後日談 ー小説家ー
僕は担当の人と次の小説は何を書くか相談をするために人が少ない平日の喫茶店で話をしていた。
今日の午後から数日、有給を使わせてもらって2泊3日でちょっとした旅行をしてくるつもりだった。
「書いたあと、何か変化はありましたか?」
担当の編集者は僕に聞いた。
僕は「ありましたよ」と懐かしむように言う。
「どんな?」
担当者はおずおずと聞いた。
「初めて伊鶴の妹さんに会いました」
「妹さん、ですか?」
「はい。僕が伊鶴の命日じゃなくて初めて小説が完成した日に行っていたので、会う機会はなかったんですが、初めて命日に行ったら妹さんにお会いしました」
「そうでしたか」
担当者は悲しそうな顔をして目を伏せた。僕にとっては悲しい出来事より楽しかった出来事の方が多いのだから、そんな表情をしなくても大丈夫なのだが、亡くなっていると聞くとほとんどの人が悲しそうな顔をする。
「その後は伊鶴が見たら驚くぐらい仲良くしてます」
「そうですか」
僕が明るい口調で言うと担当者もホッとしたように眉を下げて笑った。
その後は担当者が担当者らしく、次の小説もちゃんと書いてくださいと念を押され、僕は逃げるようにある場所に向かった。
その場所である人と待ち合わせをしていた。
僕が先に着いたようでまだ来ていない。
僕はポケットから伊鶴の物語を書いた本を開く。誰にも邪魔にならないよう端に寄りるのだから、読み聞かせぐらい大目に見てもらおう。
新しくできたガードレールの傍には黒猫が1匹、気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
僕は誰に読み聞かせるわけでもなく、プロローグを読み始める。たった1人のために、お礼を言うように優しくゆっくりと。
「私は友人から見ても家族から見ても『いい子』で通っているらしい」
伊鶴が望んだ物語になったのか、今になってはわからない。でも、僕は伊鶴なら仕方ないと言ってなんでも許容してくれる気がしている。
僕は傍を通る人からは不思議そうな目で通っているのを横目に読み聞かせを続ける。その人たちに読んでいるわけではないのだから気にする必要もない。
「『どうせ、人はいなくなるんだから』そう悲しそうに」
「奏汰は言った」
後ろから女性のソプラノが聞こえた。
僕は読み聞かせをやめ、後ろを振り向いた。
「哉太さん、不審者ですよ」
「僕の伊鶴との思い出が廃屋と原っぱしかないんですよ」
廃屋は随分前に取り壊されたし、原っぱは他にも人がたくさんいる。そんなところで読み聞かせなどしたらどんな目で見られるか分かりきっている。
「だとしても、ここで…」
そこで女性はくすくすと肩を震わせ、面白そうに笑う。
その様子に伊鶴を重ねながら僕は本をポケットにしまい、声を掛ける。
「行きましょうか」
女性は笑い上戸なのか笑いながら返事をした。息を無理やり吸ってだんだん笑い声が大きくなっていく。引き笑いのようだった。
「ごめんなさい。伊鶴が死んだ場所で音読するなんて思っても見なくて」
肩を震わせ、空気を貪っていたる女性はそう言った。
「音読じゃなくて読み聞かせです」
そう言うと女性はまた笑いだした。沸点が低い。
僕は呆れてそのまま女性を置いてその場所を後にしようとした。
「あ、すみません!もう笑わないので」
笑いながら言われても説得性にかける。
「それに、立花さん、これが欲しかったんですよね!」
最終兵器と言わんばかりの怒鳴り超えだ。後ろを振り向くと笑いを止めた女性がスマホのようなものを片手にこちらに走ってくる。50メートルぐらいだろうか。どうやら結構歩いたらしい。
「これが立花さんが見たかったものだと思います」
女性はスマホを僕の方に見せた。僕はスマホを受け取り、電源を入れた。
「…これが…」
「これだけバックアップを取っているのか分からなくて、そのままなんです。パスワードを忘れたら全部がなくなる仕組みのアプリらしくて、開けられなかったんです」
女性がスマホの暗証番号を入れ、慣れた手つきでアプリを起動した。
「…失礼します」
僕は震える手でパスワードを1つ1つ正確に入れる。何度も頭に反芻させた数字だ。忘れるはずがない。
決定ボタンを押すと、少し時間を開けてアプリが開いた。
「開いた…」
その様子を見た女性はさっきまで笑っていた女性とは正反対のように目を伏せた。
「やっぱり、姉は私のこと信用してなかったんですね」
「…それは違うと思いますよ。信用したからこれを預かってもらったんだと思います。伊鶴もこんなに早く死ぬとは思っていなかったんでしょう」
そう言いながら、メモ帳を見ていく。
これは伊鶴からの僕への遺言のようなものだ。見落としてはいけない。
「確かに。…一度、死にたいと言われたことがありました」
女性はここが歩道ということを忘れたように立ち止まってポツリと話し始めた。
「その時、私は泣いて死なないでとお願いしました。多分、その時から私にそういう本音は言えなくなったんだと思います。私は伊鶴に何度も言ったのに…」
女性は目に涙を溜めてこちらを見た。その表情から女性は自分のことを責めてほしいと考えていた。
「それでいいんですよ」
「でも、本当は伊鶴も言いたかったんだと思うと…」
「そのおかげで僕が小説家になれたんです」
僕は女性に笑いかけた。女性が泣いて死なないでとお願いしたから僕と伊鶴は出会うことができた。そして僕が小説家になれたし、教師になるという夢も見つかった。
「言い方が悪いかも知れませんが、僕が伊鶴の心の中を見ることができたのは貴方が伊鶴に死なないでとお願いしたからです。だから、貴方が何度も自分を責めたとしても僕は貴方にそれ以上の感謝をしています」
「…」
「僕と伊鶴を会わせてくれてありがとうございます」
僕は笑って言う。女性は唇を噛み、腕で涙を拭いたり、何度もまばたきをしたりして、涙を消そうとしていた。
「私は…会わせてなんか…」
「はい。でも、とっても楽しかったんです。伊鶴の考えはあの時の僕にとってどれも知らないことで、難しいことで、でもそれ以上に面白かったんです」
僕はポケットに入っているハンカチを取り出し、女性に渡す。女性は掠れた声でお礼を言い、目元にハンカチを当てた。
「…」
「このアプリ、バックアップを取って僕のスマホに移行してもいいですか?」
僕は女性にそっと聞く。タイミングを逃してしまえばもう2度と伊鶴に会えない気がした。
「差し上げます」
女性はハンカチから顔を上げ、赤くなった目でこちらをしっかりと見た。
「ですが…」
「私にはそれ以上の思い出がありますから。それにアイディアは私が見たらつまらなくなりますので」
「…ありがとうございます」
「ただし、本にしてください」
「わかりました。もっとも、できるかどうかすらわかりませんけど…」
僕はまだまだ新米の小説家だ。アイディアが良くてもそれを文に起こし、読む人が楽しいと思えるような小説にするには文体が重要だ。本にできるアイディアも限られるだろう。
「いいんです。未来は不可能のほうが面白いんですから」
女性はあどけない笑みを浮かべていた。おそらく女性自身の満面の笑みなのだろう。姉妹だからか考えもどこか似ている。
「…そうですね。わからないほうが楽しい」
「はい」
「ハンカチは差し上げます。使用済みのものですので、処分していただいて構いません。では、また」
「はい。ありがとうございます。本、楽しみにしてますね」
「あまりプレッシャーをかけないでください」
僕は軽く笑いながら女性に答え、次の目的地に足を進めた。
次は僕が好きな小説に出てくる場所を巡り、ついでに小説に出せそうな場所を探すことにしていた。
伊鶴のお墓については言ってしまえば興味がない。
僕は廃屋で伊鶴と出会い、廃屋で小説を書き上げた。そして原っぱで伊鶴の小説を書き、事故の起きた場所で黙祷を捧げる。あの場所に行くのは年に1回かも知れないし、もう行かないかも知れない。ただ、伊鶴のくれたものは生涯忘れないようにしたい。
これまでも、これからも。
僕は伊鶴の妹、逢坂葉月の連絡先を消した。
これまで何度か会った時は色々な失態を見せてしまったから、今度会う時はきちんと小説家と1人の読者として出会いたかった。
「幸せに暮らせたよ」
と伊鶴に自慢できるように。




