はじめましての距離
不思議なルームシェア。
私は、母が死んだ瞬間を見失っていた事を知った。
学生時代、テニスをしていた時にも、そういう感覚になる事は何回かあった。
初めて対戦する相手でも、試合前に何気ないラリーを数回しただけで『この人強いな』ってわかる直感みたいなもの。
ワタシにとってのアオイとの出会いはその時の感覚に近いものがあった。
前日にシェアハウス……正確にはルームメイトを募集していたアオイの自宅、そこに引っ越して来た時の記憶は引っ越しで疲れてしまいスグに眠ってしまったからなのか、何故か記憶にない。
酔っ払った翌朝のような気分で目を覚まし、恐る恐る一階のキッチンに降りて行った。
アオイはまだ寝ていたので、シーンとしたリビング。
彼女とまだ顔を合わせていなかった緊張で、少し肌寒い空気が固く重く感じた。
緊張を和らげる為にキッチンの蛇口を捻って水を一杯飲もうとしたら、後ろのドアが開く音と一緒にアオイが部屋に入って来た。
「あ、はじめまして、レイコです」
ワタシが慌てて、しどろもどろに挨拶をすると、アオイはニコッと優しく微笑みかけてくれた。
「はじめまして、アオイです。これからよろしくお願いします」
アオイの笑った顔は、緊張していたワタシを優しく包み込んでくれる、母親のような暖かさを感じた。
その瞬間、ワタシはアオイとはきっと仲良く暮らしていけると思ったのだ。
私たちの共同生活の初日は、偶然にもアオイの誕生日だったので、お祝いと挨拶を兼ねて、夕飯にパーティをする事にした。
ちょうどその日はワタシが大好きなミュージシャンの誕生日でもあった。
スーパーまでの道のり、ワタシがその事をアオイに話すと、なんと彼女もその音楽を知っていて話が弾んだ。
「お母さんが大好きだったから、ワタシもよく聞いてたんだ」
ワタシにそう言った瞬間、なぜかアオイは少し悲しい顔をし、ふっとワタシから顔を逸らした。
彼女の大人びた横顔に夕陽が重なったのがとても綺麗だった。
アオイのお母さんはアオイが五歳の頃に亡くなったそうだ。
買い物を終え、キッチンで二人で夕飯を作っていると、ワタシの直感はやはり正しかった事に気付いた。
料理の味付けから、洗濯、掃除の仕方、ゴミ出しの役割、都合のいい所は共通していて、都合の悪い所はうまくデコとボコがくっ付くといった具合にワタシとアオイは完璧に生活の役割がはまったのだ。
早起きのアオイがゴミ出しはやって、綺麗好きで仕事に行かないワタシが掃除をメインで受け持つなど……これからの役割がパスタを茹でている間に全て決まってしまった。
夕飯になるとお酒も入って、お互い砕けた話もするようになった。
28歳。同い年。
そして二人とも既に両親をもう亡くしていた。
たった一日、彼女と過ごしただけで、幼い頃から知っている親友に出会ったような気分になった。
その出会いが嬉しくもあり、向かいのテーブルで笑っている彼女を見ると「なんでもっと早く出会えなかったんだろう……」という贅沢な寂しい気持ちにもなった。
アオイには言っていないが、ワタシはあと三ヶ月で死んでしまうのだ。
『バースデイイブ』と呼ばれている珍しい病気だ。
どこか体が悪いワケでも、何か健康に異変が起きるワケでもない。でも、この病気に罹ると、何故か誕生日の前日にまるで電池が切れたようにコロッと死んでしまうのだ。
原因も治療方法も解っておらず、毎年、世界中でこの病気が原因で数万人が亡くなっている。
症状もない以上、医者は手の施しようもなく、AIでしか見つける事ができない奇病だ。
「ねぇ、あおいのお母さんってどんな人だったの?」
ワタシが生きている残りの時間、彼女と悔いのない生活をしたい。だから、もっと仲良くなりたいし、アオイの事も知りたかった。
けど、ワタシがその話を振った瞬間、彼女は避けるように椅子から立ち上がり、台所で料理の片付けを始めてしまった。
ワタシ、何か気に触ること言ったかな……
無言で洗い物をながら考えたけど、思い当たる節が見当たらない。けど、お酒も入ってたし、無神経に何か言ってしまったとも考えられる。
その時、買い物途中に見せたアオイの悲しげな表情を思い出した。
お母さんのことはあまり聞かれたくないのかな?
一緒に暮らし始めてしばらく経った。
アオイはお母さんの話とは違う時にでも、その友達同士の空間に穴が空いたような、寂しい表情を見せるようになった。
しかも、その寂しさには絶対ワタシを触れさせないと決めているかのように、原因を聞こうとすると、彼女はワタシをするりを避けていく。
生活のほとんどでは親友と言っても過言ではないのに、アオイは最後の最後になるとワタシを突き放す。
そんなアオイの態度もあって、ワタシは病気のことを彼女に打ち明ける事を躊躇ってしまった。
アオイはワタシから少しづつ距離を置くようになっていた。
正確には毎日少しづつ離れていってたのが、共同生活が始まって一ヶ月でハッキリとした距離になったという感じだ。
日が経つにつれ、食事の時の会話も減っていき、今では無言でお互いに目も合わさずに食べる日も出てきた。
なんで距離ができたのか……アオイの顔を見ると元気が無さそう。
仕事には毎日行っているし、体はどこも悪く無いようだ。数日に一回は出会ってすぐのように話が弾む時もある。
ワタシたちの間の邪魔をしているモノはハッキリしている。
アオイのあの寂しい表情だ。
仕事に出て社会を知っているアオイと違って、ワタシは会社に行っていない。次第にワタシが妹でアオイが姉のような力関係になって行った。
元々アオイの家でもあるし、ワタシはその関係に納得しているのだが、アオイはそれを良しと思っていないようだ。
何が不満なのかわからない上、アオイはワタシに打ち明ける気はない。
ただ、残りの人生をこんなシコリのある状態で終わりたくない。
その日の夕飯の後片付けをしている時、隣で洗い物をしているアオイに意を決して打ち明けた。
「ワタシさ、あと二ヶ月で死ぬんだ」
流石に驚いてくれるだろうと思った。
でも、アオイは聞こえていなかったように、ワタシが打ち明けてしばらく無言でお皿の水を拭き取る作業を続けていた。
「……そう、なんだ」
彼女の返事はそれだけだった。それ以降、ずっと無言で食器についた水を拭いていた。
ショックとか驚いたとかそう言うものがワタシの心臓の鼓動になってどんどん大きくなっていく。
しばらく時間が経っても、アオイの返事の意味が分からなかった。
「何、その返事」
「え?」
「聞こえなかった? ワタシ、死ぬんだよ。あと二ヶ月で」
「聞いてたけど……どう、リアクションすれば良いか分かんなくて」
アオイは小さい声で「ごめん」と呟いた。水一滴、床に落ちれば消えてしまいそうなほど、小さい声だった。
リアクション。
まるで、アオイは今までワタシが気に入る言葉や仕草を選んでずっと生活していたような言い方だ。
まるで今までの生活が演技だったみたいに……
「ワタシの何が不満なの?」
この一ヶ月、ずっと我慢していたけど。この時になってワタシの押さえてたものが噴き出した。
「不満なんて何にもないよ」
嘘だ。
アオイとワタシの間にはずっと距離がある。
普段の何気ないやりとりは楽しいのに、友人や恋人としか共有できないような深い事になると、彼女はワタシの気持ちをいなす様に顔を背ける。
「ごめんなさい」
アオイがまた謝った。
「本当に……どうすれば良いのかが、分からないの。ごめんなさい……」
そう言ってアオイの言葉は止まって、彼女の手と腕だけが会話を続けているような動きを続けていた。
何か言葉にならない悩みが彼女の中にある様な動き、その悲しみに押し潰されそうな表情。
しかも、それは察するにワタシに関してのことなのだろう。
「ワタシのことで何か、悩んでるの?」
「そうじゃないの。ちょっと待って」
「アオイは私が死んで、悲しい?」
ワタシが尋ねると彼女は口籠ってしまった。嘘でも「悲しい」と言えば良いだけなのに、彼女は俯いて、目を閉じた。
「分からない」
アオイはそう言った。
「そう」
ワタシはリビングを後にし、自分の部屋のベッドの中に蹲った。「分からない」の意味を考える余裕がないほどにショックだった。
友達が死んだら悲しいはずだ。アオイはワタシを友達だと思っていない。何故か気を遣って、距離を置いて、遠ざけようとする。
そうじゃない。
ワタシはアオイの大きな負担になっている。
それもワタシには分からない原因の。
あと二ヶ月後の誕生日の前日に、ワタシは死ぬ。
営業の方は事務的にポスターみたいな笑顔を浮かべて言った。
「次のクローンが最後のお母さんのクローンになります」
ホッとした様な、不安な様な、寂しいような、向かいのテーブルの子供が食っているパフェのように色んなものがグチャグチャに混ざった、混線した感情を解く余裕もなく、ワタシは書類にサインした。
24歳の真夏のある一日。
もう、四年も前の事なのに、未だに去年くらいの出来事に思える。
ワタシの本物の母が亡くなったのはワタシが五歳の頃だった。
当時の母は二十八歳。
父とはワタシが三歳の頃に離婚し、父はすでに再婚していた。
葬式が終わると親戚一同の同意で母のクローンが作られ、母のコピーがずっと今日までワタシを育ててくれた。
最初は「お母さんが死んだ」と聞かされ、子供だったワタシには背負いきれないほど大きなショックを受けたが、次の日になるとお母さんは元気になってワタシの前に戻ってきた。
『死ぬ』なんて事は所詮、その程度のことなんだ。
五歳のワタシは『死』というものを簡単なこととして解釈していた。
だけど、自分が歳を取るにつれて、それは間違いだったと徐々に気付かされた。
ワタシは一年に一つ歳を取る。
だけど、クローンになった母は歳を取らない。
ずっと28歳のまま変わらない。
しかもクローンは人工テロメアの数に限度がある為、五年しか生きられない。5年経てば、また新しいお母さんがやって来る。
それも最初は大した問題ではなかった。世の中に28歳と29歳の違いがわかる人なんているはずがないのだから。
ワタシが10歳の頃、最初の母のクローンはいなくった。翌日に新しい少し若返った母親のクローンがやってきた。
ワタシは初めて母に違和感を感じた。
昨日よりも少し若くなったお母さん。三十三歳からまた二十八歳に戻った母と十歳に成長したワタシ。
周りの友達のお母さんよりも若いな、とワタシはお母さんを見て感じていた。それが初めて感じた違和感。
十五歳。
二十歳。
母に対しての違和感は思春期と共に次第に大きくなっていった。それにつれてワタシは母の年齢に近付いて行った。
十五歳になった頃、外を歩いていて親子ではなく姉妹に間違えられた。
母のクローンは笑っていた。
でも、ワタシは何かわからないけど、ショックだった。
大学生になり、バイトも始め、社会の空気も少し吸う様になった辺りから、母のやる事にだんだん腹が立つ様になった。
今まで見えていなかった母の幼稚さがワタシに見え始めたのだ。
クローンは歳を取らない。
けど、ワタシは歳をとる。
母への言葉にできない怒りや苛立ちが次第に募っていく。
そして二十五歳。
ワタシは社会人になっており、母とは三歳しか違わない関係になっていた。
「次のお母さんが最後のクローンになりますが……よろしいでしょうか?」
新しい母になる半年前に生命保険会社の担当者に尋ねられ、「ああ、そうか」と思った。
やっと母を見ないで済むのか。
法律上、クローンの親は子供の年下になってはいけない。と、言うことになっている。
次に母のクローンを作る時にはワタシは三十歳になっているので、二十八歳の母は、これが最後のクローンなのだ。
正直、この時、ワタシにとって母親は、親というよりも出来の悪い妹に近い存在になっていた。
もともと母はロクに社会に出た経験がなく、離婚した夫からの慰謝料とパートの給料で生計を立てていた。
五歳で亡くなった時に生命保険のお金が降りたことで、母のクローンは働かずずっと家にいたのだ。
営業さんの説明ではワタシが二十八歳になる日に母は母で無くなるそうだった。
それは母が大好きなミュージシャンと同じ誕生日の日。
母は親だった頃の記憶を全て失い、同い年になったワタシと対等の立場で最後の時を過ごす事になっている。
そして、それから三ヶ月後、母の誕生日の前日、母のクローンは突然に電池が切れた様に死ぬそうだ。
世間で『バースデイイブ』と呼ばれている病気だと母のクローンには伝えられる。謎の奇病で亡くなっている人物は全て、誰かの親だった人間のクローン。
親は存在する理由を失い、体だけ残して、この世からいなくなる。
「アオイ、おやすみ」
ワタシの誕生日の前日、母はいつもと同じように最後の挨拶をして、部屋を後にした。
ワタシはホッとした様な、明日出会う新しいレイコという同じ年の女性への緊張でなかなか寝付く事ができなかった。
静かな夜だった。
この夜の下、ワタシの母は今現在、死んでいるのだ。
次の日の朝、ワタシがリビング降りると母はすでにキッチンにおり、ワタシを見るなり驚いた表情を浮かべた。
本当に母はいなくなったのだろうか? 怖くて話しかける事ができなかった。
「初めまして」
母がニコッとワタシに微笑みかけた。彼女の中から母の記憶は本当に全て消えていた。
「はじめまして、アオイです」
ワタシはニコッと笑みが出た。
今まで見たこともない母親だった。ワタシを産んだという威厳が完全に消えた母親は、少し頼りないけど可愛い友達の様に見えた。
さようなら、お母さん。
何気なく心で呟いたその言葉が、沁みるようにジワジワとワタシの中で悲しみに変わっていく。
同居を続けて一週間くらいしてからだったと思う。
レイコがワタシに不満を抱いているのが雰囲気から感じ取れる様になっていた。
レイコがワタシに友人としての好意を持っていることには気付いていた。少なからず、ワタシもレイコのその気持ちに応えようと努力はしていた。
少し前まで母親だった女性を友人として深く付き合うのには、抵抗が……心が拒絶反応を示す様であった。
初めて出会った日に二人で買い物に行った時、ワタシは彼女が母親だという事を忘れ、つい母との思い出を少し話してしまった。
彼女はそれを自分のことだと夢にも思っていない感じで楽しそうにその思い出を聞いてくれた。
隣にいる彼女から、消えてしまった母の存在がワタシの心にボンヤリと浮かび上がってきた。
ワタシの心の奥に堰き止められていた悲しみがドッと押し寄せてきた。
レイコにはもう母親の面影は何処にもない。
ワタシと同い年だけど、世間知らずの妹の様な存在。ただの母親の抜け殻。
あのホッと安心した感情はどこへ消えたんだろう。
レイコといると母に会いたくて仕方がなくなる。家にいるのに、母の待っているお家に帰りたい。
でも、もうお母さんは何処にもいない。
「ワタシね、あと二ヶ月で死ぬの」
彼女にそう言われ、ふとワタシの頭に一つの言葉が過った。
お母さんはいつ死んだんだろう?
今、目の前にいる同い年の彼女はもうお母さんじゃない。
泣きながらリビングを出て行ったレイコの頼りない姿は、昔、母に怒られて不貞腐れていた自分そのもの見えた。
ワタシの母が死んだのはいつなんだろう?
レイコがいなくなった部屋でソファにもたれながら、しばらく考えた。
五歳の頃?
クローンだと知った時?
ワタシの方が大人っぽくなった時?
ワタシが同い年になった時?
ワタシは母が死んだ瞬間を見失っていた事に気付いた。
小さい頃の思い出の時、あんなに大人っぽくて大好きだったお母さんを知らない間に見失っていた。
しばらくしてレイコの部屋を見に行った。
彼女はベッドの布団の中で寝息を立てていた。枕やシーツが涙でシミになっている。
布団の上で子供の様に眠る彼女を見下ろし、ワタシは彼女が起きないように布団を直した。
もう、お母さんはこの世にいないと初めて気付いた日に見る、母の顔はただの幼い妹。
この人は母親じゃないんだ。
それからの二ヶ月は、吹っ切れたように自然とレイコと暮らせた。
そして、レイコが死ぬ当日。
特別な事は一切せず、いつも通りに過ごし、夕飯を食べ終え、ワタシと彼女はソファでテレビを見ていた。
「ねぇ、アオイ」
眠たそうな声でレイコが突然話してきた。
「アナタと出会えて本当に良かった」
月並みな言葉を残し、彼女はワタシの膝の上に寝転がってきた。
「急に何よ、それ」
「言い忘れない様にしておかないとと思って」
彼女は猫の様な欠伸を一回した。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
彼女はそう呟いて、ウトウトしながら瞼がゆっくりと閉じていった。
「どういたしまして」
ワタシは彼女の肩のあたりをゆっくりと叩きながら、小さい頃に彼女から教わった子守唄を歌ってあげた。
レイコはそのうちに寝息を立て始めた。
まるで今日でお別れなんて思えないほど、彼女はリラックスして等間隔で暖かい寝息をワタシの膝にかけてくる。
時計の針が12時になった。
膝の上で寝息を立てていた彼女から何も聞こえなくなった。
ワタシはソファに寝そべり、ゆっくりと目を閉じた。
頭の中にある記憶から母が死んだ日を見つけるべく、思い出を一つ一つ開けて行く事にした。
「さよなら、お母さん」と、いつか言える時が来るまで