第一話
朝日が窓の隙間から細く差し込み、俺の瞼をそっと撫でていく。
ゆっくりと重いまぶたを開けると、見慣れた天井の梁が視界に入った。
古い木材の節目や、長年の湿気で浮き出た木目が、薄暗い室内にぼんやりと浮かんでいる。
もう、朝か……。
俺は朝が嫌いだ。
眠いし、だるいし、億劫だし……
何より自分という人間を認識してしまい、そこから逃がしてくれない。
自分が自分であると起きると同時に気付かされ、頭を鍬でぶん殴られたような気分になる。
そして朝日に訴えられ、気付かされるのだ。
無力で惨めな、自分の存在を……。
けれど……もうそんな日は終わりにする。
そう決めていたからこそ、今日の目覚めは憂鬱じゃなかった。
ベッドから身体を起こし、窓の外を見やった。
そこには変わらぬ田舎の風景が広がっている。
朝靄に包まれた緑の丘陵が遠くまで続き、麦畑の穂先が朝風に揺れて金色の波を作っていた。
鳥のさえずりが空気を震わせ、遠くで牛の鳴き声がのどかに響いている。
空は澄み切った青色で、雲一つない快晴。
この風景を見るたびに思う。
平和で、美しくて、穏やかで……。
でも、この平穏な景色の中に、俺たちの絶望が静かに横たわっている。
絶望ってのは案外、そばにあるものだ。
それに気付いていない、愚かな人間が多すぎる。
俺は大きく背伸びをした。
関節がポキポキと音を立て、夜の間に凝り固まった筋肉がゆっくりとほぐれていく。
血液が末端まで流れ始める感覚が心地よく、ようやく身体が目覚めたことを実感する。
洗面台に向かい、冷たい井戸水で顔を洗う。
着替えを済ませ、いつものように廊下を歩く。
ここまではいつもの朝のルーティーン。
そしてこれから行うこともまた、俺のルーティーンだ。
廊下の突き当たりにある扉の前で、俺は足を止めた。
白く塗られた木の扉。
その扉に入ると、そこにはどうしようもない現実が待っている。
「……おはよう、リリィ」
扉を開けると、そこには静寂に包まれた小さな部屋があった。
薄いカーテン越しに差し込む柔らかな光が、部屋の中央に置かれたベッドを照らしている。
レースの縁取りがされた白いシーツ、ふかふかの枕、そして――
ベッドの上に横たわる、石の少女。
リリィは今も変わらず、そこにいた。
俺と同じ黒色の髪が枕に広がり、長いまつげが頬に影を落としている。
整った顔立ちは三年前と何一つ変わらず、まるで今にも微笑みかけてくれそうなほど穏やかな表情を浮かべていた。
しかし――彼女の肌は冷たい石の色をしていた。
灰色がかった白。
人間の温かみを失った、石の質感。
「なぁ、リリィ。とうとうこの日が来たよ」
俺は椅子に腰掛け、石となった妹の手を取った。
冷たくて硬い感触が掌に伝わる。昔は柔らかくて温かかったその手が、今はただの石でしかない。
リリィが石化してから、もう三年が経つ。
★
――三年前の、ある夏の午後。
――!!
リビングのソファで転寝をしていた俺は、突然の轟音で目を覚ました。
まるで雷が間近に落ちたような爆発音。
爆風が家全体を震わせ、古い窓ガラスがびりびりと振動している。
心臓が跳ね上がり、寝ぼけた頭が一気に覚醒した。
「何だ……?」
慌てて身体を起こすと、キッチンの方向から白い煙が立ち上っているのが見えた。
焦げ臭い匂いが鼻を突き、空気に混じった何かの刺激で喉がひりつく。
これは……また、やったな。
俺は急いでキッチンに向かった。足音が廊下に響き、煙の匂いがどんどん濃くなっていく。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――
「なんでホットケーキって、こんなにムズいのよ!もぉ!」
黒髪を後ろで結んだエプロン姿のリリィが、片手で棚を叩く。
彼女の傍にあるフライパンには、黒い――何かがあった。
発言から察するにホットケーキなのだとは思うのだが……
炭のような漆黒の円盤が三枚、哀れにも重なり合っている。
こんがりと焼けた、という表現を遥かに超越した代物。
畑の肥料か何かか?
「また、ホットケーキ作るの失敗したのか?ほんと料理だけは苦手だな」
「いやいや、これは私が悪いんじゃない!このホットケーキが意固地に自分からひっくり返ろうとしないことが、問題なのよ」
「もしかしてホットケーキが自らひっくり返るとでも思ってるのか?」
「はぁ~お兄ちゃんは馬鹿だね~。そんな訳ないでしょ?」
「……なんで俺が責められるんだ?」
「私がひっくり返してあげたのに、フライパンに収まろうとしないそのひねくれた根性がいけ好かないの。おかげで半分吹っ飛んで、火の魔石に突撃……からの大爆発。ほら、私は悪くないでしょ?」
「リリィが悪いことだけが分かった」
「なんでよ!」
リリィはギロリと睨みながら、俺に迫ってくる。
頬を膨らませている所を見ると、怒っているのだろう。
その怒り方は、可愛いとすら思える。
長く揃った黒髪も、大きな丸い瞳も、俺より一回り小さい身長も、妹の可愛らしい要素だ。
俺には勿体ないくらい、できた妹だと思っている。
……あと言っておくが、俺はシスコンではない。
「ねぇ、お兄ちゃん聞いてる?」
「ん?ああ、お前は魔法の天才なんだろ?料理も、魔法でやればいいじゃないか?」
「いやいや~お兄ちゃんは分かってないよ。魔法ってのは奇跡を起こす秘術なの。それを料理如きに使うって、なんだか勿体ないと思わない?」
「料理できないよりは、魔法使ってでも出来た方が良いだろ」
「はぁ……これだから素人は。お兄ちゃんも魔法が使えたら、分かる時が来るんだろ~なぁ」
「なんだ、嫌味か?」
妹には魔法の才能があった。
と言うより魔法以外の才能は、全てあった。
剣も上手いし、身体能力は高いし、頭だって良い。
魔法は生まれながら三属性操れるし、王都の魔術学校にスカウトもされた。
容姿も良くて、人当たりもいい。
農家の小娘だってのに、貴族に求婚されたことがあるくらいだ。
なんで断ったのか俺にはさっぱりだが……
きっと凡人の俺には分からないのだろう。
そう……俺は凡人だった。いや凡人以下だった。
身体能力は低いし、剣技の成長が人の二倍は遅い。
背も高くないし、格好よくもない。頭も別に普通。
そして何より……魔法の才能が空っきし無い。
そもそも生まれながら、魔力を全くもって有していないのだ。
「あれ?お兄ちゃん、ショック受けちゃった?あはは~ごめん。言い過ぎた」
「いや、そんなこと今更だ。それに俺は両親から授かった、農家としての才能がある」
「確かに田植えは、私の三倍は早いもんね!こほん、私がいない間の畑仕事、ご苦労であったな。ほっほっほっ」
「お前は誰なんだよ」
「いやいや、妹の照れ隠しですや~ん。ほら私、こう見えてお兄ちゃんには感謝してるんだよ。だってママとパパが亡くなってからさ、ずっとお兄ちゃんがこの家も、残してもらった畑も、管理してくれてるでしょ?それに比べ私は王都で気ままに学園生活だよ。本当だったらもっとこうして帰ってきて、畑のお手伝いとかしなきゃいけないのに……」
「別にそれは気にするなって言っただろ。お前は才能があるし、学園に通うことだってできる。ならその生活を十分に楽しんでもらいたい。俺には見られない景色を、お前にはいっぱい見て欲しいんだよ」
両親が死んでからというもの、僕らはずっと必死に生きてきた。
あるのは両親が遺してくれた、ささやかな畑だけ。
だから子供の頃から二人で鍬を握り、畝を耕し、実りを収穫して市場へ運ぶ……
そうして何とか、生きてきた。
この過酷な世界で生きていく手段が、それしかなかったから。
けど転機があったのは、妹が十五の頃だ。
たまたま村に来た王都の魔術師が、妹の才能に気付いた。
そしてご厚意で、王都の学園に通えるように推薦してくれたのだ。
それから妹はこの村を離れ、王都で暮らしてる。
なんでも特待生だとかで、学費とか食費とか全部無料らしい。
羨ましい。
しかしこれは、妹が才能にあふれているからだ。
俺には絶対得られない幸せを得る権利を、妹は持ってる。
だから折角その権利があるなら、俺なんか気にせず人生を謳歌して欲しい。
「お兄ちゃん……。お兄ちゃんってもしかして、私のこと好き?ブラコン?」
「な訳ねぇだろ。ふざけんな」
「え~私は、お兄ちゃん好きだけどな~。顔が死んでて、友達少なくて、なんか子供っぽいとこ」
「貶し過ぎだろ。事実かもしんないけどさ……」
「いやいや~好きなのは本当なの。そういう要素ひっくるめて、お兄ちゃんのこと好きなわけ」
「俺のことシスコン呼ばわりしといて……お前、ブラコンか?」
「え?お兄ちゃん、もちろん家族としてって意味だよ?勘違いさせたら……ごめんね」
「しねぇよ。ブラコンもシスコンも、恋愛的に好きって意味じゃないだろ。家族のことを恋愛的に好きになるとか、ありえん」
「え~酷いな~お兄ちゃん。きっとそういう人も世の中にはいるんだよ。そんな自分を世界の基準と勘違いして他者を差別するなんて……排外主義だ!多様性の否定だ!」
「極端な思想すぎる。それでそのパンケーキはどうするんだよ?捨てるのか?」
視線が再度、黒焦げのパンケーキに映る。
リリィは一度、まじまじとそれを見つめると……
上目遣いで俺のことを覗いてきた。
「お兄ちゃん食べてよ~。ほらリリィの愛の籠ったパンケーキだから」
「早く捨てろ」
「エコティックな、お兄ちゃんなら食べると思ったんだけどな~」
「エコティックなんだよ……」
「そういう細かいことはいいの~。あと二カ月はここにいるんだから、次は私のホットケーキを食べてね!」
「夏休み、長いな」
「なに、嫌?すぐまた出てって欲しい?」
「なわけないだろ。こうして妹と話せることが、俺の一番の楽しみだからな」
「……。それが一番って……お兄ちゃんの人生、悲しくならない?」
こんなくだらない会話ばっかり、俺は妹としていた。
けど俺にとってそれは日常で、普通のこと。
一年ぶりでもそれは、一年という周期の当たり前へとなり替わる。
こんな生活がずっと続くと――思っていた。
そんな思いが、如何に愚かだったのかとこの時の俺は気付いていなかった。
異変に気づいたのは……
リリィが帰省して数週間経った頃だった。
「リリィ、その痣。なんかあったのか?」
「痣……?うわ何これ?どっかでぶつけたのかな~」
リリィの足首。
そこには、小指の爪ほどの灰色の斑点があった。
それを見たとき、胸の奥で嫌な予感が蠢いた。
俺はその斑点を凝視した。朝の光に照らされたそれは、確かに普通の痣とは異質である。
まるで皮膚の一部が石と化したような……
「治癒院に行って、見てもらおう」
「そんな大げさだよ?お兄ちゃん、心配しすぎ」
「いや……行こう」
「えぇ……?お兄ちゃんいつにも増して心配性だね?治癒院だって行くのお金かかるんだよ?」
「いや、それでも行こう。念のためだ」
「えぇ~」
なんだか危険な予感がした。
直感的と言うべきか、本能的と言うべきか……
それを見たときから、心臓が早くなるような焦燥感に駆られたのだ。
だから俺は妹を無理やり連れ、近くの街まで連れて行った。
そしてその危機感は――
最悪の形となって、現実となった。
「これは...」
老医師の顔が青ざめた。
「石化の呪病ですな」
「石化の呪病?それって何ですか?」
リリィが戸惑いに満ちた声で問いかける。
その無垢な瞳には、まだ事の重大さが映っていなかった。
「体が少しずつ石に変わっていく病気です。原因不明で……治療法は、存在しません」
リリィの顔から血の気が引いていく。
「嘘でしょ?」
「申し訳ありません。進行を遅らせる薬はありますが、根本的な治療は...」
「どのくらいで...」
俺の声が震えている。
口の中が砂のように乾いて、言葉が喉に詰まった。
「個人差はありますが、治療を施しても数か月から半年で全身に及びます。そしたらもう……」
リリィがぺたりと椅子に座り込んだ。
その小さな身体が、まるで折れた花のように見えた。
まだ二十歳にもなっていない妹が、死の宣告を受けた瞬間だった。
「嘘だ」
俺は医師を睨みつけた。
「もう一度調べろ。診断が間違ってるんだ」
「お兄さん、お気持ちはわかりますが...」
「間違ってるって言ってるんだ!」
「お兄ちゃん」
リリィの弱々しい声が、俺の怒りを止めた。
「大丈夫。きっと何とかなるよ」
震え声でそう告げる妹を見て、俺の心は千々に乱れ、砕け散りそうになった。
胸の奥から迸る痛みが、まるで鋭利な刃で抉られるかのように駆け巡る。
これが俺の絶望の始まりだった――。
それから妹の呪病を治すため、奔走した。
王都の石畳を踏み鳴らし、治癒師たちの居住む区画を巡り歩く。
陽光に照らされた白亜の神殿では、最高位治癒師の冷たい診断を受け――
山間の古びた草庵では、薬草の香りに包まれながら名医と呼ばれる地方の老人に縋り――」
でも……駄目だった。
どこを行っても、誰に相談しても、治療方法はないの一点張り。
やがて俺は、正統な回復術師だけでなく、裏通りに蠢く怪しげな薬売りにまで頼るようになった。
「竜の血から作った秘薬さ」
甘ったるい香油の匂いを漂わせながら囁く商人。
「東の果ての賢者が調合した万能薬です」
煤けた外套に身を包んだ行商人の掠れ声。
「古代の魔術師が残した治療法だよ」
薄暗い地下室で蠟燭の炎に照らされた老婆の呟き。
次から次へと現れる詐欺師たち。
彼らの言葉が嘘であることは、理性では理解していた。
でも、それが詐欺だとわかっていても、俺は金を払い続けた。
もしかしたら、という一縷の望みを捨てられなかった。
その希望は蜘蛛の糸ほどに細く、されど俺にとっては命綱であった。
気がつけば、財産は底をついていた。
畑を担保に借金をし、それでも足りず、父祖代々の農具まで売り払った。
家の中には、かつて母が愛でた花瓶も、祖父の遺した書物も、もはや何一つ残されていない。
「お兄ちゃん、もういいよ」
ある夜、秋風が窓を叩く音に混じって、リリィが俺を呼んだ。
石化は腰の辺りまで進んでいる。
かつて軽やかに舞い踊った足は、今や重い石塊と化し、もう歩くのも辛そうだった。
「何がだ」
「治療のこと。お金のこと。全部……。お兄ちゃん、私のこと好きすぎだよ。もうお金もないし、畑までなくなったら、お兄ちゃんどうすんの?だからさ……もうさ、諦めてよ」
リリィの目に涙が浮かんでいる。
月光に照らされたその瞳は、まるで露に濡れた花弁のように儚く光っていた。
「そんなこと言うな」
俺は妹の手を握った。
その手は半分は石になっていた。
人肌の温もりを失い、まるで墓石のように冷たかった。
まるで本当に……石膏のような手。
その手を握るだけで、心が潰されるような感覚がした。
「絶対に治してみせる。俺が諦めたら、お前はどうなるんだ。死ぬなんて……おかしい!お前みたいな人間が……誰よりも才能があって、誰よりも思いやりがあって、誰よりも神に愛されたお前が……死ぬなんてそんな不条理はあり得ない!あり得ないんだ……。間違ってる……リリィが死ぬなんて間違ってる……。大丈夫、お金は将来お前が治れば、どうだってなる。けど命は……命は失ったら終わりだ。だから……」
「お兄ちゃん……」
「まだ方法はある。きっとある」
俺は自分に言い聞かせるように繰り返した。
何度も……。何度も……。
その声は夜の静寂に響き、まるで祈りのように虚空へと消えていく。
「諦めない。絶対に諦めない」
でも、心の底では分かっていた。もう時間がないことを。
正統な治療法では、リリィを救えないことを。
それでも足掻かずにはいられない。
胸の奥で燃え続ける想いが、絶望という名の暗闇を払いのけようと必死に明滅している。
なぜ妹がこんなことにならなければならないんだ。
こうして死ぬべきは妹じゃなくて――
むしろ……俺だ。
魔法の才能もなく、剣の才能も頭脳の才能もない俺だ。
リリィが言っていた通り顔が死んでて、友達少なくて、子供っぽい俺だ。
この世になにももたらさず、ただただ死んでいくだけの俺の方だ。
なんで俺じゃない。
なんで俺じゃなくて、妹が死ななきゃいけないんだ。
俺より若くて、才能が有って、万人に愛される妹の方が早く死ぬんだ。
妹が俺より早く死ぬなんて……おかしい!
その時、感情を支配してるのは――ただただ怒りだけだった。
運命への、人生への、不条理に対する怒り。
その炎が燃えている限り、まるで業火に駆られた修羅のように……
治療法を探さずにはいられなかった。
―――そんな時だった。
酒場で、あの噂を聞いたのは。
薄暗いどんよりとした店内。
酒精に酔った男たちの喧騒に紛れて、ひとつの声が俺の耳朶を打った。
「魔女リエルのダンジョン……その最奥に座するリエルは、どんな願いでも叶えてくれるらしいぜ」
「馬鹿言え。そんなもの伝説だろう」
別の男が鼻で笑う。
「いや、本当の話さ。ダンジョン創設時の文献にも残ってる。まあ……今まで誰一人として帰ってきた奴はいないがな」
魔女リエルのダンジョン……?
なんでも願いを叶えてくれる……?
なら……石化の呪病だって……
俺の心臓が激しく鼓動した。
血潮が全身を駆け巡り、頭の芯まで熱くなる。
もしかしたら――
それから、俺は一人で考え続けた。
王都の図書館に籠もり、古文書を漁り、学者たちに話を聞いた。
調べれば調べるほど、その話は信憑性を増していた。
魔女リエル――
千年前に生きていたその魔女は、不老不死でありどんな奇跡をも可能にする魔術師だと伝えられている。
時の流れを操り、生死の境を超越し、この世の理すらも捻じ曲げる力を持つと……。
ならばきっと石化の呪病をも解けるに違いない。
他に――道はもうない。リリィを救う最後の希望。
それが魔女リエルのダンジョンだった。
「リリィ」
俺はベッドに横たわる妹の前に座った。
石化は胸の辺りまで進んでいる。
彼女の呼吸は浅く、頬は青白い。
もう……時間がない。
「俺、魔女リエルのダンジョンに行く」
その瞬間、リリィの顔が引きつった。
「え……?」
「魔女がいるんだ。どんな願いでも叶えてくれるっていう」
「だめ!」
リリィが上半身を起こそうとして、痛みに顔を歪めた。
「ダメに決まってるでしょ!お兄ちゃん!あのダンジョンは千年の歴史で突破者は一人もおらず、懸賞金だってかかってるんだよ!それに……それに……あのダンジョンからの生還者は未だ誰一人として――」
「知ってる」
俺は静かに言った。
夜風が窓を揺らし、蝋燭の炎が揺らめく。
「でも、他に方法がないんだ!」
「お兄ちゃん馬鹿なの!?お兄ちゃんは普通の人なの!魔術も使えないのに、そんな危険な場所に行ったら死んじゃうに決まってるじゃん!」
リリィが号泣している。
涙が頬を伝って滝のように流れ落ち、枕を濡らしていく。
その慟哭は夜の静寂を裂き、俺の胸を締め付けた。
「やめて...お願いだから……。そんな馬鹿な考え捨てて!」
「リリィ、俺には――」
「私のために死ぬなんて言わないで!」
妹の慟哭が部屋に響く。
その声は魂の底から絞り出されたかのように痛切で、壁という壁に反響して俺の心を抉っていく。
「私は、お兄ちゃんに生きていてほしいの!私が死んでも、お兄ちゃんには幸せになってほしいの!」
「それはできない」
俺は首を振った。
月光が窓から差し込み、二人の影を長く床に落としている。
「お前を失って、俺が幸せになれるわけがない」
「なにそれ……あぁ、もう本当、お兄ちゃんってそういうとこあるもんね……」
しばらく二人とも黙っていた。
リリィの嗚咽だけが聞こえている。
時の流れが止まったかのように、重苦しい沈黙が室内を支配した。
やがて、妹が震え声で口を開く。
その表情には、不思議にも笑顔があった。
「はぁ、お兄ちゃんってホント馬鹿だよね……。一度決めたら変えようとしない、頑固なとこも本当に馬鹿。私の気持ちも聞かないで――」
「なんだ、よく分かってるじゃないか。俺はお前を救うと決めた。だからもうその信念は曲げない。例え無理と言われても、数パーセントの確率しかないとしても、俺はその道を進むんだ」
「……あぁ、もう。本当にシスコンすぎるよ!妹のためにここまでするお兄ちゃん、この世にいる!?やっぱりお兄ちゃん、私のこと女性として好きなんじゃ……」
「ちげえよ。家族として、当然だろ?」
「家族ねぇ……」
妹は俯いたかと思えば、俺の瞳を見つめてきた。
「……もう、お兄ちゃんを止めない。意味ないって分かった。けど……けどね、条件がある」
「条件……?」
「うん、私の――」
それから数日のうちに、妹は完全に石化してしまった。
かつて血の通っていた肉体は、今や冷たい石の彫像と化している。
されど、その表情には生前の面影が宿り、永遠の眠りについた美しき少女の姿がそこにあった。
★
あれから三年が経つ。
俺はこの三年間、ただ嘆いていたわけではない。
ダンジョンに挑むための準備を進めていた。
妹を救うと言ったものの、リエルのダンジョンは簡単に攻略できるものじゃない。
だからこそ入念に準備をした。
後悔がないほど絶対に救えると自信が持てるくらい、ひたすら準備した。
季節は巡り、桜は咲き散り、雪は降り積もったが、俺の決意は微塵も揺らがなかった。
最初の一年は情報収集に費やした。
酒場で冒険者たちの話に耳を傾け、酒精の匂いに包まれながら、彼らの武勇伝に紛れた真実を探った。
古い文献を買い漁り、羊皮紙の黄ばんだページを捲りながら、ダンジョンに関する断片的な情報を集めた。
多くは酔っ払いの戯言だったが、中には信憑性のある話もあった。
魔女の迷宮の構造、そこに潜む魔物の種類、過去の挑戦者たちが残した僅かな手がかり。
それらを丹念に記録し、頭に叩き込んだ。
それから二年間は、ずっと戦闘技術を学ぶ日々。
畑を売り払った金で、丈夫な革鎧と剣を手に入れた。
ダンジョンで必要になるであろう道具も揃えた。
松明、ロープ、治療薬、保存食。
一つ一つを吟味し、命を預けるに足る品質のものを選んだ。
村人たちは俺の変化に気づいていたが、何も言わなかった。
きっと、気を紛らわせるための趣味だと思っていたのだろう。
哀れみの視線を向ける者もいれば、静かに見守ってくれる者もいた。
そして昨夜、石化したリリィから声が聞こえた。
「お兄ちゃん...助けて...」
幻聴かもしれない。
三年の歳月が心に刻んだ幻かもしれない。
でも、もう待てなかった。
夜明け前、俺は静かに家を出た。
石化したリリィの前に立ち、最後の別れを告げる。
「とうとうこの日が来たよ。必ず帰ってくる。必ずお前を元に戻してみせる」
石の頬に手を当てる。
三年前と変わらず冷たいが、その微笑みは今でも俺の心を温めてくれる。
月光に照らされた妹の顔は、まるで大理石の女神像のように神々しく美しい。
背中に剣を背負い、腰に革袋を下げて、俺は家を後にした。
もう振り返らない。
振り返ったら、きっと行けなくなってしまうから。
村の外れまで来て、初めて振り返った。
小さく見える我が家。茅葺きの屋根が朝靄に霞んでいる。
あそこで、リリィが俺を待っている。
「待ってろよ」
朝日が昇り始めた空に向かって、俺はつぶやいた。
東雲の空が薄紅色に染まり、新たな一日の始まりを告げている。
そして俺にとっては、運命を賭けた戦いの始まりでもあった。
読んでくださる君に感謝を……。
今日中に四話投稿されます。