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あの日の一歩  作者:
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第一章

 誰かが泣いている。周りは真っ暗で何も見えないのにその子がうずくまって泣いているのは、はっきりわかった。

『君はだれ?どうして泣いているの?』

 そう聞いたはずだった。しかし、その子の耳には届かなかず、音としても声は出なかった。

 そこは私が知っている場所とは打って変わってどこを見ても真っ黒で自分がどこにいるのかすらわからなかった。さらには反響がなく、手をたたいても、大きな声を出しても自分の声や音が耳に届かない。

 これは夢だと思ったとき、かすかな声でその子は何かを言った。目を閉じ、耳を研ぎ澄まして聞く。そうすると自分の声は聞こえないのにその子の声は小さいものの鮮明に聞こえた。

「ごめんなさい。もうやらないから。許して」

 そう聞こえた。何を許してほしいのか、目を開け、その子に私は近づこうと手を伸ばそうとした。その瞬間、落ちた気がした。だが、周りは真っ暗だったから落ちたのかはわからない。ただ、その子が上に登っていく感覚がしたから落ちたんだと感じただけだった。


 部屋にスマホのアラームが鳴り響く。それを止めるために手探りでスマホを探す。スマホを見つけ、アラームを止めると布団から上半身を起こす。私はぼーっと壁を見つめる。たまに、まだ夢にいるような感覚が起きてからもすることがある。片頭痛の前触れだと思っていたが、今日は片頭痛が来ないので違うのかも知れない。

「早く起きなさい」

 下の階から母の声が聞こえた。私は生返事をし、のっそりと布団から出る。今日も特に変わらない一日が始まる。憂鬱なのは今日が始業式であるという事実のみ。

 ため息をつきながら、母が用意している朝食を食べにリビングへ向かった。

「今日は忙しいんだから早くご飯食べちゃいなさい」

 母が急かしてくるが、私は食べる速度を早めようとはしない。母がバタバタと忙しく準備しているのを横目で見ながら醤油のかけられた目玉焼きを食べる。父の姿は見つからない。見当たらないときは仕事に行ったか部屋で寝ているかどちらかだった。

「お父さんは仕事?」と聞くと、「今日は早く出る日」と簡潔に返事が返ってきた。

 なるほど、どうやら今日が新人が入社してくる日だったらしい。

「ご馳走様でした」

 ご飯を食べ終わり、食器を下げる。

 私は二階に戻り、制服に着替る。リュックを背負い、玄関で母を待つ。そして、母と同じ時間に”いってきます”と言い、家を出る。母は軽自動車に乗り、仕事場まで行く。母が車を走らせたエンジン音を聞くとイヤホンを付け、音楽を流す。

 学校までは徒歩で行くため、周りが聞こえる程度の音量で音楽を聴きながら行く。この時間が私は意外と好きだった。今日は始業式ということで、早く帰れると聞いていた。一人の時間ができるのが嬉しかった。

 学校に着き、校門に入ると後ろから「おっはよー!!」と声がした。

「おはよ。桜」

 イヤホンを取り、しまいながら後ろを振り向く。桜が後ろにいることを目で確認した。間違っていたら恥ずかしいから。

「おはよう!」

 桜はもう一度大きな声で言った。この子は柳原桜(やなぎはらさくら)で高校一年の時に知り合い、友達になった。面白くて、優しく元気な子だ。のんびりとしている私とハキハキと物を言う桜とは正反対だが、それがいいのか、入学してからの友達だ。桜は生粋の音楽好きだ。2人の出会いは1年前、音楽を通じて友達になったのだから。

「びっくりした」

「ごめんごめん。沙里聞いて!私、推しができたの!」

 桜はニコニコして報告してきた。

「だれ?」

 友達の推し事情には興味はないが、曲が聞けるのなら聞いてみようと思い、沙里はスマホのメモ帳を起動させる。

「えーっとね、この人!歌声がめっちゃ綺麗なの」

 桜がスマホの画面を見せながらどんなところがいいか話していた。確か、テレビにも何度か取り上げられていた気がする。桜はいつもテンションが高い。

 見た目も沙里はスラックスを穿き、髪は邪魔にならないように一つに束ねている。地味といえば言い方は悪いが、こういう人を指すのだろう。一方、桜は膝より高い位置にスカート丈があり、去年と同じくぶかぶかのパーカーを着て、髪も脇に三つ編みをしてショートカットとおしゃれを楽しんでいるようだった。

 物思いに更けていると、桜は頬を膨らませて言った。

「ねぇ、聞いてる?」

「うん、聞いてるよ。推しができたんでしょ?メモったから後で聞いてみるよ。」

「ありがとう!あ、あとね、先輩に春休み期間会っちゃったー!先輩って本当にかっこいい」

 頬に両手を当て笑っていた。すごくあざとくてかわいい。これが許されてしまう桜は本当にずるいと思う。

「好きな人だったけ?」

「そうそう!」

 桜の恋愛事情と推しを聞き流しながら周りを見る。みんな新学期で浮かれているのか、それとも春休みにしていたおしゃれが抜けていないのか髪が染められていたり、耳にアクセサリーが付いていたりしていた。頭髪などの検査は来週なのでそれまでに髪の色を変えなければ先生たちに再検査を言われるだろう。可哀想に。

 沙里はそんな面倒なことを早く終わらせるため、取り敢えずズボンをはいていた。これが一番楽だと自負している。検査と言っても一度も引っかかったことがないから見られるだけ。その時間が無駄だと思っていた。

 楽しそうに話している桜の話が一段落したのを確認し、私は話を逸らすためにクラス替えの話題を出すことにした。

「今日はクラス替えなんだから、早く見に行こうよ」

「そうだった!クラス替え!」

 そう言って嬉しそうにクラス表を見に行った。桜の後姿を見ながら沙里は考える。

 好きという感情は私にはわからない。いや、恋愛小説みたいに友達と喧嘩するぐらいなら分かりたくもない。私には小説があれば幸せだと、そう考えるのは駄目なのだろうか。

 沙里はぼーっと周りを見た。面白いものはないし、悲しいこともない。平凡で代わり映えのない生活だと我ながら思う。

「クラス、私達離れちゃったよー…」

 桜は悲しそうに沙里の方へ来たことで思考は中断する。

「もう見てきたの?早いね」

「うん…私1組だった。嫌だよ、離れたくない!」

 私は背伸びをしてクラス表を遠くから見た。

「あ、本当だ。2組になってる」

 桜は感情がわかりやすいほど、頭が下に折れている。感情が分かりやすくて面白い。面白いが、クラスが離れたのは沙里も悲しいため、提案をする。

「お昼は一緒に食べよ?」

「うん!」

 余程嬉しかったからか頭がもげそうなほど振っている。私は素直に声や感情を出せる桜だが、出来る人は少ないだろう。桜と話をしていると、周りも気になり始めているようだった。チラチラ見られている気がする。うるさかったら話しかけてくるだろうし、表情からして嫌悪感はない気がする。去年もこの学校に居たというのにこの子はいつも誰かの視線を奪っている。桜は気付いていないらしい。そういうところが桜らしい。

「じゃあ、またね」

 私はそろそろ教室に行く時間だったので話を切り上げた。

「うん!またお昼休み!」

 桜は元気に手を振り、別々の教室に入っていく。自分の席の場所を確認し、本を取り出しイヤホンをつけながらチャイムがなるのを待つ。去年と同じ行動パターンに過ぎない。チャイムがかすかに聞こえたのでイヤホンと本をしまった。先生が教室に入ってきたことを確認すると周りが自分の席に戻っていくのが分かった。優しそうな髪の長い女の先生だった。

「おはようございます。私は2年2組を担当する冬乃夏帆(ふゆのかほ)です。今年1年間、よろしくね」

 少しフレンドリーな先生のようだった。周りからもよろしくお願いします、と挨拶が聞こえる。不意に今日昼休みがあったのかという考えが浮かんだ。頭を振り、そんな事は置いといて沙里は声に出さずに心のなかで唱える。

「よろしくお願いします。でも早く帰りたいから早めに帰らせて下さい」

 そう思っていた。いつも帰りの時間を気にしている気がした。学校は何故か居心地が悪い。誰かが苛められているというわけでも、下品なことを話しているわけでもない。ただ、居心地が悪いのだ。

 先生達が放送で始業式が始まった。移動がない分早く始まる。ぼーっとしていると意外と早く終わるもので三十分ほど経って終わりになった。内容はもちろん憶えていない。今度は各クラスの担任に従えとのことだった。

「えー、では、自己紹介をします。名前、好きなものを話しましょうか」

 めんどくさい、一番最初に思ったことはやはりこれだった。学校に来て1番だるいのが発表や会話、皆の前に立つことだ。授業なんて、座って聞いておけばいいじゃないかなんて考えてしまう私は人見知りなのだろうか。会話は大事なんだろうけどなぁ、そう考えながら鞄から出した本を読んでいる。

 周りに耳を傾けながら自己紹介を受け流していた。最近、本を読みながら音楽を聴いていると二つ同時に頭に入れるということを習得した。

 ふと、澄んだ声が耳に入った。

海原悠介(うなばらゆうすけ)です。えっと…星とか空が好きです。いろんな人と仲良くなりたいです。よろしくお願いします」

 男の人なのだろう。低いが低すぎず、それでいて天然水のように澄んでいた。

 その後、数ページ読み終わったところでそろそろ私の番だろうと前を見ると、丁度前の人が立ったところだった。本をしまい、待っていると意外と早く終わってしまう。もっと遅くしてくれよと愚痴をこぼしてしまいそうだ。

 私は席を立ち、考えていた言葉を淡々と言う。

宮葉沙里(みやばさり)です。好きなものは日本の小説全般です。これからよろしくお願いします。」

 少し声が上ずってしまったが良しとしよう。一安心すると席に座り、本を取り出し読み始める。他の人の自己紹介をされても、名前を覚える気はないし、覚えられない。逆に覚える必要があるのかと考えてしまう。この学校には珍しく制服に名札がついていた。最悪その名札を見れば読み方さえあっていれば何とかなると思っている。

 全員が終わったのを確認し、先生が話を始めた。

「明日は普段通りの授業は午後のみの予定です。時間割りは数学と国語です。忘れずに教科書を持ってくるように。これで今日は終わりにします。完全下校は13時ですので、それまでに全員帰りましょうね」

 先生の話が終わり、私は周りが席を立つのを見計らって立ち上がった。席を立つとリュックを背負い、スマホをポケットから取り出す。桜に今日はお昼ないから帰ると連絡を入れた。桜からはOKのスタンプが送られて来たのを確認し、教室からでると、いつもの場所に行く。途中でお気に入りのパン屋、静守屋(しずもや)に寄った。

「いらっしゃーい」

 奥にある一つだけのレジからおばあさんが楽しそうにこちらに言った。七、八畳ほどの小さいパン屋でレジの奥は工房になっているのか、オーブンが見える。それにネットでの評価も高い。なにしろ値段が懐にやさしく、美味しい。お気に入りはサクサクの塩パン。数ある中で自分で食べる分をニつトレイに乗せ、お会計を済ませる三つで三百四十円、材料が高騰しているにも関わらず値段は前に来た時と同じ価格。四百円を財布から取り出し、トレーにのせる。

「六十円のお釣りね」

 おばあさんの陽気な声でお釣りをもらった。

「ありがとうございます」と小さな声でお礼を言い、お店を後にする。

 家とは少し外れた方向へ歩き出す。目的地は誰も来ないあの場所。本当は私服に着替えたいと思いながらもいつもの場所に行けることとお気に入りのパンが買えたことで上機嫌だった。リュックにはお弁当が入っているが、帰ってから食べる予定だ。両親に午前中で学校が終わることを伝えていないため、作っていただいた。パンでお腹がいっぱいになっても両親が帰って来るのは午後6時頃、それまでにお弁当を片付ければバレることはない。

 道路の脇にある細い道を通り、ところどころ塗装が剥がれて見づらくなった『高台入口』とペンキで書かれている看板が立っている所を右に曲がる。看板はあまり知られていないし、見つけづらい。そこを進むと見上げる程の大きなしだれ桜の木で造られた桜のトンネルがある。そこを通ると祖母から数年前に教えてもらった穴場に着く。顔を上げ、目の前を見る。目の前には建物と車が小さく見える。高い建物、多分5階くらいからならどこでも見えるだろう。でも私はここの景色が好きだった。ここには二つの丸い椅子と長椅子が一つ、腰下ぐらいの柵のみ。平日も休日も人は見かけない。前に人を見かけたのは初日の出を祖父母と両親と一緒に見に行った時だった。あの時はお年寄りが数人、雲に隠れている太陽を今か今かと出るのを待っていた。それ以来、その場所で人を見なかった。

「あ…人がいる」

 周りを見渡すといつも座っている特等席に人が座っていた。あの場所が一番奥の山まで見やすい席だった。しかも長椅子。私はそこでいつも真ん中に座り、両隣に荷物をいつも置いていた。そこが私の席だというのも相手を不快な思いにさせてしまうので、何も言わずに景色を見て帰ろうと頭を切り替えた。その人は歩いてくる音に気付いたのか後ろを向いた。

「…あ…」

 声を発したが、何を話せばいいのか分からなかった。少し考えた後、お辞儀だけで済ませた。帽子をかぶっていてよくわからないが、多分私より年上だと思う。

「君はよく来るの?」

 くぐもっているが透き通っている声が聞こえた。

 君とは誰なのだろうか。いや、私とその人しか居ないから、私に聞いたんだろう。でも、私とは関係ないと割り切りその人の質問を無視した。そしてその人の反対側にある丸太一人用の椅子に座った。出来れば関わりたくなかった。さすがにお腹が減ったのでパンを取り出そうと思い、袋から一つ取り出す。取り出した塩パンはサクサク感が手で持つだけでわかる。さらにパン独特のにおいが微量に漂ってきた。その誘惑に勝てず、その場でパンの袋についているテープをはがす。今日はクロワッサンと塩パンとマフィンだ。パンのいい匂いがふわっと鼻をくすぐる。

「美味しそうだね」

 くぐもっているが透き通って聞こえる、何とも言い難い声が聞こえた。すごく綺麗で聞き惚れてしまうような、ずっと聞いていても飽きなさそうな、そんな声だった。

「無視はダメだよ」

 声が近くに聞こえたので振り向くと後ろに立っていた。おばけみたいに足音がしなかった。いや、気付かなかっただけかも知れない。

「…食べますか?」

 少し迷った末、手に持っていた外はサクサクで中はふわふわの塩パンを持ちながら言う。袋を開けただけなので口にはしていないので、まだセーフゾーンだ。それに一刻も早くどこかに行ってほしかった。だから、パンを渡した対価に帰ってもらおうとしたのにその人は一瞬驚いて目を少し見開いた後、嬉しそうな表情になった。

「いいの?」

 目がキラキラし始めた。いや、正確にはそう見えただけだ。でも、少しだけ面白いと思ってしまった。パン1つでころころ表情が変わるのを見て面白いと思うのは仕方がないことだと思う。その人は隣のベンチに腰を下ろし、次の言葉を待っていた。

「私、2つ買ったんです。塩パンとクロワッサンしかないですけど、どっちがいいですか?」

 少しだけ噓をついた。マフィンは従妹のお姉ちゃんにあげようと買ったものだったから。

「クロワッサン!」

 間髪入れずに答えた。余程食べたかったのだろう。私のほうが勢いに負けて姿勢を反らしてしまったぐらいなのだから。

「はい、どうぞ」

 そう言ってリュックからクロワッサンを取り出し、渡す。その人が食べ始める前に思い出した。

「アレルギーありませんよね?」

 クロワッサンを見ていた手がとまった。でも、クロワッサンを見ている。

「ないよ」

「じゃあ、いいですよ。あげます。」

 その人は不思議そうにしていたが、食べ始めると止まらないようで口いっぱいに食べていた。例えれば、欲しいおもちゃをサンタさんに貰った時のような、そんな子供みたいな顔だった。

 クロワッサンと塩パンは1つ120円、マフィンは100円だ。すごく安いと思う。私はバターの香る塩パンを味わいながら食べていた。本当は子どもみたいに足をバタバタさせたいが、人前だからやめておく。最近は売り切れるのが早いと店を閉店させるため、行っても休みなことが多かった。だから、今日は食べることができて幸せだった。

「あー、美味しかった」その人はニコニコしていた。

「ごちそうさまでした」

 私が手を合わせて言い、ゴミをリュックの中に詰め込んでいると話しかけてきた。

「ねぇ、君の名前は?その制服は青柳高校の制服だよね?」

 高校名が当たっていた。私立だからある程度の知名度はあるが、制服を見ただけで分かるのだろうか。でも、知らない人に個人情報を教えてはならないという常識は押さえてある。

「教えません。誰だかわからない人と話しません。さようなら」

 椅子の脇に置いておいたリュックを背負い、席を立つ。

「クロワッサンくれたのに?」

 図星をつかれた。だから、何も言えなかった。数秒か数分かも知れないが少し間があった。私はその間に耐えきれず、ため息をついた後、言った。

「わかりました。ただし、あなたの名前も教えてください」

 とても面倒くさいことになった。人と話すのは一番体力を使う。だから、その人の名前を聞くだけで、私は教えなくても行けるのではないかと考え、適当に言った。

 その人は私のことを信頼しているのか、教えるのになんの躊躇もなくその条件を聞き入れた。

「え…マジですか…」口からポロッと出てしまった。本当なのかと驚いた。この人は素直すぎると思い、この人は詐欺に騙されるかも知れないなと客観的に思った。っていうか、騙されてみてほしい。

「僕の名前は雪」

 名前のみ教えてくれた。なぜ名前なのか知らないが、本名らしかった。

「名字は?」

「名前だけだよ。ほら、次は君の番」

 自分は名前を言ったから、と急かす。ため息混じりの声で名前をいう。信用もできないのに…なんて思いながらもこの人は悪い人ではないと言っている気がした。

「私は沙里です」

「沙里、いい名前だね」

「…、ありがとうございます」

 少し嬉しかった。やはり自分の名前には愛着があるのだろう。それなら、あの人の名前も褒めてあげれば良かった、と今更ながら後悔した。その人は少し前のめりにして聞いてきた。

「所でさっきのパン美味しかったけどどこで売ってるの?」

「あ、すぐそこです」

「場所教えてもらってもいい?」

 少し恥ずかしそうに言った。その様子がおねだりをする子犬を連想させるものだったので少し笑ってしまった。

「いいですよ。今から行きますか?」

 それにパン屋さんの宣伝にもなるのでこれは教えて損はなかった。現にパンが美味しかったと言われればこっちも嬉しくなってしまう。

「うーん…今じゃなくて、また逢えたときでもいい?」

「いいですよ。じゃあ、帰りますね」

 踵を返し、木のトンネルを通ろうとした。

「うん、またね」

 振り向くとその人は小さく手を振っていた。その事に気づかないように急いでその場所を後にした。

 家に帰って偽名を使えば良かったと思い直したが、あそこにいた人が学校にクレームを言うような事を私はしていないし、逆に感謝はされども文句は言われる筋合いはない。それに、被害に合うような器用なことをするとは思えなかったので、気にしないでおいた。家に帰り、着替えて少しだけ図書館に行くことにした。徒歩十分ほどで着くので運動にはちょうどよかった。三時半から従妹の葵が家に来る予定だったため、その時間つぶしにちょうど良かった。従妹の嬉野葵(うれしのあおい)はこの近くの調理専門の大学に通っていた時に私の家で一緒に住んでいた。理由は簡単、その大学の近くにはマンションも寮もなく、葵の自宅から2時間もかかる。その話を聞き、両親が部屋が余っているからと家に呼んだのだ。もともと二人は他の人から姉妹と思われるほどに仲が良かった。大学を卒業してからも月に一回ほど一緒に遊んでいた。葵は卒業をしたら有名なケーキ屋さんに就職し、店長の技術を盗むために日々精進しているらしい。

 図書館に行く自分が知っている最短ルートを通るとさっきまでいた場所が見える。あの人はまだ私の特等席に座っていた。

 図書館に入ると何とも言い難い本の匂いと静寂が訪れる。家に帰ってきたような安心感がある。いつものように本を一冊だけ選び、椅子に座り、小説を読み始めた。その本が読み終わるとあった場所に戻し、時間を確認する。既に三時を過ぎていた。私は急いで図書館を出る。早歩きで帰っていると、ふとあの人がいた場所を見た。あの人は私の席にもどこにもいなかった。

 家に帰るとちょうど葵が車で駐車しているところだった。駐車し終わると運転席からケーキの箱を持った春さんが出てきた。

「久しぶり、沙里」

「お久しぶりです。嬉野さん」

 会釈をして葵の近くに寄る。

「いいよいいよ。前みたいに葵で」

「そうですか?」

「うん。そっちのほうが私は嬉しい」

 そう言いながら後ろの座席からバックを取り出した。

「じゃあ、葵姉」

「うん、沙里」

「あ、今玄関開けるね」

 ポケットから鍵を取り出し玄関を開ける。

「うわっ、前来た時と変わってないね」

「変わってたらどんなところが変わってるの?」

「うーん、私の部屋が消えてたり?」

 葵はいつもふわりと笑う。

「あ、これ。新作のケーキね」

「ありがとうございます」

 ケーキの箱を受け取り、四つのうち二つだけ皿に移しかえる。中身は苺のショートケーキだった。

「来月からお店でも出すから通った時にでも買っていってよ」

「気に入ったら買います」

「多分沙里、気に入ると思うよ」

 先にテーブルに座っている葵の目の前に苺のショートケーキとフォーク、お茶を置き、対面に座る

「じゃ、食べよっか」

「はーい」

 二人で手を合わせ、いただきますと言うとケーキを食べ始めた。

「どう?学校は順調?」

 葵は食べながら聞いた。私は上の苺をどかし、スポンジの部分から食べ始める。メレンゲの甘さもくどすぎず、軽すぎず、食べやすい。スポンジもふわふわで美味しい。苺も酸っぱいというわけではなく、苺単体でも甘いと感じる。

 沙里はのんびりとショートケーキを食べながら葵の質問に答える。

「まだ始まったばっかりだよ」

「…あ、そっか」

「うん。まぁ、普通に過ごすよ」

「いいなー、高校生。私ももう1回やりたいわー」

「…そんなにいいものでもなくない?」

「いやいや、青春でしょ。恋愛とか、友情とか!」

「…めんどくさくない?」

「えー…そんなんだから本の虫って言われんだよ?」

「本の虫でいいよー、だ」

「あははっ、沙里だねぇ」

 葵は笑い、しみじみと沙里のことを見た。

「…なんかあったの?」

「んー…あった、ってわけじゃないんだけど、少し辛くなっちゃってさ」

「…辛く?」

「うん。あ、病んでるとかそういう部類じゃないよ。そういう辛さじゃなくて、スランプっていうのかな…そういうのに嵌ってて…」

 葵はショートケーキの一番上に乗っている苺をフォークでいじりながらポツリポツリと話し始めた。

「実は、デコレーションがうまく行かなくて、繊細な部分だから、気を張らないと私は出来ないんだけど、その集中力が減っていってるんだよね…。店長にも心配されて少し凹んでてさ…」

 葵の顔がどんどん下を向き、影が落ちる。沙里は持っていたフォークを置き、葵を見た。

「…大丈夫だと思う」

「え…?」

 葵が沙里の顔を見る。

「葵姉は頑張ってたから疲れが出ただけだと思う。ちゃんと休めば体がついてくると思う」

「…沙里」

「だから、辛いかも知れないけど、それは乗り越えられない辛さじゃないはず…」

「沙里ー!」

 葵はこちらを向き、大泣きした。沙里はハンカチを葵に渡し、涙を拭いてもらう。数分後、落ち着いたのか鼻をすすりながら言った。

「あんたって子は、すっごいね。いっつも欲しい言葉がもらえるよ」

「…そんなことないと思うけど」

「ほんと、困ったことがあったら沙里に話せば共感してもらえるし、すごい従兄弟を持ったもんだよ」

 葵は腕を組んで何度も頷きながら泣き腫らした目で笑っていた。

「聞いてくれてありがとう。これ、あげる」

 そう言って葵のショートケーキの上に乗っている苺を沙里の皿にコロンと乗せた。

「やった。ありがと、葵姉」

 沙里は嬉しそうに苺を食べる。それを見た葵も顔を綻ばせていた。

 ケーキが食べ終わってから、静守屋のマフィンを渡すと、葵は嬉しそうに礼を言い、食べていた。

 静守屋のマフィンは葵がパティシエを目指した理由にもなっている。優しい甘さのふわふわとしたマフィンが一瞬で葵の胃袋を掴んだらしく、近くに来るとマフィンだけをたくさん買って帰るらしい。

 その後、のんびり話して満足したのか、葵はスッキリした顔で帰っていった。

 私は後片付けをし、弁当を食べて洗い物をする。それが終わると両親が帰ってくるまで自分の部屋で読みたい本を選び、椅子に座って本を読む。読み終わったら他の本を選び、読む。

 それを繰り返し、両親が帰ってくる音がすると本を一時中断し、おかえりと声を掛ける。

 その後はご飯を食べ、両親と他愛のない会話をし、寝る前に本を読み、寝た。

 次の日の朝は桜と一緒に登校するため、桜との集合場所で待っていた。だが、集合時間を十分すぎても来ない。もしやと思い、電話をかける。

 何度か呼び出し音が耳に響く。それから少し経ってからゆったりしている桜の声がした。

「もしもし、桜?」

「あれ?沙里から電話なんて珍しいね」

 桜は眠そうにあくびをしながら話していた。やはり起きたばかりのようだった。

「冗談はいいから、今何時だと思ってんの?」

 沙里は呆れ、溜息ながらに言う。

「あ、ごめん!今から準備していく!」

 今時間に気づいたのだろう。スマホからバタバタと桜が走っている音がする。

「待ってて!すぐ行く!」

 桜はそう言うと一方的に電話を切った。沙里は空を見ながらのんびりと切られた電話に返事をし、苦笑しながら待つ。

「おはよー、沙里!」

 電話が切れてから待つこと十分。桜から肩をたたかれ、声が掛かる。スマホから視線を上げ、声の方に顔を向ける。

「ん、おはよう。桜」

「ごめん、遅れた!アラームならなかったー!」

「だと思った。電話してよかったよ。ほら、早く行こ?」

「はーい!」

 私達は徒歩で行ける距離の高校なのでのんびりできる。少し遅れたぐらいでは遅刻にもならない。

 通学路を二人で他愛ない話をしながら歩く。どこから話題が来たかわからないが、桜が恋バナを始めた。

「ねぇねぇ、沙里は好きな人できないの?」

「できないよ。どこをどうやって好きになるの?」

 沙里はキョトンとしながら聞き返す。

 私は恋愛になど興味はない。ただ、桜はなぜか色々な人を好きになるらしい。例えば、先輩は去年の秋頃、部活でいじめられていた所を助けられたらしい。そこで恋に落ちたとか落ちてないとか…。いじめと聞いて驚いたのを覚えている。

「それは、わかんないけど…この人だ!ってなるもんだよ!」

「それが桜にはあるんだ。っていうか、まだ私引きづってるからね?いじめられてたこと話さなかったの」

「えー、もう終わったことじゃん」

「そーだけど…」

「もー!私ばっかり話してるじゃん」

 桜は頬を膨らませてあざとい、といわれるような顔をした。無自覚は恐ろしい、そう沙里は思った。

「桜の話を聞くのが楽しいの」

「ほんと?」

「本当。桜の話好きだよ」

「ありがとう!そうだ。最近、人気の人達がいるんだけどこの人たち歌がすごく上手なの!沙里も聞いてみなよー!」

 桜がスマホでグループを見せてくる。

「昨日の人のこと?」

「それとは違う人だよ」

「1回だけね?」

「ありがとー!」

 そんな会話をしながら学校の中に入る。去年と同様、他の生徒から声がかかるのが桜だ。

「おはようございます!」と後輩から、「おはよー」と気軽な先輩からも。なぜそんなに交友関係が広いのか聞いたときは部活や委員会で話すことがあるのだという。桜も嬉しそうに返事をする。

「ほら、もうすぐ着くから。またお昼休みね」

「うん!またね!」

 手を振って教室に入っていく。その姿さえ、桜は絵になるのだから友達として自慢できるのかも知れない。おまけに性格もいいと思う。いい友人を持ったものだなと客観的に見るながら自分の席につく。出来れば窓側の1番端が良かったが、出席番号順では無理だろう。

 私の1日は朝早く帰りたいと思うことから始まる。朝礼前には読みかけの本を取り出し、読み始める。

「おはよ!宮葉さん」

 海原が話しかけてきた。沙里は本を閉じ、顔を上げる。

「おはようございます」

「今日の夜、流星群が振るんだって。宮葉さんも見てみてよ。きっと綺麗だよ」

「そうなんですか?」

「うん。本で例えると…、欲しい本がキラキラ光ってる感じ?」

 海原が首を傾けながら言う。

「なるほど、覚えてたら見てみます」

「ほんと!?ぜひ見てみてよ!」

 海原が嬉しそうに笑い、他の人のところへ話しかけに行く。沙里は本を開き、読み進める。

 去年同様授業時間では話を聞いているふりをしながら読んでいるミステリーを思い出し、矛盾している点や犯人になりえそうな人や証拠を探す。新しい学級での各授業の1時間目は大体先生の自己紹介等で終わるので特に話を聞いていなくても問題はない。お昼は桜とご飯を食べ、放課後には桜は部活なので一人で帰る。少し遠回りにはなるが、1人になりたい時や目が疲れたときはいつもの場所で景色を見る。だが、今日はそのような目的ではなかった。沙里からしたら、あの人が居るかどうかを確かめるために行くなんて、不純な動機になる。

「あ、いた」

「やぁ、昨日ぶりだね」

 沙里はポツリと呟いた言葉が男性の耳に届き、返事をした。

 あの人は同じ場所に座っていた。だから、いつもの場所に座ることを諦めた。

「じゃあ、さようなら」

「あれ?帰っちゃうの?」

「はい」

 沙里の予想は確信に変わった。ここに居るとしたら、よほど1人が好きな人か、物好きしかいない。

「こっち来てゆっくりしていきなよ」

 男性はそう言い、沙里は周りを見渡して戸惑った。

 何故1人が好きなのに人数を増やそうとするのだろう。

「…暇なんですか?」

「君はなんでここに来てるの?」

 話が噛み合わない。でも沙里は不思議と嫌ではなかった。

「疲れたから」

 どうせ私のことは知らないのだし、何を言ってもいいだろうと前向きに考え、思ったことを何も考えずに発した。

「そう」

 そう言って、座っているベンチの半分を開ける。その空いている場所をポンポンと手で叩き、座るように促していた。私はその人の隣に座ってリュックを地面に下ろし、空を見上げた。無言の時間が続く。私は無言の時間が好きだった。鳥が鳴く音や車のエンジン音がよく聞こえるから。

 十分程経ったのだろう。アラームが鳴る。

「あ、ごめんなさい」

 急いでアラームを止め、帰るためリュックを背負う。

「ばいばい」

 その人は私の方を向いて手をふっていた。

「…さようなら」

 私はお辞儀をして帰っていく。足取りは学校に行くよりも、ここに行くときよりも軽かった。あの人は何か不思議な力を持っているのかも知れない。なにか人の気持ちを軽くする力を…。そんなことを思ってしまうのはあの場所が誰もいなく、静かだからだと思った。


 次の日、学校では海原が沙里と桜が登校しているのを見ると後ろから声をかけてきた。

「おはよう!」

「おはようございます」

「おはよー!」

 海原が声を掛けると沙里は敬語で、桜は軽く挨拶をした。海原はワクワクしながら聞いてくる。

「昨日の流星群見た?」

「見ましたよ。流れ星、いっぱい流れてましたね」

「だよね!あれがチリの粒や小石だなんて宇宙はすごいよね」

「え、昨日流れたの?」

「そうだよ」

「えー、見たかったぁ…」

 桜は流星群のことをいま知ったらしく、がっかりした。

「海原さん、で合ってる?」

「合ってるよ。海原悠介。そっちはヤナギバラ?」

「ううん、柳原って読むの。柳原桜。よろしくね」

「よろしく、桜」

「よろしくね、悠介くん」

 二人ともコミュニケーションが得意なのか仲良くなっていた。

 それから海原は沙里と昨日の流れ星のことについて楽しそうに話した。桜はそれを楽しそうに聞いたり、不思議に思ったことを質問したりした。桜の質問に二人は真剣に考えていた。

「どうして宇宙の端っていけないの?」

 と桜が質問すれば海原は哲学的から沙里は小説をもとに考えてみる。

「宇宙の端っていってもそれが『光の届く範囲』までしか分かってないから…えっと…星が見えるところまでは分かるんだけど、星にも一等星や二等星、三等星って続く。で、その光が見れる最大が確か、138億光年だったと思う…。で、それ以降が」

「も、もういい!悠介くんの話難しいよ!?」

 桜が手を海原に向けて止めた。

「さ、沙里は?宇宙の端ってなんでいけないの?」

「私、は…真っ暗だからだと思う」

「どうして真っ暗だと行けないの?」

 海原が疑問を投げかける。

「暗いと前、左右、後ろが分からないからぐるぐる回ると思うから」

「…なるほど」

 海原は考えるように黙った。桜は沙里の言っていることなら何となくわかったらしく、一度、手を叩いた。

「ぐるぐる回ってるから端っこが見つかんないんだね!」

 桜は納得したように頷いた。沙里は言い訳にも似た保険をかけようと口を開く。

「…でも、これは想像であって、本当はどうなっているかは」

「面白いな」

 沙里の言葉を遮るように海原は楽しそうに笑う。

 そして、校門に着くと海原は知り合いを見つけたのか二人に軽く挨拶をして知り合いの方にかけて行った。

「行っちゃったね、悠介くん」

「うん」

「あー、面白かった」

 桜は楽しそうに笑っていた。それから二人はいつも通り話しながら教室前で別れ、教室に入る。

 特に変化のない日常を過ごしていた。


 沙里はあの人に会ってから週に2日、学校で辛かったときやイライラした時はその場所に行くことにした。沙里がそこに行くと二分の一の確率で男性が特等席に椅子を半分開けて座っていた。

 その場所はいつしかニ人の穴場スポットになっていった。そして、その人は週に三日いるらしい。その人がいても居なくても、私はその場所にいつものように週二日から四日の頻度で通った。ここは人がいないので私が唯一何も考えなくていい場所だった。たまに逢えば少し話したり、帰るまで沈黙だったりした。会えなければ小声で鼻歌を歌ったり、本を読んだりしている日々が続いた。最近は、新しいクラスに慣れてきた。足取りも軽く、悩みはあまりなかったと思っていた。

「こんにちは」

 その人は今日もいた。いつも同じ服を着ていたのは不思議だったが、聞くほどの仲でもなかったし、気にする必要もなかった。

「こんにちは」

 今日こそはと覚悟を決め、帰るときから言わないといけない言葉をゆっくり落ち着いて空気に声を乗せる。

「あの、前、案内してなかったパン屋さんを案内しますか?」

 男性は一瞬なにを言っているのかわからないという風に目をパチクリとしていたが、すぐに目をキラキラさせた。

「お願いしてもいい?あのクロワッサンすごく美味しかった!」

「よかったです。私もパン屋さんなら、あそこが上位に入るぐらい美味しいって思ってます」

 男性が笑うとこちらも釣られて笑える。二人は荷物を持って立ち上がる。

「それじゃあ、お願いします」

「はい」

 案内をするため、展望台を出ると、信号を渡る。そこから少し歩くと旗が立っているパン屋が一軒見えてくる。駐車場が狭いので、車で来ることはお勧めしない。現に二台しか停められない駐車場は満車だった。

「ここです」

 後ろを歩いている男性の方に向いた。男性はドアにかけてあるプレートを見ると、声を出して読んだ。

「静守屋?」

「はい。ここのマフィンが美味しいんですよ」

 沙里は自慢をするように言った。男性は感心したようにコメントする。

「へぇ、それは食べてみたいな」

 店の中に入ると、奥にキッチン、その手前にレジがあり、壁に沿って周りに約20種類のパンが並べられている。店の中にはラジオが流れていて、元気いっぱいのおばあちゃんとおばさんが働いていた。男性が中を見ると感嘆し、興味津々の様子で周りを見た。

「おぉー」

「いらっしゃーい」

 少し間延びしたおばあちゃんが挨拶をする。二人が笑顔で会釈をすると、美味しいよ、と言って奥のキッチンに入っていった。その間も車が1台ずつ入っては出てを繰り返していた。二人は、パンをいくつか買うと、外に出ていつもの場所に戻っていった。

「すごく人気だったね」

「とても美味しいですから」

「食べるのが楽しみだなぁ!」

「総菜パンも美味しいですよ」

 そんな話をして、いつも通り夕日が見えるまで周りの音に耳を傾け続けた。



 次の日も海原は登校し、荷物を机に置くと沙里に話しかけてきた。

「おはよう、宮葉さん」

「おはようございます」

 沙里は本を閉じ、海原の方を見る。そしていつものように一時間目が始まるまで話をする。その内容は宇宙や空、そして今日起きたことなど多岐を渡った。


 数週間後のある日、沙里の足取りは重かった。学校で戦争の話が出たのだ。勿論、戦争のことを学ぶのは必要だが、やはりなくならなくて良かった命が消えたのは胸が痛くなる。だから、一人でいつもの場所に行こうと思っていた。少しでも刺激が与えられれば涙腺が刺激され、泣いてしまうかも知れない。それに少し落ち着きたかった。校門を出ようとしたとき、後ろから声が聞こえた。

「沙里ー!聞いて!」

「あれ?どうしたの?」

 私は桜に帰る所を話しかけられた。めんどくさそうな顔を出さないように、友達に優しい自分であれるように話を聞く体制に入る。

「私ね。部活、辞めたの」

「え…」

「だから、今日から一緒に帰ろー!」

 桜が淡々と話し、一緒に帰れることを嬉しそうに話すが、私は動揺していた。なぜ、部活をやめたのか、それが頭の中でグルグルと回っていた。

「なんで…?」

「帰りながら話すね」

 結局、私は高台に行けずに帰ることにした。

「沙里、部活辞めた理由が気になってる?」

「そりゃ、桜が1年もやってたんだから。気になるに決まってるでしょ?」

「理由はね、つまらなくなったから。」

「つまらなくなった?」

 桜は一歩先を歩いていたが後ろを向いた。

「そ。なんか、沙里楽しそうじゃん。そしたら私、青春してないなー、って思ってさ」

「楽しそうかな?桜は桜で青春してんだと思ってたけど…」

「私って好きな人がいるでしょ?」

「うん」

「今回は、この恋は本気なの。だから、負けない。相手が沙里でも」

「え?」

 私は意味がわからなかった。

「私、知ってるんだ。冬乃先輩と一緒に話してるの」

「冬乃先輩?」

 冬乃先輩とは誰なのか頭を巡らせたが、分からなかった。ただ、先生の名字だとは思ったがそれ以上は分からなかった。

 桜は続けた。

「私、冬乃先輩が憧れだったの。だから、この高校に入ったって聞いたから、頑張って勉強して入ったのに先輩は部活にいないし虐められたとこ助けられたと思ったらすぐどっか行っちゃうし、見つけたと思ったら、沙里といるし」

「ちょ、ちょっと待って!冬乃先輩って誰?それに、助けられた先輩がその人だったの?振られたって話は?」

 沙里は手の平を桜の方に向けながら話を止めた。

「一気に質問しすぎ…。あと、誰って冬乃雪先輩」

「冬乃雪?」

 頭の中で桜の言葉が響く。少し私には時間が欲しかった。

「桜、少し時間頂戴」

「うん。いいよ」

 一つ一つ整理していく。桜が言っていた冬乃雪が私の知っているあの人で、桜の好きな人があの人。ついでに同じ高校にいる。

「おけ。なんとか整理した」

「あ、あと、冬乃先輩、結構ミステリアスで気になってる人、意外といるよ」

「はぁ…」

 もう理由がわからなかった。

「私が振られたって言ったのは冬乃先輩に彼女がいるって噂を聞いたから。質問には答えられた?」

「…うん、ありがと」

「いーえ。それで、この事を話したのはお願いがあって、」

「お願い?」

 私は首を傾ける。桜は顎を引き、頷いた。

「うん。冬乃先輩と仲いいでしょ?」

「仲は良くないよ?」

「そんなことない!皆話しかけられないのになんで、沙里だけ…」

 桜は少し言葉が強くなっていった。

「…それでお願いって何?」

 私は面倒になってきた。だって、仲が良いとか悪いとか勝手に言われているのだから。ただ、おなじ場所を共有しているというだけで何もなかった。

「えっと…私もあの高台に案内してほしいの。ついでに紹介も…」

「え?」

 なぜ高台という言葉が出てくるのか分からなかった。あそこの高台は私の唯一の何も考えなくても許される場所。鳥の鳴き声や車のエンジン音、人の声が遠くに聞こえるから落ち着く場所であって、その場所を先輩との恋愛の場にするなんて絶対に嫌だった。別の場所でやってほしかった。

「だから、私も高台に行って、先輩に近づきたいの。他の人には言わないから!あ、もちろん沙里の一緒のほうがいいよね?」

「やだ」

 沙里は自分の服の袖を強く掴み、即答しながら首を振った。それを聞いた桜は一瞬、苦虫を噛み潰したような顔になったが、すぐにもとに戻った。

「なんで?もしかして、やっぱり沙里も冬乃先輩のことが好きなの?」

「好きとかわかんないけど、あそこは私の唯一の何も考えなくていいところなんだ。だから、安心する場所を取らないでほしい。だから、教えられない。他のところならいいよ」

「ふーん。やっぱり、先輩のこと取られたくないんじゃん。しかも雪先輩はよくそこに言ってるって噂だし、そこのほうが良いでしょ?だったらそこで会話したほうが良いのに、横取りしようとしてるの?」

「そうは言ってない。別の場所でやってって言ってるの。あそこは人間関係を作る場所でも人が恋愛に使っていい場所じゃない。横取りでも何でもないよ」

「何?恋愛してる私が汚いとでもいうの?」

 何も言えなかった。私は恋愛をしている人たちが嫌いでうざかったのも事実だ。

「何も反論してこないってことは汚いって思ってるんでしょ」

「違う」

「じゃあ何?私のこと嫌いだった?」

 私は言葉を発するのが面倒になって、喧嘩するのが苦しくて、何も言わなかった。ただ、友達としての亀裂が走ったことは確かだった。沙里は胸が苦しくなり、目には涙を浮かべた。それを見た桜は呆れに似たため息をついた。

「…わかった。ごめん。じゃあね」

「うん、ばいばい。こっちこそごめん」

 桜は帰って行った。私は謝りつつも、恋をする人ってあんなに盲目で面倒なのかと思ってしまう。あの場所は入口が分かりづらい場所にあるため、見つけづらいのだろう。袖で涙を拭い、イヤホンで音楽を聞く。

「疲れた…」そう思った時、ふと、高台に行きたくなった。高台に着くと、夕日がしずむところだった。いつものベンチに腰を掛け、夕日を眺める。いつも隣にあの人がいたため、無意識のうちに片側に座っていた。

「綺麗…」

 そう自然に音が出る。

「だよね」

 優しく、全てを包み込むような音の持ち主は男性だった。それはいつもと同じように曇っているのに透き通って聞こえる綺麗な声だった。

「お久しぶりです」

 夕日を見ながら声をかける。隣に座ってきたようだった。

「久しぶり。二日ぶりだね」

 その声を聞くと、胸のモヤモヤが消えていくようだった。

「なにかあった?」

 そう確信したような声色で聞く。いつも聞いてこないのにこの時だけ聞いてくるなんて卑怯だと沙里は思った。でも、それが自分たちにとって有利なことも知っていた。

「雪さんって、私と同じ高校だったんですか?」

「やっと名前を呼んでくれたね」

「そうでしたっけ?」

「そうだよ」

「っていうか、はぐらかさないでちゃんと言って下さい」

「そうだね。僕は君と同じ高校に通っているよ。3年生だ」

「やっぱりそうだったんですね」 

「君は、それを誰から聞いたの?君とは会ったことないし、自分で分かったってわけじゃないでしょ?」

「…友達です」

「そう。他には?」

 他に何があるだろうと考え込み、桜と話していて不思議なことを聞いてみることにした。

「…恋ってわかりますか?」

「こい?」

「恋愛の方の恋です」

「あぁ。それは僕にもわからない。恋はしたことが無いからね」

「そうですか…ありがとうございました」

「もう大丈夫なの?」

 男性は心配そうな顔をしていた。

「はい。さようなら」

「ばいばい」

 雪さんは木のトンネルを通る前まで手を振っていた。

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