天真爛漫な末姫のルーツ
前作の末姫の話ですが、前作を読んでなくてもおそらく大丈夫です。
現実の公爵家について詳しくないので「異世界」にしています。魔法はでてきません。
――その辛気臭い顔をやめないか。私たちは常に笑顔でいる義務があるのだよ。
幼い頃そんな言葉が聞こえてきたことをマーガレットは覚えている。大人たちのお茶会の片隅で、子どもたちもおままごとのようなお茶会をしていた、その更にすみっこのほうで、自分よりも年上の少年が言われていた言葉だ。
そこにはいつも物憂げな表情をしていて、周囲に溶け込もうとしない少年がいた。彼に苦言を呈したのはマーガレットの兄だ。兄はこの国の第三王子であり、王位継承こそ高くないものの、王族としての誇りを忘れない立派な王子である。兄はマーガレットにもよく言っていた。――王族や貴族は常に笑顔を見せなくてはならないんだ。不幸な顔、冷たい顔、満たされてない顔をしている権力者は、付け入る隙があると言っているようなものじゃないか。国を守る者として、そんな甘えは許されない――。
素直なマーガレットはその教えを守り笑顔を絶えさない少女に育った。天真爛漫で、悩みなど何もなさそうで、幸せに溢れたこの国の末姫と人々は評している。
「でもそりゃそうよね。末っ子姫さまとして王からも兄弟たちからもちやほやされてるもの。つまらないことはみ〜んな他人がやってくれて、自分はこの国のだれよりもゼータクなくらしをしてるんだわ。あ〜あ、わたしも末姫さまに生まれたかった」
こんな陰口を言われることもある。マーガレットが初めて自分の悪口を聞いたのは小さい頃、王族や貴族の子息たちが通う学園でのことだった。まだ幼い子どもたちは貴族としての分別も配慮も育っていないので、そんな悪意がぽろっと耳に届くこともある。
その時は数人の女子が廊下の隅で話していた。公爵家の娘である気の強そうな女の子がそう言うと、周囲にいる子たちが控えめに同調していた。
――その辛気臭い顔をやめないか。
兄の言葉が脳裏をよぎる。もちろんマーガレットはそのつもりだった。
悪口を言っていた女子と目が合うと、マーガレットが聞いているとは思っていなかったのか、慌てた様子で女子は飛び上がった。
「マーガレットさま!」
「えっ、マーガレットさま!?」
「ごきげんよう、みなさま」
マーガレットは瞳に親愛をのせてにっこりと微笑んだ。白に近い色合いのプラチナブロンドに、はちみつ色の瞳の少女がそうして微笑むと、周囲にまさしくマーガレットの花が広がるようだった。自分の悪口を聞いた人の笑顔には見えず、きっと聞こえなかったんだわと、女子たちは胸を撫で下ろした。それと同時に自分たちへの好意にあふれた笑顔を向ける末姫への罪悪感が生まれたのだった。
そのあとその子たちはみなマーガレットの良き友人になった。周囲に笑顔をふりまくマーガレットに好意を返してくれる人たちは沢山いた。中には「能天気なお花畑姫」と見下す者もいたが、
――その辛気臭い顔をやめないか。
兄の声がマーガレットを笑顔でいさせた。マーガレットは誰も彼も許すことにした。実際に自分が恵まれた暮らしをしており、その暮らしをさせてくれる人々に報いなければいけないことをマーガレットはわかっていた。その報いる方法のひとつが、まず笑顔でいることだった。笑顔でいるためにマーガレットは人々の悪意を忘れることにした。
「メグ様の婚約者、あの公爵家の息子になったんですか。娘にも良い印象がないから俺は嫌ですね」
ある日そうマーガレットに言ったのは末姫専属護衛騎士のボリスだった。周囲には侍女や執事もいて、彼らもうんうんと頷いている。
メグとはマーガレットの愛称だ。マーガレットという名前は長いので、ある程度親しくなると大抵みんなマーガレットのことをメグ様と呼ぶ。王族に対する愛称は不敬になる場合もあるが、マーガレットは親しみのある末姫としてむしろ愛称呼びが広まっていた。
「そう? 優しいよ」
マーガレットがそう言うとボリスは頷きを返した。彼女が自分へ向けられた悪意を忘れることをボリスは知っている。
「今はそうでしょうね」
「でも嫌がってくれて嬉しいな。心配してくれてるんだね」
マーガレットはにこっと幸せいっぱいに微笑んでみせた。ボリスはマーガレットにとって幼い頃から付き合いのある家族のような存在だ。彼は王族の護衛騎士を代々輩出している一族の人間であり、マーガレットの手の甲に忠誠の口づけを落とした最初の少年だった。この国によくいる黒髪藍目の、背は高いが地味な雰囲気の少年で、マーガレットが王族らしく着飾って周囲に花を飛ばしていると、その花に紛れて影のように寄り添った。落ち着いた性格の彼をマーガレットは頼りにしていた。
「婚約者さまも優しいよ」
マーガレットはつい先日顔合わせをした婚約者のことを思い出した。
公爵令息である彼は、輝く華やかな金髪碧眼を、物憂げなオーラで包みこんでいるような人だった。むかし兄から叱責されていた少年だとマーガレットはすぐに気がついて、ぎゅっと胸がつかまれる思いがした。
――その辛気臭い顔をやめないか。
少年のことはあれからずっと気がかりだった。再会して、その気持ちが強くなるのをマーガレットは感じた。
あとあとになって考えてみると、その気持ちは、繊細な彼を守ることで幼い自分を慰めたいというものから生まれたものだった。悪意を向けられることで傷ついた心を。いくら恵まれていても、無かったことにはならない、マーガレットだけの確かな傷を。
だけどそんな下心が悪かったのだろうか――マーガレットと婚約者の関係は長く続かなかった。
最初はむしろとても良好な関係だったのだ。マーガレットがにこにこと笑っていると婚約者も少し心和ませるような表情をみせた。彼の心にある憂いを晴らしたくて、なんでも話してほしいと伝えると、婚約者はマーガレットに心を許し、悩みを打ち明けるようになった。
厳粛な家族とうまくいっていないこと。勉学も思うようにいかないこと。友人への切なる想いがあること――マーガレット以外へ向ける強い想いがあること。
マーガレットは水をかけられたような気がした。
そして、目が覚めた。彼は彼であり、彼を守ったところでマーガレットは慰められない。むしろきっとこれから婚約者には傷つけられることが増えていくだろうという予感を覚えた。
実際に彼はどんどんマーガレットに遠慮がなくなっていく。憂い顔がなくなるどころか、マーガレットに対し不貞腐れたような顔をみせることが増えた。周囲とうまくいっていない反抗期の子どもが母親に当たるように。
心の防衛本能が働き、すこし距離を置いてみると、婚約者はマーガレット以外の愛する友人にどんどんのめりこんでいる様子をみせた。
彼のことを好きでい続けたかった。しかしマーガレットは冷めてしまって、その心をどうしようもなかった。
それでもいずれマーガレットはすべてを許して笑顔で嫁ぐだろう。幸福そうな顔をして愛してない男の隣に立ち、憂鬱を振りまく彼と周囲を取り持ち、領地の民のために働くことを仕事にするのだ。
「――あいつじゃなくて俺と結婚しませんか?」
ボリスがそう言ったとき、マーガレットはスンと真顔になってしまった。あまりに甘い誘惑だからだった。
慌てて微笑んだマーガレットの頬をボリスの指先が擦った。
「ボリス、駄目」
「大丈夫ですよ。今はみんな聞こえないことになっているので」
周囲に目をやると何人かいる従者たちはあらぬ方向をむいていた。みな幼い頃からマーガレットを見守ってきてくれていた者たちだった。マーガレットのために、なんにも聞こえませんと態度で示していた。
「メグ様は笑ってなくても素敵ですよ。でもあいつは笑顔のメグ様にしか興味ないじゃないですか」
「……素敵?」
「はい。俺の前では無理して笑わなくていいです。メグ様が笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒ってください。それができる場所に俺が連れていきますから」
「…………」
マーガレットは混乱する頭を押さえた。声が震える。
「好きなことして過ごして良いの?」
「はい」
「姫じゃなくなっても?」
「もちろん」
「商人になって世界中をまわるのは?」
「楽しそうですね」
「馬にも乗って良い?」
「乗り方教えますよ」
「逃げて……良いの?」
「いいですよ」
マーガレットは込み上げてくる喜びを抑えきれずに笑った。ふふっ……と鈴が転がるような声が溢れてくる。こんなふうに笑うのは、きっと生まれて初めてのことだった。
「ありがとう、ボリス。そう言って貰えただけで充分」
「……メグ様」
「ボリスが公爵家に睨まれるようなことにはなってほしくないもの」
マーガレットは頬に添えられたボリスの手をとって、そっと離した。
「私は逃げない。お兄様みたいに王族らしく、笑顔でいたいから」
――その辛気臭い顔をやめないか。
頭のなかに何度も蘇る兄の声を呪いのように感じたこともあったが、それはマーガレットがその言葉に価値を感じているからこそだ。兄の言葉にマーガレットはいつも背筋を伸ばしてもらっていたのだ。
「でも、そのためには私ももっと頑張らないとね。私が本当に幸せでいたほうが笑顔に説得力があるもの。みんなにも心配かけちゃったね。……ボリス」
「はい、メグ様」
「ボリス。私の騎士。今はあなたの手をとれない」
今は、とマーガレットがそっと囁くとボリスの顔に赤みが差さった。周囲で見守っていた従者たちも、小声で安心の言葉を交わしあったのだった。
それからしばらくして、マーガレットの婚約者はいよいよ友人への愛が抑えきれなくなり、学園では同性というのを利用して昼夜問わず隣について回るようになっていた。
そして極めつけは卒業パーティでの告白だ。婚約者は友人に対し「君に魂の三分の一をあげるよ」と言った。「君と、婚約者と、将来の子どもに三分の一ずつ」と。どうやら友人への愛を告げつつも、マーガレットへの気持ちもある、ようだった。
この貴族にしては隠し事のできない、感情的な婚約者の扱いをどうするかマーガレットは両親にも相談した。公爵家と王家の結びつきを深め、ひいては国の平和のためになると思われて結ばれた婚姻だが、婚約者がこの有様では、公爵家の人間は王家の人間を蔑ろにするのだと広まりかねない。
「私の力不足でこのようなことになり申し訳ありません、お父様、お母様。彼に話しても『ただの友人だ』『束縛するな』『仕方ないだろう』と言われるばかりで」
「何が仕方ないものか。政治的なことも理解できない公爵家嫡男など罪深いな」
「メグの魅力で惹きとめるといっても、それだけの価値が彼にあるかしら。あそこは親戚も多いのだしもっと優秀な子を跡継ぎにすればいいのよ」
「彼としても周囲とうまくいかず悩んでいるようです。いつも物憂げにしていらっしゃっていて、私では憂いを晴らすことができませんでした。もっと自由な立場で好きな相手と過ごすほうが幸せなのかもしれません」
「では、幸せを祈ってやるとしよう」
「それがいいわ。公爵家当主とも相談しましょう」
「はい、お父様、お母様」
親子は笑顔を交わしあった。他にも色々と相談をしたあと、去り際に母はマーガレットをぎゅっと抱きしめてくれた。こんなことはうんと幼い頃以来のことだ。マーガレットは目の霞みを瞬きで払い落とすと、また微笑んで抱擁を返したのだった。
その後ふたりの婚約は解消されたが、厳密には公爵家の跡継ぎと王家の末姫との婚約は続いており、その跡継ぎが別の人間になるということになった。
元婚約者となった彼とマーガレットは最後にふたりで話をした。完全なふたりきりではなく、すぐ側にマーガレットの従者がついていたが、元婚約者は悲嘆に暮れていて自分の世界に引きこもっているようだった。一方マーガレットは微笑みをもって相対した。
「こんなことになるなんて思わなかったんだ」
「ええ」
「だいたい、君が俺をひとりにするから」
「ええ」
「女ってのはこれだから。友人の婚約者も俺に近づくなって……」
「ええ」
「……すまなかった。俺のことは忘れてくれ」
「……?」
――どうしてそんなことを言うんだろう。忘れるかどうかは私が決めることなのに。もう貴方には関係のないことなのに。
マーガレットは虚を突かれて黙ってしまった。それでも微笑みは絶やさなかった。そんなマーガレットに失望した顔をみせた元婚約者は、その顔のまま去っていった。
結局マーガレットは彼のことが理解できなかった。マーガレットが最初から自分のことを投影せずに、彼自身と向き合っていれば、何かが変わっただろうか。しかしすべては終わったことだった。
マーガレットはふっと近くに控えている従者が持つ書類に目を落とした。その書類は公爵家の遠縁であったボリスを当主の養子として迎え入れ、マーガレットの婚約者候補にしてもらうためのものだ。
候補者は他に何人かいて、騎士として生きてきたボリスには重圧となるだろう。マーガレットがそれをどれだけ軽くできるのかという不安もある。まだまだ課題は山積みでマーガレットはボリスの手をとれない。それでも、いつか。
(私はボリスのこと幸せにできるかな)
今度はマーガレットからボリスに告白するつもりだ。それを想うだけで、マーガレットの顔には、自然な笑顔が浮かんでくるのだった。
TOAのルーク、ファフナーのカレン、シュピーゲルの雛みたいに「逃げて良いと言葉をかけてもらえただけで、それが叶えられなかったとしても充分」という健気萌えで書きました。
読んでくださってありがとうございました。