視したかのような、異常な光景。
血の魔術で強化した俺の全力の一撃が、全く意味をなしていない。
「く、くそっ!」
俺は殺したんじゃなかったのか?
勝ったんじゃなかったのか?
なのになんで……
俺は結局、コイツの手のひらで転がされていたのか?
俺は再び剣を振り上げた。
今度こそ確実に――
血液を更に凝縮させ、剣の威力を最大限まで高める。
深紅の液体が刃の表面で激しく脈動し、生きているかのように蠢いた。
――!
俺は渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
風を切る音と共に、血に染まった刃がラトの首筋に向かって突進する。
けれど―――
やはり感触はない。
剣先は再び、見えない障壁に阻まれて停止する。
どれほど力を込めても、どれほど血液を注ぎ込んでも、結果は同じだった。
空気に厚い壁があるかのように、刃は彼女の肌に触れることすらできない。
「なんで……なんで……」
俺は何度も、何度も剣を振り下ろした。
右から、左から、上から――
あらゆる角度から攻撃を仕掛けるが、全て無意味だった。
――!――!――!
金属音が時計の間に響き渡る。
俺の必死の攻撃が、全て見えない壁に阻まれて弾かれていく。
血液が飛び散り、汗が額から滴り落ち、息が荒くなっていく。
それでもラトは相変わらず笑い続けていた。
「あははははははは!無駄だよ~無駄無駄無駄~!」
ラトの笑い声が、俺の絶望を嘲笑うかのように響く。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が俺を見上げている。
「これは……なんの冗談だ」
俺の声が震えている。
剣を握る手が汗で滑り、全身に脂汗が滲み出ていた。
心臓が激しく打ち鳴らされ、呼吸が浅くなっていく。
思えば――そうだ。
ラトを転ばせるとき、俺は血の魔弾で彼女の左足を弾いた。
本来なら貫通している。出血だってもちろんしているはずだ。
なのに……彼女の左足には傷一つない。
「どういうことだ!答えろ!」
俺は震え声でラトを問い詰めた。
理解できない。何も理解できない。
この異常な現象の正体が、どうしても掴めなかった。
その時――
「あはははは……あ、はぁ……ふぅ」
ラトの笑い声が次第に弱くなっていく。
荒い息を吐きながら、琥珀色の瞳が俺を見つめた。
そこには今まで見たことのない、醜悪な表情。
薔薇色の唇が歪んだ笑みを形作り、兎耳がぺたりと寝そべっている。
その表情は、これまでの愛らしさとは正反対の、邪悪そのもの。
「ねえ殺した〜って思った?ねえねえ殺した〜って思った〜?」
ラトが俺を見上げながら、煽るような声を出した。
琥珀色の瞳に悪意が宿り、薔薇色の唇が嘲笑を浮かべている。
「思った〜でしょ〜?絶対思った〜よね〜?そうだよね!歓喜に震えたよね!やったー!って心の中で叫んだよね!安堵のあまり倒れそうになってたよね!嬉しくて嬉しくて嬉しくて、どうしようもないくらい打ち震えてたよね!けどねけどね~ざんね~ん!ぷぷぷ~!」
ラトが何度も何度も俺を煽り続ける。
兎耳がぴょこんと動く度に、その醜悪な笑みが深くなっていく。
時計の針音に混じって、彼女の嘲笑が室内に響き渡った。
「さいこ~、本当に最高だよ!その顔が見たかった!その顔を見るために、隠してきたんだよ!演じてきたんだよ!技に当たらないように必死で、隠して戦ってきたの!ぷぷぷ、ぷっははっ、あはははは!勝ちを確信して……なのに攻撃が意味をなさない。全部無駄で無意味だったって!ラトちゃんの手のひらの上で遊ばれていたって!その事実が分かったときのその顔!あぁ~最高~」
その表情――
今まで見せていた天真爛漫な笑顔、無邪気な仕草、愛らしい言動。
それらが全て演技だったことを物語る、恐ろしいほど邪悪な顔。
琥珀色の瞳に宿るのは純粋な悪意で、薔薇色の唇から漏れるのは残酷な嘲笑だった。
俺の全身が震え上がる。
この少女の正体――本当の姿が、ようやく理解できた気がした。
「……ふざけるな!」
俺は大声で叫んだ。
声が時計の間に響き渡り、無数の針音に混じって木霊していく。
剣を握る手に力が込もり、血液が激しく脈動した。
「早く……早く説明しろ!なんでお前は生きている?なんで剣が通らないんだ!答えろ!」
俺の怒声が、ラトの醜悪な笑みを一層深くさせる。
兎耳がぴょこんと立ち上がり、琥珀色の瞳が楽しそうに輝いた。
まるで俺の困惑と怒りが、最高の娯楽であるかのように。
「あ〜怒った怒った〜。でもね〜お兄さん」
ラトが身体を起こそうともせず、石床に横たわったまま俺を見上げる。
その仕草さえも、どこか演技じみていて気味が悪い。
「なんで〜お兄さんだけが〜固有魔術を使えるって思ってるの〜?」
……?
は?
固有魔術?
その瞬間、俺の思考が停止した。
ラトの言葉が、まるで雷撃のように俺の頭を打ち据える。
固有魔術――
この世界でも極めて稀な、個人にのみ備わった特殊な魔術。
その者にのみ、その術は扱え、他の誰一人その魔術は使用できない。
あらゆる理論が通用せず、神の御業とも称される奇跡。
俺がリリィから受け継いだ、血を操る特殊な能力もこの固有魔術の一種。
この世で今、この術を使えるのは俺だけだ。
それを――この少女も?
「まさか……お前も」
俺の声が掠れている。
嫌な予感が背筋を駆け上がり、冷や汗が額に滲んだ。
剣を握る手が震え、血液の流れが不安定になっていく。
まさか、まさか――
この異常な防御能力も、固有魔術なのか?
「正解〜!」
ラトが嬉しそうに手を叩いた。
兎耳がぴょこんと揺れ、琥珀色の瞳が歓喜に輝いている。
まるで謎解きゲームで正解を当てられたかのような、純粋な喜びを浮かべていた。
しかし、その笑顔の奥に潜む邪悪さは変わらない。
薔薇色の唇が歪んだ弧を描き、俺を見つめる視線に残酷な光が宿っている。
「ねぇねぇ、お兄さんは『不思議の国のアリス』って話、知ってる?」
「不思議の……なんだそれは?」
俺の声は掠れ、警戒心が隠しきれずに滲み出ていた。
剣を握る手に汗が滲み、血液が不安定に脈動している。
「えー知らないの?勇者の手記読むくらいファンなら、知ってると思ったのにな~。とっても面白いお話なのに〜」
ラトが残念そうに頬を膨らませる。
その仕草は確かに愛らしく、暖炉の明かりに照らされた横顔は人形のような美しさを湛えていた。しかし俺にはもう、その演技じみた愛らしさに騙されるつもりはない。
この状況で雑談など――何を企んでいるのか。
なんだ?なんのつもりだ?
そもそもそんな話、聞いたこともない。
「ラトちゃんはその世界の住民なのかな~って思うことがあるの。不思議な国の住人。その話にはラトちゃんみたいな兎が出てくるんだよ。チョッキを着て懐中時計を持った白ウサギの方じゃないよ?お茶会をしてる三月ウサギの方。あれを見たとき、ラトちゃんみたいだなって思った」
「何を言ってるのか、全く分からない」
「あはは~そうだよね。不思議な国のアリスって話ではね~、簡単に言うと女の子がウサギの穴に落ちて不思議な世界に迷い込む話なの。そこでは終わらないお茶会をやっててね、みんな永遠に同じ時間を過ごしてるの〜」
ウサギの穴に落ちて迷い込む……
終わらないお茶会……
意味が分からない。
「そのお茶会を開いてるのが三月ウサギなの。ず~とお茶を飲んでてね、帽子屋と眠りネズミとともに支離滅裂な会話を繰り広げ続けてるの。その中の帽子屋が言うの『時間とけんかしてから、ずっと六時なんだ』ってね。面白いでしょ?だから三月ウサギは永遠に終わらないお茶会に閉じ込められるの。時間という名の牢獄にね」
「話が見えてこない。なにが……何が言いたいんだ?」
「ん~つまりさ、ラトちゃんはこの三月ウサギと一緒なの。この固有魔術はラトちゃんを、三月ウサギにするの。このダンジョンもある意味、時間の牢獄だけど……ラトちゃんは元々、時間の牢獄に自分を閉じ込めることが出来る。いつだって三月ウサギになれる。そしてこのダンジョンにいる時はずっと三月ウサギなの。この固有魔術を常に発動させているから。だからあなたの前のラトちゃんは、常に三月ウサギ。どれだけ時計が時間を刻もうが、ラトちゃんは六時のまま動かなくなる」
意味が――分からない
何を言ってるんだ、コイツは?
そのとき――気付いた。
ラトの瞳は、時計のようだった。
琥珀色の虹彩の中に、微細な針のような模様が浮かんでいる。
懐中時計の文字盤を映し込んだかのように、十二の刻みと二本の針が瞳の奥で静止していた。
そして、その針は確かに六時を指している。
永遠に止まった時を宿した、狂気の時計。
「固有魔術――止針ノ兎刻」
俺の背筋に、氷のような冷気が走った。
ラトの声が次第に狂気を帯びていく。
兎耳がぴょこんぴょこんと不規則に動き、琥珀色の瞳に異常な光が宿った。
まるで長い年月の孤独が、彼女の精神を蝕んでいるかのような――
「ラトちゃんの時間は止まったの。だからずっと変わらない。傷つきもしない。死にもしない。永遠に美しく、永遠に可愛く、永遠に少女のまま。ね?素敵でしょ?」
薔薇色の唇が歪んだ笑みを浮かべ、白い歯が時計の明かりを反射する。
「だからさお兄さんはラトちゃんを傷つけられない。だってラトちゃん、この通り、無敵だから」
彼女の高笑いが時計の間に響き渡った。
無数の針音と混じり合い、まるで地獄の祝祭のような不協和音を奏でている。
振り子時計の重厚な響き、掛け時計の軽やかな音色、砂時計の細やかな囁き――
それらがラトの狂笑に合わせて波打ち、俺の全身から血の気が引いていく。
無敵――如何なる攻撃も通用しない。
あれが事実なら――
「ふざけてる……」
冷たい汗が背筋を伝って流れ落ち、心臓が激しく鼓動していた。
喉の奥が乾き、息苦しさが胸を締め付ける。
石床の冷たさが足裏から伝わり、暖炉の温もりさえも届かない。
無敵……無敵ってなんだよ?
あのなのがあんのか?あっていいのか?
まだ一階層だぞ?ダンジョンは始まったばかりだぞ?
なのに――こんな理不尽あってたまるか!
三年間の準備、血と汗で培った技術、リリィから受け継いだ力……
全部無駄だったとでも言いたいのか?
この少女の前では何の意味もないのか?
そんな……そんなふざけたことが、あっていいはずがない。
無敵――絶対的な防御能力。
それが真実なら、この戦いに勝利することは不可能だ。
どれほど血液を注ぎ込もうと、どれほど技術を駆使しようと、傷一つ与えることができない。だって無敵なのだから。無敵の前に、どんな攻撃も意味がない。
リリィ――
妹の石化した顔が脳裏に浮かぶ。微笑みを浮かべたまま動かない、冷たい石の彫像。「お兄ちゃん、助けて」という幻聴が、まざまざと耳朶を打った。あの日の夜風の冷たさ、月光に照らされた妹の青白い頬、石化が進行していく恐怖――全てが鮮明に蘇ってくる。
「助け…られない……」
俺の唇から、絶望の呟きが漏れた。
時計の針音だけが響く静寂の中、俺の希望が音もなく崩壊していく。
暖炉の明かりも、血液の脈動も、全てが遠く感じられた。
その時――俺の視界の端で何かが動いた。
ラトの右手――いつの間にか、あの愛用のリボルバーが握られている。
黒光りする銃身が時計の明かりを鈍く反射し、その威容を静かに誇示していた。
「……!?」
俺は息を呑んだ。
いつ、どこから――?
先ほどまで、確かに彼女の手は空だったはず。
倒れ込んだ際に銃を手放し、どこかに転がっていたはずなのに。
しかし今、その死の道具は再び彼女の掌中に収まっている。
気付かないうちに、魔法で引き寄せていたのか……?
俺が絶望し、暗闇にふさぎ込んでいた内に……。
なんてことだ……俺は何をしているんだ……。
俺はまだ負けてないじゃないか。
死んでないじゃないか。
なのに勝手に諦めやがって……。
俺が諦めれば妹はどうなる?見殺しにでもするつもりか?
無敵がなんだ!三月ウサギがなんだ!
そんなぬるい覚悟でここに来たわけじゃないだろ!
俺は反射的に身を翻した。血液を足に集中させ、人間離れした跳躍力で宙に舞い上がる。
この場から一刻も早く離れなければ――
何か対策を考えるためにも、距離を取らなければならない。
石床を蹴る音が時計の針音に混じって響く。
俺の身体が弧を描きながら、運動場の部屋へと続く扉に向かって飛んでいく。
血液が魔力の如く作用して全身を駆け巡り、筋肉が強化されて跳躍力が倍増していた。
「あ〜あ、逃げちゃうんだ〜。つまんない〜」
ラトの愛らしい声が聞こえてくる。
しかし、その声色には失望よりも、むしろ楽しそうな響きが含まれていた。
まるで鬼ごっこを始める子供のような――
――!
突如として轟音が響いた。
俺の左腕に激痛が走る。熱い何かが肉を貫き、血が勢いよく噴き出した。
弾――愛用のリボルバーから放たれた必殺の一撃が、俺の左腕を貫通したのだ。
「ぐあっ……!」
熱い!
痛みが熱となり、顔が歪む。
宙に舞っていた俺の身体がバランスを失い、予定していた軌道から外れて床に叩きつけられた。石の冷たさが頬に伝わり、埃っぽい匂いが鼻腔を満たす。
咄嗟に剣を左手側に動かしていたのが幸いした。
血液で操作していた剣が、弾丸の軌道を僅かに逸らしてくれたのだ。
もし完全に直撃していれば、左腕は使い物にならなくなっていたに違いない。
それでも傷は深い。
服は赤く染まり、血が石床に滴り落ちている。
鉄錆の匂いが強烈に立ち込め、痛みが脳天まで突き抜けていった。
「惜しかった〜。もうちょっとで心臓だったのに〜」
ラトの残念そうな声が背後から聞こえてくる。
人の命を何とも思っていない。
俺は歯を食いしばりながら立ち上がった。
左腕から流れる血を右手で押さえ、よろめきながら扉に向かって駆け出す。
この場に留まっていては、次の弾丸で確実に仕留められてしまう。
扉の取っ手に手をかけた瞬間、俺は勢いよく扉を開け放った。
そして血まみれの身体で、隣の部屋へと転がり込む。
背後で扉が閉まる音が響き、俺は即座に左腕から流れる血液を扉全体に塗りつけていく。
痛みに顔を歪めながら、扉の隙間という隙間に血を染み込ませた。
取っ手の周り、蝶番の部分、床との境目――
あらゆる箇所に血液を浸透させ、魔力で固着させていく。
「縮織……!」
掠れ声で詠唱すると、血液が扉の強度を飛躍的に高めた。
深紅の膜が木材を覆い、まるで岩盤の一部と化したかのような堅牢さを与えている。
これで少しの時間は稼げるはず――
そう思った瞬間、俺は初めて周囲の光景に目を向けた。
そこは――
開けた運動場だった。