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実験

作者: 太川るい

「ふむ、ふむ」


 博士は度の強い眼鏡を一層顔に近付けながら、目の前のフラスコを見ていた。


「実に奇妙だ!」


 そう、博士は人気(ひとけ)のない研究所の中で、一人声をあげていた。


 博士の目の前には、これまでの研究の結晶があった。


 それはフラスコの中に入った物体で、博士はそれを十数年にわたる苦心の末にようやく作りだしたのだった。それが、いままでにない変化をしていた。


 博士にとって、そのフラスコは我が子も同然だった。朝、研究所に来た時、博士はまずそのフラスコに挨拶をする。夜(もっともそれは明け方までかかる時もあったのだが)、帰る時も、博士は愛おしそうにそのフラスコに別れを告げるのだった。もはや博士にとっては、生活がフラスコを中心に回っているかのようだった。寝てもさめても博士はそのことばかりを考えていた。




 ある時博士は、研究所を訪れた知り合いの友人にこの研究のことを話した。いついかなるきにもこのことを考えていたので、自然と話題にあがったのだった。




「なるほどなあ」


 友人は博士の話を聞きながら、あいづちを打った。


「最近はそんな風になってきたのか」


 この友人は、博士と会うたびに研究のことを聞かされていたので、もう博士がだしぬけにその話をしだしても、驚かないようになっていた。


「ああ」


 博士は返事をしながらも、(なか)ば自分の世界に入り込んでしまっていた。


「不思議なんだ。これまで普通だったものが、今日になっていきなり不思議な兆候をあらわしだしたんだ」


 博士は独り言のようにそう話した。


「実に奇妙だ」


 そう言ったっきり、博士は黙り込んでしまった。


 こうなってしまうともう博士は何も聞こえなくなることが分かっていたので、友人は邪魔をしないように、そっと帰っていった。


 博士は夕暮れ時になるまでその場所を動かなかった。考えなければいけないことは山ほどあったし、そうでなくとも博士には自分の空想に隙間を持たせる時間が必要だったので、思考の総時間はどうしても長くなってしまうのだった。


 博士がようやく考えからさめた時、あたりは暗くなりはじめていた。体を動かすと全身がこわばっているのが分かった。しかしそんなことは博士の日常であったので、博士は大きくひと伸びをしたあとに(くだん)のフラスコへと向かっていった。




 そのフラスコは普通の実験室にあるようなオーソドックスなものではあったが、やや大ぶりで、端には博士が自分の所有だと分かるように小さく印をつけているものだった。博士はそこで育てていた物体を、心ゆくまで眺めた。


 フラスコの中のその変化は、ともすれば常人には気付くことが出来ないほど、ささいなものであった。しかし、毎日それを見ている博士にとって、その違いは重要なものだった。


 博士はわくわくとした。今回現れたこの変化は、一体何をあらわしているのだろう。それの意味するものは何なのか。それを考えることは、博士にとって至福の時間だった。


 しかし研究は進まなかった。博士が重大だと断じたその変化は、いかなる測定の上でも変動を示すものではなかった。博士ははじめ計測の方法が悪いのだろうと思ってあれこれと試してみたが、どうもそういう問題ではないらしい。そのことをようやく博士が認めたとき、いささかの落胆が無かったかと言えば嘘になる。


 だがその分からなかったということさえも、博士にとってはフラスコとじっくり触れ合うことのできる幸福な体験だった。


 博士には、フラスコの物体は実験対象以上の何かだった。博士はそこに聖性を見ていた。




「なに、研究所が移転するだって?」


 突然やって来た役人にそう告げられた時、博士は思わず聞き返してしまった。


「ええ、通知をご覧になっていないのですか」


 眼鏡をかけた役人は、どこか冷たそうにそう言った。


 博士は以前、研究所に届いていた封筒を思い出した。博士はいつもの癖で、それをよく確かめもせず、書類の山にまぎれこませてしまったのだった。


「ううん、あったような気もしますが」


 役人は博士の散らかった机の上を見て、ため息をついた。


「何度かお知らせしていますがね。来月までには、立ち退()いていただきます」


 博士にとって、それは寝耳に水だった。


「立ち退くと言ったって、移転先があるのですか」


 役人はうなずいた。


「ええ。△△研究所の所長さんと、話をつけてあります」


 その研究所は、博士も聞き覚えがあった。そこの所長は、人格者としても名高い人物だった。


 博士は一旦考えだすとあちこち夢想する癖がある。目の前に役人がいるにも関わらず、博士はそのような状態になりかけた。


「いいですか」


 役人は念を押した。


「来月までに、この研究所の中のものを、移転する準備を固めておいてください。先方にも、受け入れ場所の用意がありますから」


 噛んで含めるように話したので、博士は夢想の世界から戻ってくることができた。


「わかりました」


 一旦そう返事をしたあと、博士はフラスコのことを思い出した。


「あの、ちょっといいですか」


「なんですか」


 役人が聞き返す。


「研究所の中のものということは、この部屋全体をそっくりそのまま移すということですよね」


「出来る限りではありますが」


「となると、このフラスコも、移すことになりますね」


「もちろんです」


 そこまで聞いて、博士の顔は曇りを帯びた。


「それは困る……」


 それは役人が聞き取れないほどの小さな呟きだった。


「どうかしましたか?」


 役人がたずねる。


「いや、なんでもありません」


 博士は一応、そう取り繕った。




 その後役人は、移転の概要を博士に伝えて、帰っていった。研究所には博士が一人取り残された。


「どうしようか」


 博士は見るともなくフラスコを眺めた。フラスコは、相変わらずぼんやりと光っている。


 博士は考え込んでしまった。博士にとっては、このフラスコが我が子も同然だった。だからこそ、今回の移転がフラスコに与える影響も理解していた。




 日はだんだんと暮れていった。


 あたりが暗くなり、フラスコの輪郭だけがぼんやりと浮かびあがってくる。その様子は、まるでフラスコの中に生命があるかのようだった。


 博士はそれをじっと見つめていた。自分がなくなってしまったかのように、じっと見つめていた。


 そうして日頃の疲れから、いつのまにか博士は眠りに落ちていた。




 朝になると、博士は目を覚ました。永い研究生活で得た眠りの深さは、博士の特徴の一つとなっていた。


 博士が大きく息をする。


 ふと、目の前のフラスコに視点が合った。


 博士はぼんやりとフラスコを見ていた。しかしその眼は、次第に大きく見開かれていった。




 そのフラスコは、いつものフラスコだった。いや、正確には、例の変化が起こる前のフラスコの状態だった。フラスコは、もとに戻ってしまっていた。




 博士はけっして感情を大げさに出そうとはしなかった。また、喋りだすこともなかった。


 無言でフラスコの上を持ち、白衣の中にそれを忍ばせた。




 やがて役人は、博士から一通の手紙を受け取った。


 そこには、自分は研究の一切を放棄すると書かれた文言と共に、辞表が添えられてあった。

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