清朝中期の英雄:明亮(メイリャン):①
〇乾隆帝の誕生
康熙五十年、紫禁城の北にある雍親王府の一室で、新しい命が産声を上げました。その子は、のちの清の皇帝、乾隆帝となる愛新覚羅弘暦です。父は、まだ皇子の身分であった雍親王胤禛(後の雍正帝)で、母は鈕祜禄氏、のちの孝聖憲皇后となる女性でした。
時は流れて雍正元年(一七二三年)。弘暦が十三歳になった年のことです。父である雍親王胤禛が、ついに皇帝の座に就き、雍正帝となりました。これに伴い、弘暦は皇位継承者候補として、これまで以上に厳しい教育を受けることになりました。
ある日、広大な宮殿の一角にある書斎で、弘暦は師と向かい合っていました。
「弘暦様、今日は『大学』の一節を解説いたします。耳を傾けなさい。」
師の言葉に、弘暦は背筋を伸ばし、真剣な眼差しで答えました。
「はい、師。」
師は書物を開き、儒教の教えの根幹である『大学』の一節を読み上げます。
「『修身、斉家、治国、平天下』……弘暦様、この意味を、あなたなりに解釈してみてください。」
弘暦は少し考え込みました。幼い頃から英才教育を受けてきた彼は、知識の吸収力も思考力もずば抜けていました。
「私はこう理解しております。まず自分自身を修め、人格を磨くこと。それができれば、家族を整えることができます。そして、家庭が整えば国を治めることができ、最終的には天下を平和に導くことができる、という意味ではないでしょうか。」
師は穏やかに頷きました。
「その通りです。まさに、人が国家を治める上での基本となる心構えを示しています。皇帝となる方は、まず自らを厳しく律し、模範を示さねばなりません。」
弘暦の目には、力強い光が宿っていました。彼は、いつかこの清の国を、天下を平和に導く重責を担うのだという覚悟を、既に心に秘めていたのです。
一方、広大な清の領土のどこかで、まだ生まれてもいない明亮の運命もまた、この時代の動きと共に形作られていきます。彼の家は、満洲鑲黄旗という清朝の最高位に位置する貴族の家柄でした。これは、清の軍事組織である八旗の中でも、皇帝直属の最も(もっとも)栄誉ある旗です。
やがて時が巡り、乾隆元年(一七三六年)、明亮は都統を務める父、広成の元に生まれます。彼は生まれたばかりの頃から、その身体に北斗七星の形をした痣があったと伝えられています。まるで、彼がやがて天の導きを受け、武勇に秀でる運命にあることを示すかのように。
広成は、赤子の明亮を抱き上げ、その胸にある不思議な痣を指し示しながら、妻に語りかけました。
「見なさい、この子の痣を。これは吉兆に違いない。この子は、きっと大いなる器となるだろう。」
妻もまた、優しい眼差しで赤子を見つめ、頷きました。
「ええ、きっと。この子の生きる時代が、穏やかでありますように。」
しかし、彼らはまだ知りませんでした。この明亮の生きる時代が、皇帝の治世の最盛期であると同時に、数々(かずかず)の戦乱と試練に満ちたものとなることを。そして、明亮自身が、その戦乱の中で武功を立て、清の国家を支える大将軍となることを。
この時から、清の国の未来は、皇帝となる弘暦と、武将となる明亮の二つの星によって導かれることになります。
〇出会いと別れ
時は雍正五年(一七二七年)、北京の紫禁城の奥深い場所で、未来の皇帝弘暦(後の乾隆帝)に一つの出会いがありました。それは、彼の嫡福晋となる女性、孝賢純皇后です。嫡福晋とは、親王の正式な妻を指す言葉で、彼女は名門富察氏の出、のちに明亮の叔母となる人でした。
広間に並んだ燭台の明りが、若き弘暦と、彼の隣に立つ美しい孝賢純皇后の顔を照らしていました。
「今日からそなたは、この弘暦の妻となる。共にこの清の未来を築いていくのだ。」
弘暦の言葉に、孝賢純皇后は深く頭を下げました。
「恐悦至極に存じます。殿下に仕え、この身を尽くす所存でございます。」
二人の婚姻は、弘暦の人生に幸せな家庭をもたらすだけでなく、後に明亮の出世にも大きな影響を与えることになります。この時の彼らは、まだ遠い未来に生きる、血の繋がりのある武将の存在を知る由もありませんでした。
雍正六年(一七二八年)、宮中に喜びの報せが届きました。孝賢純皇后が、可愛い長女を無事出産したのです。その子は和碩和敬公主と名付けられ、のちに固倫和敬公主として、明亮の妻となる女性です。宮中は明るい喜びに包まれ、弘暦も孝賢純皇后も、愛娘の誕生を心から祝いました。
それから二年後、雍正八年(一七三〇年)のことです。孝賢純皇后は、再び(ふたたび)慶事をもたらしました。今度は男の子、すなわち皇二子を産んだのです。その名は永璉と名付けられました。永璉は生まれたときから聡明で、弘暦は密かに彼を皇太子に指名しようと考えていたといいます。
弘暦は幼い永璉を抱き上げ、優しく頭を撫でました。
「永璉よ、そなたは賢く、この清の未来を担う者となるだろう。父はこの国を、そなたに託したいのだ。」
孝賢純皇后も、微笑みながらその様子を見守っていました。
「殿下、永璉はきっと、立派な皇太子にお育ちになるでしょう。」
しかし、この喜びは長くは続きませんでした。
雍正九年(一七三一年)、宮中に悲しい報せが届きます。長女である和碩和敬公主が、若くして病のため亡くなってしまったのです。幼い命の夭逝は、弘暦と孝賢純皇后に大きな悲しみをもたらしました。
孝賢純皇后は、亡くなった娘の小さな着物を抱きしめ、静かに涙を流しました。弘暦はそんな彼女の肩を抱き、二人で悲しみを分かち合いました。
さらに二年後の雍正十一年(一七三三年)、悲劇は再び彼らを襲いました。今度は、将来を期待されていた長男、永璉までもが夭逝してしまったのです。わずか三歳での早世でした。
この報せは、弘暦と孝賢純皇后にとって、言葉にできないほど深い悲しみとなりました。特に(とくに)孝賢純皇后は、幼い二人の子供を次々(つぎつぎ)に失った悲痛な経験に苛まれました。
弘暦は、失意に沈む孝賢純皇后の手を握りしめました。
「悲しいのはわかっている。しかし、そなたには私が、そしてこの清の民がいるのだ。未来を見据えねばならぬ。」
孝賢純皇后は、か細い声で答えました。
「はい、殿下。しかし、あまりにも、あまりにも辛うございます……」
この時、遠く離れた場所で、明亮はまだ生まれていませんでした。しかし、この孝賢純皇后の悲しみは、彼女の甥である明亮の人生にも、間接的に影響を与えることになります。皇帝とその妻の苦難は、やがて来るであろう清の激動の時代の幕開けを告げるかのようでした。
〇清朝の建国に至る経緯
始まりの時:後金の誕生
一六一六年、北の果にある満洲の地は、凍えるような寒さに包まれていました。そこには、女真族という人々(ひとびと)が暮らしていましたが、彼らはたくさんの小さな部族に分かれていて、互いに争いばかりしていました。
そんな中で、ヌルハチ(努爾哈赤)という、才気溢れる指導者が現れます。彼は、バラバラだった女真族の部族を一つ(ひとつ)ずつ、粘り強くまとめ上げていきました。まるで、散らばった珠を一本の糸で繋ぐように、人々(ひとびと)の心を結びつけていったのです。
そしてついに、ヌルハチ(努爾哈赤)は「後金」という新しい国を興します。彼の目には、その頃すでに力を失いつつあった、南の大国「明」の衰えがはっきりと見えていました。
「これより、我らの時代を築く! 明の世は、いずれ終わるだろう。その次を担うのは、我ら後金だ!」
ヌルハチ(努爾哈赤)の声は、凍り付くような大地に、熱い炎のように響き渡りました。しかし、彼はその大きな夢の途中で、志半ばで病に倒れ、世を去ってしまいます。彼の遺志は、後に続く者たち(ものたち)に託されました。
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大清帝国への飛躍
ヌルハチ(努爾哈赤)の跡を継いだのは、彼の八男にあたるホンタイジ(皇太極)でした。父の残した偉大な夢を胸に、ホンタイジ(皇太極)は巧みな政治の技と、恐ろしいほど強い軍事の力で、国をさらに大きく発展させていきました。彼は周りの部族を従わせ、新しい制度を次々(つぎつぎ)と作り、国の基盤を固めていったのです。
ある日、ホンタイジ(皇太極)は、彼に仕える家臣たちを宮殿の一室に集めました。彼の顔には、これからの時代を変えるという、確かな決意が漲っていました。
「聞け、家臣たちよ。我らはもはや、北の辺境の一つの国『後金』ではない。我らの志は、もっと広大な大地にある!」
ホンタイジ(皇太極)は力強く宣言しました。
「これより、国の名を『大清』と改める! そして我らは、天の下すべてを治める、新しい王朝となるだろう!」
彼の言葉に、部屋にいた皆は、一斉に頭を深く垂れました。それは単なる国名の変更ではありませんでした。それは、広大な中国全体を支配する、新しい巨大な帝国への、揺るぎない意志の表明だったのです。清の時代が、ここから本格的に始まろうとしていました。
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紫禁城への道:幼き皇帝たちの奮闘
やがて、ホンタイジ(皇太極)もまた、志半ばでこの世を去ります。彼には、まだ幼い息子、順治帝がいましたが、幼い皇帝が一人で広大な国を治めるのは、あまりにも困難なことでした。
そこで、ホンタイジ(皇太極)の弟にあたるドルゴン(多爾袞)が、皇帝に代わって政治を執り仕切る「摂政王」という役職に就きました。ドルゴン(多爾袞)は、清の軍を率いる最高の指揮官でもありました。
その頃、中国を治めていた明の国は、中で反乱が起きたり、政治が乱れたりして、いよいよ弱まっていました。この好機を逃すまいと、ドルゴン(多爾袞)は大胆な決断を下します。
「今こそ、明の都、北京へ攻め入る(いる)時だ!」
清の大軍は、高く長くそびえる万里の長城を越え、明の都である北京へと進んでいきました。そして、ついに明を滅ぼし、北京を自分たち(じぶんたち)のものにしたのです。
その後、幼い順治帝は、中国の皇帝として、かつて明の皇帝が暮らしていた豪華な宮殿「紫禁城」に入りました。これが、清が名実ともに中国全体を治める王朝となった、歴史的な瞬間でした。
しかし、若くして皇帝となった順治帝も、長くは生きられず、病に倒れてしまいます。彼の死によって、清の未来は、さらなる幼い後継者へと託されました。それが、わずか八歳で皇帝の座に就いた康熙帝です。
彼もまた、即位したばかりの頃は、大人の重臣たちに政治を任せていました。しかし、康熙帝は並外れた賢さと、物事を見抜く力を持っていました。まだ若いながらも、彼が自ら政治を執り始めると、国を蝕んでいた、ごまかしや賄賂が横行する腐敗した役人たちを正し、清の国を非常に強固で安定したものにしていきました。
彼の治世は、清の歴史において「最盛期」と呼ばれる、もっとも栄えた時代の幕開けを告げたのでした。康熙帝の賢明な統治の下、清はさらなる繁栄へと向かっていくのです。