第三章
夜、私は「行動しないほうがたちが悪い」とその人に言われてから二人に手紙を書こうと手紙を出した。偽善、嘘だと言われてもいい。糾弾しても構わない。それぐらい酷いことをした。
そう考えていても、手紙を書こうとするとシャーペンを持つ手が震える。
「大丈夫。書かないと、動かないと何も進まない」
胸を叩き、「大丈夫」と心を落ち着かせる。少し震えが収まり、字を丁寧に書けるようになった。
まずは下敷きとしてルーズリーフに書くことをまとめる。謝罪をしたいこと、直接会って謝罪をしてもいいか、そして許さなくてもいいこと。それらを簡潔に、淡々と書く。感情的になってしまえば同情されたり、余計苦しませたりする可能性がある。だから、淡々と書く。
書いては丸め、ゴミ箱に入れることを繰り返し、ルーズリーフが薄くなくなってきたと認識するぐらいたくさん書いた。二時間経って下書きが上手く書けた気がした。
今度はそれを本番の手紙に書く。一文字一文字丁寧にゆっくりと。手紙が書き終わると、もう一人の手紙の下書きを始める。もう一人の方は簡単に思いついた。元々、親友でその後も遊んでいたからだろう。二枚のルーズリーフをゴミ箱に投げ捨て、三枚目のルーズリーフを書いたところで伝えたいことが書けた。
ガラスペンでロイヤルブルーのインクを使い、平仮名で相手の住所と氏名を丁寧に書く。漢字を間違えてしまうのが嫌だったから。
乾くのを待ってから一人ずつ封筒に入れ、自分の名前と住所を黒のボールペンで後ろに書く。
次の日の学校帰りに郵便局に行って郵送してもらう。
ここまで終わり、家に帰るとどっと疲れがやってきた。そしてゴミ箱に目を向けるとそこには紙が溢れ出そうなくらいのあり得ない量。その紙をゴミ箱に押し込み、袋にまとめる。誰にもみられないように厳重に縛り、ゴミの日までクローゼットにしまった。
学校では、特定のある人達に無視されることが多くなった。例えば、移動教室の際に席を使おうと声を掛けても聞こえなかったかのように話しているなどの些細なことだった。
それから、桜とも話さなくなった。朝も別々に登校しているし、お昼を誘っても「他の人と食べる」と断られてしまう。毎日のように断るのも桜自身鬱陶しそうだし、私も面倒なので5日ぐらいで誘うのをやめた。
「最悪だよね」
ある日、トイレに入っているとある会話が聞こえた。何人かの生徒たちはため息をついて低い声で誰かを貶していた。似た会話をどこかで聞いたことがある。生徒たちの話を聞いていると、前に私が同じようなことを言って虐めたことがあることを思い出した。辛い、苦しい、気持ちが悪い。そんな言葉で表せないほどお腹も胸も痛くなった。
生徒たちが愚痴ってスッキリしたのか、トイレから出ていくのを感じ、そっとトイレの扉を開けてゆっくりと教室に戻る。
教室に戻って椅子に腰掛け、深呼吸をしたが、気分が戻らない。早く気持ちを立て直さないといけない、という不安に駆られ、頭が回らなかった。
「ねぇ、顔色悪いよ。大丈夫?」
顔を上げると、陽菜さんが心配そうに話しかけてきた。今の私は椅子に座って大好きな本も読まずに息を殺すように体を折っていた。私は急いで体を伸ばし、笑って言った。
「大丈夫」
「ねぇ、沙里さん、体調悪そうだよ」
「どしたの?」
「沙里さんがなんか体調悪そうで…」
「え、…なんかあった?」
私は泣きそうになりながら首を振る。
「…そっか…じゃあなんだろう…」
「うーん…」
「どした?」
他の人もなんだなんだとどんどん人が増える。頭の中は優しくしてくれた人に邪魔などと暴言を吐いていた。
これ以上、自分に失望したくない。
私は「大丈夫大丈夫」「なにもない」と心を落ち着かせようとした。
「そこ、宮葉が困ってるから離れなよ」
誰かがこっちに向かって言った。その声は周りがざわざわしているから余計透き通った声がする。
「海原…」
「でも、すごく辛そうで、保健室連れて行ったほうがいいよね?」
「…俺が連れてくよ。ほら、お前らも移動教室だろ。俺、教室近いから時間に余裕あるし」
「そうだけど…」
「ほら、行った行った」
海原さんが周りの人を退かしてくれた。周りがバタバタと移動教室に向かう音がする。そして、机に腰掛けると私にしか聞こえないような小さな声でポツリと話した。
「逃げたきゃ逃げなよ。雪さんはいつものところにいるし、俺だっている。あいつらも悪いやつじゃないだろ?少しぐらい口悪くても幻滅なんかしないよ」
そう聞いて、少しだけ息ができるようになった。
「俺がなんとか誤魔化しておくから今日は帰ったら?ここにいるの辛いだろ」
何もわからなかったが、透き通った声は心の臓まで届いた。子どものように幼いが、ゆったりとした安心感のある声。
ゆっくりとその声に合わせるように息をすると体調も治ってきた。ホッとしながら、迷惑をかけてしまったという事実が苦しかった。
私は海原さんに一礼し、早退届を出して早々に学校を出た。
「あー…」
学校の校門を出た途端、しゃがみ込み、目尻に浮かんだ涙を拭った。いつまでもこんなところで座り込んでいるわけには行かないので、少し経ってからゆっくりと立ち上がり、いつもの場所に向かう。誰にも邪魔されない、ただの自然の場所に。
「こんにちは」
いつもの服であの人が声を掛けてくれたが、私は最初に会った時のように何も言わずに一礼だけした。その人は何かを察したのか、座っていた場所を譲り、私を座らせた。そして、目の前にしゃがみ、目をしっかりと合わせた。
「…なにかあったね?」
その人は確信したように鋭い声で聞く。聞いてほしくなかったのに、その人はそれをわかっていたはずなのに。
「何があったの?」
「…」
私はその人に何か言おうとして口を開けた。だが、声が出ない。喉の奥から弱々しい空気の音が出るだけで声として成立しなかった。
その人の目を見ていると、吸い込まれるような感覚がする。胸の内をすべて見せているような、そんな恥ずかしさもある。そんなことを知らないその人は私のことをじっと見つめていた。きっと心の内を探るためだろう。
私は何も考えずにただぼーっとその人の瞳を見つめた。黒い。瞳は驚くほど黒く、澄んでいた。
「…だめだ、わかんないや…」
その人は諦めたようにそのまま地面に腰を下ろして私に背を向け、空を見上げた。
「君の考えること、難しくてわかんないや。色んなのが混ざっててわかんない。結構勘はいい方なのになぁ…。目を見ても何もわからなかった」
その人はため息をつきながら、空をみていた。私もその人に倣うように空を見る。真っ白な雲や明るすぎ る太陽。そして、私の気持ちとは真逆の青色の空。それらが眩しすぎて私は目を閉じて耳に集中する。疲れているような声を出す蝉や会話をしているカラス、車や人々が近いから全体的に空気がざわざわと揺れている。
「怖くなかった?」
その人がそっと聞いた。わからない。怖かったかも知れないし、怖くなかったのかも知れない。でも、怖いというより
「苦しかった」
やっとのことで発した声は弱々しく掠れていた。その人は何も言わなかったからいつものように空を愛おしそうに眺めているのだろう。
それから何時間経ったのかわからないが、目を開けると、明るい光が目に入り、少し下を向いて目を慣れさせる。目が慣れてから頭を上げると、右に夕日とその人が見えた。その人は太陽が雲に隠れたり、出たりしているのを楽しそうに笑いながら見ていた。
空を見ていると、なんだかすごく自分たちが小さい存在だと思う。でも小さくても大きいんだよなぁ、なんて矛盾したことを考えながらぼーっと雲の動きを見ていた。
「あの雲、バクに見えない?」
その人がある場所の雲を指でくるくると囲んでいた。確かにそこにあった雲は象のように鼻が長く、豚のような体に見える。
「バクは怖い夢も食べちゃうんだよ。きっと、君の怖かったことも食べちゃうよ」
落ち着いた声でしっかりと安心させるように発せられた。
私は何もいえなかった。バクが夢を食べるなんておとぎ話にもほどがある。そんなことその人は今まで一度も言ったことなかったのに。
その人は少し恥ずかしそうにさっきまでいたバクの場所を見ながら話していた。
「だからさ、少しぐらいバクに辛いのあげちゃえば」
「え…?」
「慰めるのはあんまりやったことなくて、慣れてないんだけど…、あってる?」
「…褒めるのは?」
「褒めるのは慣れてる。褒められるのも」
余程自信があるのか、声に張りがある。
「あのさ…もし、僕のせいとかだったら言ってほしい。僕があんなこと言ったから辛い思いさせてるんだったら謝る」
「あんなこと…?」
「ほら、前に行動しないほうがたちが悪いって…言ったでしょ…?だから…」
「大丈夫です」
「…でも、そのこと考えて眠れてないんじゃ…」
「…眠れてます」
「嘘はだめだよ」
眠れない事がわかるなんて観察力がある。確かに最近は昔のことについて考えていた。ただ、それは自分のしたことに自信が持てないからであって、その人のせいではない。
それからその人はちゃんと寝られるようにおまじないとしてひよこのストラップにアブラカタブラと言って帰っていった。
「アブラカタブラって何?」
その人に手を振りながらー人で考える。きっとその人にしか分からないおまじないなのだろう。
夜、ベットの中で同じ事を考える。
どう謝ったらいいのだろう。どうやったらあの子の傷が癒えるのだろう。
「『ごめんなさい』はありきたりだし、『すみませんでした』だとなんか違うよな…」
頭を抱え、悶々と考える。まず返事も来ていないのに謝り方を考えても意味がない。
考えながらノートに謝罪の文を書いていくがノートの白紙のページが減っていくだけでしっくり来ない。
考えても考えても返事も謝罪の文も思いつく気がしない。菓子折りも必要なのだろうか。まず、手紙すら受け取ってもらえなかったのではないか。もしかしてあの光景が浮かんで恐怖心をあおってしまったのではないか。そんなことを考えながら気絶するように眠りについた。
それから、返事の手紙が来たのは数日後だった。ポストを確認すると、花柄の手紙が投函されていた。裏の名前には『井ノ瀬鈴』と書かれている。私がいじめをしていた子だ。返事を読むのはとても時間がかかった。手紙を見ながら腕を組み、1時間ほど混乱していた。その後、中には何が入ってるのだろうと予想した。もしかしなくても手紙だろうが、もし何か他のものが入っていたら、その手紙が糾弾や感情的に書かれ、私自身も泣いてしまったら。待ち望んだ手紙なのに、そんな事を考えると、開ける気になれなかった。
だが、そんな事を考えても時間は刻一刻と進む。封筒を取っては戻し、封筒を切っては戻しをしていると電話が鳴った。スマホを取り、母からの電話を受ける。少し早く帰れるからどこかで食べようという内容だった。承諾し、スマホをベットに放り投げる。いま出たところだと言っていたから、母の仕事場から三十分で着く。手紙を見る時間がないかも知れないと理解した時、ホッとした。ホッとしてしまった。
自分で行動して、相手にもそれを求めたのにそれを無かったことのようにしてしまう。私は私自身で恐怖を感じた。相手に同じ器量を求め、自分は途中でやめる。そんな事をしていいのか、いや、そんなこと絶対にしてはいけない。
私は意を決して手紙を取り出し、丸い綺麗な字を目で追った。
手紙の内容は私を糾弾していると思ったのにそんなこと一言も書かれていなかった。それどころか、『仕方がなかった』などとフォローすらしていた。
なぜ糾弾しないのか、なぜ私を責めないのか、不思議だった。
最後まで読んだ時、その理由が分かった気がした。
私のその後の行動が、後悔が恨みを無くしたのだと、そう書かれていた。
私は船から暗い海の底に重しをつけられて放り投げだされたかのように上下左右が分からなくなり、立ち尽くした。なにも出来なかった。一緒にいじめた。きちんと謝りもしなかった。そんな昔のことを今さら蒸し返して、誰が許せるのだろう。傍観者でもなく、主犯でもなかった。あの時は善悪の区別が出来ずに友達に嫌われたくないからという理由でノリに合わせてしまった。
私が持っていた手紙が歪んで見えなくなったのを頭で理解した時、母が帰ってくる音がした。急に現実に戻され、母に見られてはいけないと思った。
私がこんな事を抱えていると知らない母はー階から声を掛けてくる。
私は涙を腕で雑に拭き、手紙を大切な物をしまう箱にしまった。そして、急いで階段を降りる。
「ただいま」
「おかえり、早かったね」
母が玄関で外食に行く準備をしていた。
「うん。今日は早く終わったから上がってきちゃった。何か食べたいのある?」
「食べたいのかぁ…。甘いの食べたい」
「甘いの?主食は?」
「特にない」
「うーん…じゃあパスタでも食べに行く?お父さん今日帰り遅いし」
「うん」
「んじゃ、準備終わってる?」
「あ、スマホ取ってくる」
「うん」
そして、パスタを食べに行き、沙里は桃がたっぷり使われたパフェを頼み、母親はケーキを頼んだ。玄関とと車の中での会話で母は何かを悟ったらしく、食べ終わったあとに私の好きなケーキ屋にも寄ってくれた。そこで母と二人で太っちゃうね、なんてことを話しながらケーキを選び、持ち帰って父と三人でテレビを見ながら食べる。
パスタもパフェもケーキも美味しかったが、手紙の内容がふとした瞬間に思い出され、両親に知られることや目の前で泣いてしまうのではないかと不安にかられてしまう。
その後、部屋に戻り手紙を取り出した。もう一度、手紙を読む。相手が提示した日付は今週の土曜日の10時。私も予定はなかったし、謝るのはできるだけ早いほうがいい。これ以上長期間思い出したくないだろう。
土曜日、私はその子の家の前で深呼吸をしてからピンポンを押そうとしたが、手が震えてなかなか押せなかった。
やっと押せたと思ったらすぐに懐かしいような声が聞こえた。
「はーい。今行くから待ってて」
「うん」
気を抜けば座り込んでしまいそうな体を奮い立たせながら相手が来るのを待つ。
「…久しぶり」
鈴が声をかけた。
沙里は弱々しく「うん、久しぶり」と返事をして手土産を渡した。
「ありがと。入って」
「うん」
鈴に案内され、リビングのソファに促され、座る。
「…どうして、今様謝りたいなんて言ったの?」
「……何もしないのは1番たちが悪いって言われたから」
「誰に?」
「…知り合いの人」
鈴は少し考え込んでから私に目を合わせた
「今もその気持ちは変わらない?」
「うん」
一分ほど間を開けて答える。鈴の目を沙里は見ることができなかった。
「そっか。…私が帰ってって言ったらどうする?」
「…帰るよ」
「謝れてないのに?」
「だって、苦しんでるのは私よりも貴方だから」
「…そっか。それだけ分かってるのに自分が辛いから私に押し付けて逃げるんだ」
「逃げない。ここで謝ったとしても、やったことを忘れることもこれからやることもない」
「それ本当?」
「うん」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
そう言うと、鈴は引き出しから私が送った封筒を取り出した。そして、目の前で手紙を真っ二つに破いた。
「…どう思った?」
「何とも思わなかった」
「それはどうして?」
「それ以上のことをしてしまったから」
「…わかった」
鈴はふっと息を吐くと、封筒をもう一枚取り出した。さっきと同じ柄の封筒だった。そして、封筒の中から手紙を取り出した。
「こっちが沙里の書いた手紙。直筆だから、約束事として使えるよね」
何をするんだろう。雰囲気が少し軽くなった気はするが、手紙と何か関係があるのだろうか。
「沙里が次同じことをやったら絶対に許さないし、幻滅する。でも、今までもこれからも絶対にしないんだったら新しくお友達としていてあげる。だから、もう謝らなくていいよ」
「…」
「どう?」
「わかった。それに次同じ事が起きたら、私のこと殺してもいい。自殺に仕向けてもいい」
「え…?」
少しだけ過激な言葉が鈴をぽかんとさせた。
「それぐらい駄目なことだって思ってる」
「…そっか。それは安心した」
鈴は手紙を封筒にしまい、引き出しに戻した。そして、右手を差し出した。
「これからよろしく、沙里」
「うん。よろしくね」
沙里も右手を差し出し、握手をした。それから、中学、高校のことを少しだけ話して沙里は帰ることにした。
「今度遊ぼうよ」
「いいよ。時間空いてるから。いつでも誘って」
「りょーかい!」
鈴は昔のように笑顔で沙里のことを玄関まで送った。沙里も鈴と笑顔で別れた。
鈴は家に戻ってから部屋に一気に駆け上ると、声を押し殺して泣いた。
いくら昔にいじめをしていたと言っても沙里にされたのは無視ぐらいだ。私がいないところではなにか言っていたのかも知れないが、特に沙里だけからいじめを受けたわけではない。それに私を庇えばあの時の沙里は友達も立場も無くなる可能性があった。
それなのに手紙で律儀に謝罪がしたいことや無理なら断ってしまってもいいこと、糾弾を受け入れることが書かれていたのを読んだ時はどれだけホッとしたかわからない。
沙里には悪いが、罪悪感に蔑まれ、私と同じように苦しんでいると考えると、かわいそうだと思った。
だから、沙里ともう一度一から友達になりたいと思った。手紙があんなに丁寧に書かれていたから返事には時間を要したが、沙里とまた話せてよかった。
沙里は家に帰ってすぐに部屋の角に丸まった。
そして、我慢できずにポロポロと泣き始めた。鈴と話していた時も泣くのを我慢して、帰る時も途中涙で見えなくなりながら家に帰ってきたのだ。
沙里はホッとした気持ちと罪悪感が混ざって分からなくなっていた。
謝るという選択肢は本当に良かったのか、そして鈴はどうしてあんなに穏やかで居られたのだろう。そんな考えが頭をぐるぐると駆け回る。ずっと、苦しんでいたのに、許されればまたやるかも知れないと恐怖していたのに、許されてしまえば海底から出てこれた時のようにホッとした。
鈴は昔から穏やかで、一人でいることが苦ではない女の子だった。頭も良くて、いろんな人から頼りにされていた。でも、ある男の子が鈴のことを好きだと言って友達を振った。
そこから、いじめが始まった。私は友達にハブられることや鈴のようにいじめられることに恐怖があり、何も出来ずに友達と笑って、いじめた。いじめた日はいつも胸が痛くなっていた。それがどうしてなのかあの頃は分からなかったが、人を貶すこと自体に私は嫌悪感があるのだろう。だから、胸が痛くなる。そんなことを何度もしていたからそれを気づかないようにするのが上手くなった。
また海の底に潜ってしまいそうになった時、母が肩を掴んで声をかけてきた。
「ちょっと、大丈夫?」
なにが。なにを心配しているのだろう。もう許されたというのにまた苦しくなっていたのか。
「ねぇ、なんかあった?」
母が心配そうに聞くが、私は首を振って何もないと意思表示をした。小学生の頃とは言え、人をいじめていたなんて言えるわけがない。それも家族に。
「…なんかあったら言って」
「うん」
「約束だからね」
「はーい」
「それじゃ、ご飯できたから食べよう。冷めるよ」
「わかった」
母は安心したように部屋を出て一階に降りていった。私も母のあとをついていくように一階に降りながら謝れて、会いに行ってよかったんだと思うことにした。
それから鈴と放課後に会うようになった。また、それと同時に沙里は高台に行かなくなった。
鈴とは趣味が似ていたため、本屋に行ったり、映画を見に行ったり、たまにおすすめの本を貸し借りもするようになった。いじめをした事実はあるが、それを許容して仲良く出来ていたと思う。
ただ、高台の場所や雰囲気は鈴にも教えなかった。だから、あの場所を鈴にも教えたいと思うまで待ってみることにした。
学校でも陽菜さんや海原さんの他の人にも敬語が入るが話しかけられるようになった。
その間にまた一通返事が来た。もう一人は市外の高校に通っているようで一人暮らしをしているらしい。
手紙の内容は、憶えていないこと、そして休みの日にその子の駅で待ち合わせをして遊ぼうという話だった。
私はホッとした。憶えてないのは驚いたが、一緒に遊べることがガッツポーズをしてしまうぐらい嬉しかった。
約束の日、駅に向かい、集合場所で待っていると、後ろから肩を叩かれた。後ろを見ると、清佳が立っていた。
「久しぶり、沙里ちゃん」
「久しぶりだね、清ちゃん」
「ほんと、手紙が来た時はびっくりしたよー。連絡先交換してなかったっけって目が飛び出そうだった」
清佳は肩まである髪をなびかせながら笑う。
「多分卒業式で交換しただろうけど、使わないからって消した気がする」
「えー!…私も消した気がするけど…」
「同じじゃん」
「さて!どこ行く?」
「おすすめの場所がいい」
「いいよー!あとね、美味しそうなレストランも見つけたからそこで食べよ」
「うん」
清佳と話しながら、おすすめの場所に向かう。
そこは公園だった。ただ、遊具が少なすぎるのか、人がいない。
「ここね、穴場なんだよ。向こうにバトミントン売ってるから買って遊ぼー」
「いいよ」
「よっしゃー!」
バトミントンを買って遊びながら清佳が話しかけた。
「あのさ、なんで昔のこと手紙で書いてきたの?」
「謝りたかったから」
「別に私覚えてなかったからいいのに」
「…でも、やったことは変わらないし」
「ほんと真面目だよねー」
「そんなことないよ」
「そう?私結構沙里ちゃんのこと優しくて真面目で取っつきどころがないって感じに思ってた」
「違うよ」
沙里が打ち、清佳の足下で羽根が落ちる。清佳は羽根に見抜きもせずに沙里の方をじっと見ていた。
「あのね、私、嫌だったことを沙里ちゃんに話してないの。誰から聞いたの?」
「…友達」
「名前は?」
「…えっと…誰だったかな…」
「ま、いいや。言った子問いただしても意味ないし」
「あの…」
「私、あれは沙里ちゃんが謝んなきゃいけないことじゃないと思う」
「…」
「あれは私が謝んなきゃいけなかった。だって、教室ん中で走り回って叩いてたの私らだし」
「違うよ。私が清ちゃんだけを止めたから」
「そんなことない。あれは止めないと危なかった。多分、運が悪かったら鈴の時より大事になる」
「…」
「だから、止めてくれてありがとう。それからごめんね」
私は清佳の方を見れなかった。ただ、下を向いて涙を流すのを隠そうとした。
「沙里ちゃん」
清佳が沙里に近づき、頭をなでる。
「苦しませてごめんね。苦しまなくて、よかったんだよ。沙里ちゃんは広義的に正しいことだった」
「…ごめんなさい」
「私もごめんね」
清佳は目を細めてこちらを見た。茶色の瞳の中に泣きそうな私が映っていた。
「ほんと昔からすぐ泣いちゃうんだから」
「違うし…、泣いてないし」
「そっかぁ、じゃあ水が目から出たのかぁ…」
清佳は笑いながら沙里にハンカチを渡す。沙里はお礼を言いながら目にハンカチを当てる。
落ち着き、泣き止むと清佳が手を取って引っ張った。
「美味しそうなレストラン連れてったげる。早く行こ」
「うん」
レストランに着き、沙里はハンバーグ、清佳はステーキを頼んだ。
「ちょっと奮発しちゃった」
「いいと思う」
「これずっと食べてみたかったんだー!」
清佳は頼む前から目を輝かせてステーキが来るのを今か今かと待っていた。
料理が来ると二人で手を合わせ、いただきますと言い、無言で食べ始める。二人とも話しながら食べるのは上手ではなかった。
ハンバーグにナイフを入れるとすっと切れる。切った断面から肉汁が溢れ出ていた。そして、一口サイズに切り、口に入れる。
ハンバーグはまだ熱く、噛めば噛むほど口いっぱいに肉汁が広がる。
清佳の方を見るとそちらも美味しかったのだろう。口いっぱいに詰めて幸せそうに目をまん丸にして食べていた。
最後の一切れまできれいに食べ終わると二人は自分の頼んだ料理を払い、レストランを出る。そのレストランの入り口で二人は料理の感想を言い合った。
「あれすごくおいしかった!」
「こっちも!」
「ハンバーグ肉汁すごくて、もう…なんかすごかった」
「わかる。ステーキ柔らかかった」
二人して語彙力のない会話をしながらその場をあとにする。
それから、二人は駅に戻り、連絡先を交換して解散した。
「今度連絡するからあそぼー」
「うん!」
次に遊ぶ約束をして電車に乗る。電車は空いていて席に座れた。ホッとしながら今日を振り返る。沙里はまるで空を飛ぶかのように浮かれていた。