第2話 四月 額縁の空
学校から自宅までの間、電車を降りて線路沿いを歩くと、小振りな森がある。
鬱蒼と茂る森の奥は、神社があった。
有名な神社に比べたら規模の小さな、地元の神社だ。
その割に整備されているが、普段から人気はない。
夏希は境内の中で空を見上げた。
木々は茂っているのに、神社の真上だけは空が開けて、良く見える。
「まるで空を切り取ったみたいで、今日も素敵だ」
この空が、夏希は好きだった。
春は朧でぼんやり滲んだ淡い水色。
湿気が増えて、じっとりした空気が空の色を淡くぼかす。水彩絵の具を水で溶いたような空だ。
夏になるにつれ水気が減って、周囲の緑と一緒に空の青が濃くなる。
滲んだ空が夏に向かい始めていた。
神社を囲う森の木々が額縁になって、空を絵のように切り取る。表情の変化を見付けやすいこの場所の空が、夏希のお気に入りだ。
「今日は、真ん中より、もっと社寄りがいいかな」
空を見上げながら、自分が好きな空の景色を探す。
足元に何かがぶつかって、ドキリと見下ろした。
「そんなに見上げて、首が痛くなりませんか? いっそ寝転がったほうがよく見えますよ」
「結陽さん。今日は早いですね」
社の前でごろりと横になった男が、夏希に微笑みかけた。
結陽には夕方、黄昏時でないと会えないと思っていた。
(早めに来て、最推しスポットをオススメするつもりだったのに)
教えるどころか、先を越された。
「今日は講義が一コマ飛んだから、早めに野外活動しようと決めまして」
「そう、なんですか」
近所にある美大一年生の茅野結陽は、この社でよく絵を描いている。
高校に入学したての頃に発見したこの神社で結陽と偶然に出会ったのは、今月。つい二週間ほど前だ。
「黄昏には、まだ早いですよ」
初めて会った時、結陽は薄い暗がりに包まれたこの場所で空の絵を描いていた。
他にいくらでも絵のモチーフがあるだろうに、結陽は空しか描いていなかった。
結陽が描く黄昏は、夏希が好きな空を切り取ったようで、とても綺麗だった。
それからも結陽とはこの社で何度か出会った。
一言二言、言葉を交わすうち、お互いに空が好きだと知った。
だから夏希は、大好きな空と結陽に会いに、この場所に来る。
「僕は夕暮れの空が好きですが、夏希君は青空が好きでしょう? だから先に良い角度を見付けてオススメしようと思って」
結陽の言葉に、夏希は思わず顔を逸らした。
(同じこと、考えてた。結陽さんもオススメ探し、してくれてたんだ)
そう思ったら嬉しくて、ちょっとだけ心臓がドキドキした。
「夏希君、今日はね、横になったほうが空を高く感じます」
手招きして、隣にどうぞ、と誘われた。
こういう場所で寝転がるのは如何なものかと思ったが、結陽がとても嬉しそうに誘うので、嫌ともいえない。
夏希は、おずおずと結陽の隣に横になった。
「今日は雲が多いですね。朧な春の空って感じです。もうすぐ五月だから、空の色は濃くなってきましたね」
「春と夏が混じった空ですね。こういう移り変わりの空も、良いです。そういえば今日、暑いですよね」
四月だというのに日差しは熱い。
横たわっている石段も陽に焼けて温かい。
もぞもぞ動いていたら、結陽の腕に自分の腕がぶつかった。
「ぁ……、すみません」
小さな声で謝って、夏希はずるずると結陽から離れた。
結陽が、同じようにずるずると体をずらして、何故か夏希に近付いた。
「今日の空は、夏希君好みですか?」
ドキドキしてどこを向いているかわからない目線を、空に戻す。
まだ春だというのに夕立でも降ってきそうな大きな入道雲の頭が、木の向こうから顔を出していた。
「好み、まではいかないかな。嫌いじゃないけど、もっと雲が少ない、秋の空のほうが俺は好きです。だけど、今日の黄昏は、見たいです」
「僕もです。僕は黄昏が好きなので」
知ってます、と言いそうになって口を噤んだ。
何枚も何枚も、結陽が黄昏の絵を描いているのを知っている。
その時間に合わせて、夏希はこの社に来ているのだから。
「石段、意外と熱いですね。起きましょうか」
ひょっこり起き上がった結陽が、夏希に手を差し出した。
気恥ずかしさを何とか表に出さないように気を付けながら、夏希は結陽の手を握って起き上がった。
(結陽さんの手、握っちゃった。熱くて、ちょっと汗ばんでた)
感動しながら立ち上がる。
結陽が荷物を解き始めた。
「絵の準備ですか?」
「いえ。今日は雨がきそうなので、無理かなと思いまして。それより、これ」
結陽がペットボトルの飲み物を夏希に手渡した。
「春の割に今日は熱いですから、日陰で水分補給しながら、夕暮れを待ちましょうか。雨が降りそうになったら帰るってことで」
「ありがとうございます。絵が描けないの、残念ですね」
水を含んで飲み込んだ結陽が、ちょっと考える顔をした。
「そうでもありません。今日は夏希君に会えましたから。お話しできて、楽しいです」
優しく笑まれて、夏希は目を逸らした。
(そんなの、俺のほうが、思ってる。俺はいつだって、結陽さんに会いに来てるんだから)
言いたくても言えない言葉を、貰った水と一緒に飲み込んだ。