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忘れな草

作者: 青海啓介

 何かに悩むと、僕は必ずこの小さな消しゴムを見る。

 幅5センチくらいの小さなイチゴの香りがする消しゴムだ。

 可愛いイチゴの絵が書いてある。

 これは僕にとって、何よりも宝物だ。

 小学校1年生の時、ある女の子に貰ったものだ。

 これをポケットに入れていると、どんな困難も乗り越えれる気がするし、道を外れそうになったときも、この消しゴムを眺めることで、思いとどまることができた。

 僕はまた辛いことがあると、必ず空をみる。

 空は青空だけではない。

 曇り空、雨空、雷が鳴ることすらある。

 でも、僕はそんな時でも雲の上にある青空を想像する。

 きっとこの空はどこかで君につながっている。

 君は僕のことを覚えていないかもしれないね。

 そして幼い頃交わした君との淡い約束。

 でもね、僕は君のお陰でこうして生きている。

 いつの日か君に会えると信じて。


 僕が物心着いたとき、父親は既にいなかった。

 僕の父親はアメリカ人であり、沖縄に赴任していたときに、僕の母親と出会い、恋に落ち、僕が産まれたとのことだ。

 そして、父親は任期が終わると同時に、アメリカに帰り、音信不通になったらしい。

 どうやら、向こうにも家族がいたとのことだ。

 母親は半ばそれが分かっていたが、それでも僕を妊娠した時、迷わず産むことにしたらしい。

 沖縄にいた時は、父親も僕を可愛がってくれたらしい。

 何枚か写真がある。

 産まれたばかりの僕と、母親、そしてアメリカ人の父親。

 かなりのイケメンだった。


 写真の母親は子供の僕が見ても美人だった。

 黒いまつげに大きな瞳。瓜実型の小さな顔に、黒い長い髪。

 僕は小さな頃から両親を恨んできたが、容姿という点だけは、僕は両親に感謝している。

 だからこうして俳優としてやっていけている。


 母親は子供を育てる能力が無い人で、僕は幼い頃、ネグレクトと言えるような生活を送り、小学校2年生になる頃、祖母に引き取られた。

 年金暮らしの祖母との生活は貧しかったが、三食食べられることは有り難かった。

 もっともそのために君と遠く離れてしまったわけだが。

 

 俳優の仕事は楽しい。

 例えて言えば、万華鏡のような日々だ。

 毎日、同じようで同じ日は無い。

 傍目には、とても華やかな生活に見えるだろう。

 だが、実態は同じパーツの組み合わせだ。

 だがそろそろ僕の持っているパーツだけで、作る模様に飽きてきた。

 万華鏡はパーツが増えれば、当然組み合わせも増え、新しい模様が増える。

 そろそろ新しいパーツが欲しい。

 

 どうだろう。

 今の僕なら君に会う資格はあるかな。

 僕が唯一持っている君の写真。

 小学校1年生の秋の遠足の時の集合写真に映る君に話しかけた。

 

 

  穏やかな風が吹く快晴の中、満開の桜の下を歩く。

 これは私にとって、1年で一番幸せな時間と言える。

 平凡な会社員生活の中で、私の楽しみは移ろいゆく季節ごとの花や景色を愛で、写メで自撮りをし、それを家の中に飾ることである。

 私が一番好きな季節は春であり、私は毎年、桜が咲いた週末は桜の名所をできるだけ訪れることにしている。

 特に今日は土曜日であり、明日も休みであること、暑くも寒くもない快適な気温であること、雲一つ無い快晴であること、肝心の桜が満開であること、そして穏やかな少しの風。

 このような条件が重なった日は、陳腐な表現かも知れないけど、心の底から「生きていて良かった!!」と思う。

 ちょっと大げさかな。

 私は自分で言うのも何だけと、ごく普通の平凡なOLである。

 もちろん背格好、容姿、好きなもの、嫌いなものなど、世の中に全く同じ人はいないだろうけど、あえて分類するとそうなる。

 中堅の事務用品卸の会社で、契約社員として働いて三年目になる。

 短大を卒業し、リース会社に新卒として入社したが、ノルマがあり、2年で体を壊してやめた。

 その後、半年くらい千葉県内の実家で休養して、アルバイトを間に挟んで、今の会社に契約社員として入社した。

 給料は高くは無いが、贅沢をしなければ、都内で何とか独り暮らしをして、僅かだけど貯金をできるだけの金額は貰っている。

 今年で27歳になるが、交際相手もおらず、自分のために時間を使える今に、まあ満足している。

 かっては二人ほど付き合った男性もいたが、趣味や性格が合わなかったりして、結婚までは至らなかった。

 私はあまり自分の容姿に気に使う方ではないと思うが、まあ普通だと思っている。


 私は映画を見るのも趣味である。

 気になる映画があると、必ず見に行く。

 恋愛映画、アニメ、SF、ジャンルは拘らないが、サスペンス、ホラーは苦手である。

 俳優は最近人気の小柳悦郎とか、杉野夏彦が、まあ好きだ。

 大ファンと言うほどではないが、出演するドラマは必ず録画している。


 私は春の穏やかな気候と桜を満喫したその日の夜、パソコンで今日桜を背景に撮った、自撮りの写真を眺めていた。

 個人でやっているSNSにアップするのだ。

 誰かが見るわけでも無く、ただの自己満足。

 自分の日記のようなもの。

 なかなか良く撮れている。

 自分で言うのもなんだけど、私、写真映り悪くないわ。

 そう思いながら、何枚目かの写真を見ていたら、背景に独りの男性が映り込んでいる写真があった。

 私はその部分をマウスをクリックして拡大した。

 あれ?

 違和感を感じた。

 この男性の写真をどこかで見た気がする。

 その男性は長身で、Tシャツとジーンズをはいており、サングラスをかけている。

 モデルのようなスタイルであり、それで印象に残っていた。

 私は、過去の写真を見直した。

 2月に撮った渋谷のイルミネーションの前で、自撮りした写真で目がとまった。

 カップルだらけの中で、空いた隙を狙って、自撮りした写真だ。

 その写真の中に似た人物が写り込んでいた。

 拡大すると、手に持っている鞄が同じものに見える。

 時計も特徴的なもので、わかりずらかったが、やはり同じものに見える。

 こんな偶然ってあるかしら。 私は他の写真も見た。

 気付かなかったが、駅前のイルミネーションの前で撮った写真にも同じような人が小さく映り込んでいる。

 よく見ると、他の写真の中にもその男性らしき人物が映り込んでいるものがあった。

 私は、背筋に寒気を感じた。

 こんな偶然ってある?

 私は狙われている?

 誰に?

 心当たりはない。

 私は、学生時代普通に友人がいて、いじめられることも、いじめることも無かった、と思う。

 誰かに恨みを買った記憶も無い。

 写真に映り込んでいるのは、今年の1月からの写真、五枚だった。

 それ以前には映っていない。

 どういうことだろう。

 まさか、心霊写真?

 私はカーテンを開けて、窓から外を見た。

 特に誰も立ち止まっている人はいない。

 私は外に出て、辺りを一周してみた。

 誰もついてきているようにも、部屋を監視しているようにも見えない。

 気味が悪い。

 私はその晩、ドアに鍵をかけ、普段しないチェーンをして寝た。


 翌日からも私は誰かついてきている人がいないか、時々振り返って様子を見た。

 だが、特についてきている人も監視している人も見当たらなかった。

 彼と私の接点は五枚の写真だけ。

 偶然、趣味嗜好が一緒で、たまたま同じ日の同じ時間に、同じ場所にいた。

 そう思うことにした。


 その次の週末、土曜日は千葉県の実家に帰省し、日曜日は帰りがてら映画を見に行った。

 気をつけて見たが、誰もついてきている様子はない。

 やはり気のせいだったのかな。


 それから約一ヶ月が立った土曜日、私は急に初夏の海が見たくなり、海に行くことにした。

 そして鎌倉から江ノ島電鉄に乗って、ふと隣の車両を見た。

 例の彼がいた。

 彼はサングラス越しに私と目が合うと、さっと反らした。

 間違いない。

 私をつけている。

 何で?何で私なの?

 誰かと間違えているのではないかしら。

 私には全く思い当たる節が無い。

 私は予定を変更して、途中で降りず、終点の藤沢まで行くことにした。

 そして、藤沢で一度降りて、また逆方向に乗った。

 彼も同じようについてきた。

 怖い。

 このまま警察に駆け込もうかと思ったが、何の証拠も無いし、別に危害を加えられたわけでも無い。

 もっとも危害を加えられてからでは手遅れだけど。

 私は鎌倉駅で降りた。

 彼も少し離れて、ついてきた。

 どうしよう。

 私は決心した。

 きっと誰かと私を間違えているに違いない。

 はっきりさせよう。

 私は鎌倉駅の真ん前で彼の方に向き直った。


 その男性は私が向き直ったのを見て、驚いたようだった。

 こんな簡単に尾行が見破られては、もし探偵だとしたら失格だろう。


「私に何かご用ですか?」

 私は思い切って声をかけた。

 その男性はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「日野杉奈津子さんですか。」

 彼は私の名前を言った。

 私の名前を知っている。

 やっぱり彼は私のことを知っていて、私を付けていたのだ。

「そうですが。何かご用でしょうか。」

「僕の事がわかりますか?」

 彼はサングラスを外した。

 誰だろう。すごく格好いい。

 俳優の杉野夏彦に似ている。

 いや、似ているというか、本人にしか思えなかった。

「杉野夏彦といいます。」

 人はあまりにも驚くと、言葉を発することが出来なくなるのね。

 私はぼんやりとそんなことを考えた。

 でも何で?、何で有名俳優の杉野夏彦が私を付けているの?

 私は思いついた。ドッキリか。何かのテレビ番組の撮影か?

 私は辺りにテレビ撮影のクルーがいないか見渡したが、それらしい人たちは見かけなかった。

「僕の事がわかんない?」

 もちろん知っている。

 有名俳優の杉野夏彦だ。

 いや、もしかしてそっくりさん?

 でもテレビや映画で見る杉野夏彦にあまりにもそっくりだ。

 本人にしか思えない。

「久しぶりだね。なっちゃん。」

 彼は口を開いた。

 なっちゃん?

 確かに小学生、中学生時代、親しい友達からはそう呼ばれていた。

「ごめんなさい。もしかすると俳優の杉野夏彦さんですか?」

「そうです。知っていてくれたなら嬉しいな。」

「でもどうして私の名前を知っているんですか。」

「覚えていない? まあ、そうだよね。すごく昔の事だからね。」

 私は混乱した。私のことを有名なイケメン俳優、杉野夏彦が知っている。

 私が杉野夏彦を知っているのであれば話はわかるが、その反対である。

 どこで私は杉野夏彦と出会ったのだろうか。

 というよりもどこかで出会っていれば忘れるはずはない。

 こんなに格好いいわけだから。


「ちょっとどこかでお茶でも飲まない?このままサングラス外していると、多分気付かれちゃうんだよね。」

 確かに周りの通行人が私たちを遠巻きに見ている。

 その中には「あの人、杉野夏彦じゃない?」と小声で連れと話している若い女性もいた。

 確かに道の真ん中で、気付かれたらまずいだろう。

 杉野夏彦がタクシーを止めた。

「早く、乗って。」

 私は促されるまま、タクシーに乗った。

 大丈夫かな、私。

 どこか遠くへ連れて行かれたりして…。


 「ごめんね、突然。でもあのままでは、取り囲まれるのが時間の問題だから。時間は大丈夫?」

「は、はい、大丈夫です…。」確かに予定はない。予定はないが、私はどこに連れて行かれるのだろう。


 「ここから20分くらいのところに、以前ドラマの撮影で行った喫茶店があるので、そこでいい?」

「はい、おまかせします。」

 私は今の自分が置かれた状況が良く飲み込めないまま、そう答えた。


 やがてその喫茶店に着いた。彼がタクシーチケットで料金を支払った。

 私もタクシー料金を払うと言ったが、事務所からタクシーチケットを貰っているとのことで、受け取らなかった。


 そして喫茶店に入った。

 確かにマスターと顔なじみのようで、一番奥の席に通された。


「驚かしてごめんね。びっくりしたでしょう。」

 私は頷いた。


「あのー。」私は思い切って尋ねた。

「私、杉野夏彦さんとどこかでお会いしたのでしょうか。

 正直なところ、心当たりがありません。

 誰かとお間違いになっていませんか。」

「そうか、まあそうだよね。その様子じゃ、僕との約束も覚えてないよね。」

 約束?、私が?、杉野夏彦と?

 私は記憶をたぐり寄せた。

 全く思い当たりがない。どこかでお金でも借りたのだろうか。


 「もう、20年前になるんだね。」

 20年前?その頃の私はまだ小学1年生だ。

「覚えていないかな。僕の本名。田中良明。」

 田中良明、どこかで聞いた気がする。

 どこかで。はるか昔。

「小学校1年生の時、同じクラスで、二学期の途中から席が隣だったの覚えていない?」

 そうだ。確かにそういう名前の男の子がいた気がする。

 私は少し思い出した。

 席が隣で結構仲良かった。


「これ、覚えていない?」

 彼はポケットから、小さな消しゴムを取り出した。

 紙ケースには小学校低学年の女の子が好きそうな、可愛いイチゴのイラストが書いてある。

 昔流行った、香り付きの消しゴムだ。

 その消しゴムには少しだけ記憶があった。

 小学校低学年の頃、お気に入りだった。

「昔、持っていた記憶はあります。この消しゴムがどうかしたんでしょうか。」

「この消しゴムは僕が引っ越しするときに、君がくれたものだよ。僕はこの消しゴムをずっと宝物として、大事にしてきたんだ。」

 少し思い出した。

 確かに、小学校1年生の時、隣の席の男の子が転校することになって、これをあげた気がする。

「僕は小学校1年生の時、母親と暮らしていたけど、言わばネグレクトみたいな状態でね。毎日同じ服を着て、どこかで貰ってきたボロボロのランドセルを背負って、学校に通っていた。

 母親は気が向いた時だけ、お金をくれるけど、ほとんど家にいないで、遊び歩いていてね。

 僕は毎日食パンばっかり食べていた。

 食パンは安いし、腹持ちが良かったからね。

 子供ながら、生き延びるためにお金を貰うと少しずつ食パンを買って、空腹をしのいでいた。

 だから、学校の給食が誰よりも楽しみだった。

 まあ、給食費も滞納していたけどね。」

 彼は遠い目をしながら、そう言った。

「そんな僕だったから、小学校に入学しても、友達も出来ず、先生からも相手にされなかった。

 お風呂もろくに入っていなかったし、服もたまに自分で洗ってたけど、毎日同じ服だったから、汚い格好をしていた。

 入学して、最初に隣になった女の子は露骨に僕を嫌がっていたよ。

 僕も誰からも相手にされないことに慣れていた。

 そして、忘れもしない。10月になって席替えがあった。

 僕は出来れば誰の隣でも無く、独りの席が良いと思っていた。

 そうすれば、誰にも迷惑かけないからね。

 だけどクラスの生徒数は偶数だったから、そんなわけにもいかず、次に僕の隣の席に来たのが君だった。

 僕は子供ながらに居たたまれない思いを感じたよ。

 そのクラスで君は特に可愛くて、誰からも好かれていたからね。

 僕はまた汚いものを見るように、扱われるのだと思っていた。

 でも君は違った。

 僕が席に座るなり、にっこり笑って、「こんにちは。よろしくね。」って言ってくれた。

 僕は本当に救われた気がした。

 そして君は、僕に普通に接してくれた。

 教科書を忘れた日は快く見せてくれたし、いつも話しかけてくれた。

 僕は本当に嬉しかった。

 段々と学校に行くのが、楽しみにになった。

 そして、覚えているかな。遠足の日のこと。」

 遠足の日?

 覚えていない。私、何かしたかしら。

 私が首を振ると、彼は話を続けた。

「さつき、僕が食パンばかり食べていた話をしたけど、それは遠足の日も同じだった。

 小学校1年生の遠足は、徒歩で学校から少し離れた公園に行った。

 その時、好きなもの同士で、班を作ってグループで行くことになっていたけど、誰も僕と組んでくれなくて、僕一人が取り残された。

 独りは慣れていたけど、それでもとても惨めな気持ちだった。

 すると君が、「私の班においでよ」って、誘ってくれた。

 君の班の他の子達は嫌な顔をしていたけど、君が言うことだからね。他の子も渋々、従ってくれた。そして二人一組で手を繋ぐときも、僕と手を繋いでくれた。本当に嬉しかった。

 公園に着いて、お弁当を食べる時、僕は班から離れた。

 だってお弁当なんか無いからね。ましてはお菓子なんて。

 僕は食パン二枚だけ家から持ってきて、一人離れて食べた。

 すると、君が僕を探しに来てくれた。その時の事、覚えていないかな。」

 私は首を振った。申し訳ないが、全く覚えていない。

「僕が食パンを食べ終わって、やることもなく、じっと空を見ていると、君が僕のところに来て、お菓子の交換しよう、って言った。

 もちろんお菓子なんか持ってきていない。

 僕がそう言うと、君はどこかに走り去って行った。

 僕はすごく申し訳ない気持ちになってね。

 下を向いていた。

 しばらくして君が戻って来た。

 そして息を切らしながら、持ってきた紙袋を僕に渡してくれた。

 僕が紙袋を空けると、中には色々な種類のお菓子が少しずつ袋いっぱい入っていた。

 君がみんなに呼びかけて、少しずつ貰ってきてくれたんだ。

 僕はとても嬉しかったよ。

 涙が出そうだったけど必死にこらえて、後ろを向いた。だからその時君にろくにお礼も言えなかった。

 僕はそれまでほとんどお菓子なんか食べたことが無かったから、家に持って帰って、少しずつ食べた。

 本当に美味しかった。

 どれも食べたことが無くて美味しかったし、何よりも君の気持ちが嬉しかった。

 もったいなくて、本当に少しずつ食べた。

 そして、1年生が終わる頃、僕のおばあちゃんが僕の事を心配して、沖縄からやってきた。

 母親はその頃、ほとんど家にいなかったから、連絡もしてなかったみたいで心配になったんだろうね。

 おばあちゃんは僕の暮らしぶりを見て、とても驚いたようだった。

 そして、僕を引き取ることにしてくれた。

 年金暮らしで余裕なんか無かったんだろうけどね。

 だから、僕は二年生になる前に沖縄に転校することになったんだ。

 僕は君にだけは、ちゃんとお別れを言いたかった。

 だから、春休みだったけど、連絡網で君の家を調べて、君の家に行った。

 君は僕が転校することを告げると、とても悲しそうな顔をしてくれた。

 そして、覚えてないかな。

 その後、君に手をひかれて、近所の桜祭りに一緒に行ったこと。」

 それは薄ら覚えていた。

 小学校低学年の頃、誰か男の子と桜祭りに行った。

 確かに行った。思い出した。

 私がそう伝えると、彼は頷いた。

「君は僕にこのイチゴの消しゴムを買って、プレゼントしてくれた。

 その頃、学校で流行っていた香り付きの消しゴム。

 僕がみんなが持っているのを羨ましそうに見ていたのを、君は知っていたんだね。

 そして、最後に君はお小遣いをはたいて、綿アメを買って、半分を僕にくれた。

 僕は俳優になって、色々な美味しいものを食べたけど、どんな有名なパティシエが作ったお菓子も、君と一緒に食べたあの綿アメの味には適わない。

 今でも夢に出るくらい、美味しかった。

 そして最後の別れ際、僕と一つ約束をした。覚えてないかな。」

「ごめんなさい。覚えてないの。私、何を約束したかしら。」

「覚えてないのなら、それでいいよ。

 でも僕は君とのささやかな約束を心の支えに生きてきたんだ。

 おばあちゃんと沖縄で暮らすようになって、それまでよりは生活はましにはなったけど、おばあちゃんの年金だけが頼りの暮らしだったからね。

 貧しいのは変わらなかった。

 中学生くらいになると、段々と似たような境遇の友達とつるむようになった。

 片親とか、ネグレクトを受けている友達と仲が良くなってね。

 段々と学校にも行かなくなって、夜中につるんで盛り場に行ったり、先輩のバイクを借りて乗り回したりした。

 おばあちゃんは悲しそうな顔をしていたけど、僕は折角出来た仲間を失うのが怖くてね。

 そんな時だった。

 ある日、遊ぶお金を作るために、何か売れるものでもないかと机の引き出しをあさっていると、君から貰ったイチゴの消しゴムが目に入った。

 僕は取り上げて匂いを嗅いだ。すると、甘いイチゴの香りがした。

 その時、僕は君のこと、そして君との約束を思い出した。

 こんなことじゃいけない。

 そう思った。

 そして、僕は中学を卒業する前に沖縄で開催された、今の所属事務所のオーディションを受けた。

 すると、練習生として採用してもらえることになって、上京した。

 それからは高校に通いながら、レッスンを受け、段々と俳優の仕事が入るようになり、今に至るってわけさ。」

 それと私の後をつけるのとどう関連するのだろう。


 彼はその疑問に答えるかのように話を続けた。

「俳優の仕事が順調になってから、僕はまた君のこと考えるようになった。

 僕は君に会いたいと思った。だけど、今君がどうしているのか分からない。

 それで、僕はオフの日、かって僕が住んでいたあの町に行った。

 うろ覚えではあったけど、君の家の場所をなんとなく覚えていた。

 だから、しばらく歩き回ると、君の家が見つかった。

 まだ、表札が君の苗字のままだったので、君の両親は住んでいるのだろうと、あたりをつけた。

 そして考えたんだ。

 もし、君がここに住んでいなくても、年末年始には帰ってくるんじゃないかってね。

 だから、僕はこないだの年末年始はオフにして、君の家の最寄りの駅前の喫茶店で君が通りかかるのをずっと待っていた。

 あれから20年経っているからね。君のことが分かるか、ちょっと不安だったけど。

 でも大晦日の夕方、君が通りかかったのを見て、すぐにわかった。

 君はあの頃の面影を残していた。

 僕は悪いとは思いながらも君の後をつけた。

 すると、やはり君は君の両親の家に帰っていった。

 そして1月3日、君が住んでいる家に帰ると予想して、やはりその喫茶店で君が通るのを待っていた。

 するとやはり君が通った。

 だからまた僕は君の後を付けた。

 そして君の今住んでいるマンションが分かった。

 でもその後、僕はどうしたらいいか分からなかった。

 だっていきなり声をかけても驚くだろうし、そもそも結婚していたり、彼氏がいるかもしれないし。

 だから僕はしばらくは君の様子を見ることにした。

 そして、もし君が結婚していたり彼氏がいたら、キッパリと諦めようと思っていた。

 仕事がオフの日、僕は朝から君のマンションの近くのファーストフード店や喫茶店で君が通りかかるのを待った。

 他にどうしていいかが、分からなかったんだ。

 ある日、パソコンで君の名前や君が休みの日に出かけた場所を検索していると、あるSNSのページを見つけた。

 色々な風景写真がアップされていて、しかも君が訪れた場所ばかりだったから、すぐに君の作っているページだとわかった。

 それを過去から見ると、君は季節ごとの花とか風景とかを写真にするのが趣味だってことに気付いた。

 そして、大体土曜日の9時に家を出て、写真を撮りに行くことがわかった。

 だから僕は、オフにできる土曜日は、なるべくオフにして、君の後を付けていた。」

 確かに私は土曜日に出かけることが多い。

 日曜日は次の日が仕事のため、家事をしたり、休養するのに充てていた。

「こうして君の後を付けていると、失礼だけどいつも一人で出かけていたね。僕は正直なところ、ほっとした。」

 私は赤面した。

 私はいつも一人だから、自由気ままに歩いていたし、誰からか見られているとは思いもしないから、時々、アイスクリームとか買い食いしたこともある。

 そういうのも見られていたのかしら。

「でも僕はそろそろ君に声をかけたいと思っていた。

 でも何て声をかけたらいいか分からず、迷っていた。

 そんな時、君に声をかけられたんだ。

 だから驚いたけど、僕に取ってはグッドタイミングだった。」

 そこまで言って、彼は大きく息を吸い込んで、少し黙った。

「それで、その、君さえ良ければだけど、時々僕と会ってくれないかな。

 君はあの頃…、僕が好きだった…。そう、僕は君が好きだったんだ。

 今の君も僕が好きだった君のままに見える。

 きっと君ならこういう年の取り方をするのだろうと思っていたら、本当にそのとおりだった。

 正直、俳優をやっていると、周りには容姿が綺麗な人はいっぱいいる。

 でも僕が好きなタイプは…。」

 彼は私の目をしっかり見ていった。

「君なんだ。」

 私は辺りを見渡した。やっぱりドッキリか。

 バラエティ番組でこういうのを見たことがある。

 だってこんなことあるわけない。

 人気俳優から告白されるなんて。

 でも私を騙して何の得があるのだろう。

 テレビで笑いものにするのか。

 そもそもこの喫茶店に来たのも彼の導きだ。

 きっと隠しカメラがあるのだろう。

 顔にモザイクをかけられるのかもしれないが、笑いものにはなりたくない。

「私のことからかっているんでしょ。何の番組の撮影?」

 彼は目を見開いた。そして吹き出した。

「そうか、そうだよね。そう思われても不思議はないよね。あはははは。」

 全くおかしくない。

 やっぱりドッキリか。

 彼は一通り笑った後、やがて真剣な顔に変わった。

「これは番組の撮影じゃない。ましてはドッキリなんかじゃない。本当のことなんだ。僕はいつか君に再び出会うためにこれまで生きてきた。

 信じて欲しい。」

 私はまだ疑う気持ちがないわけではなかったが、仮に騙されたとしてもいいと思った。

 だってこんな人気俳優と話せる機会なんてあるわけない。

 いいわ。騙されてあげる。

 私は決心した。

「わかりました。貴方のことを信じます。」

「ありがとう。僕は信じてくれた人は決して裏切らない。」

 彼は嬉しそうに言った。

「僕は出歩くとすぐ週刊誌に撮られるから、会うのは僕の馴染みのお店とか、貸し切った所になるから、不自由かもしれないけど良い?」

 どうせ、騙されてもいいと決めたのだ。彼に任せよう。

 でも、もし、彼の言うことが本当だったら…。

 私はほんの少しだけ、そんなことを考えた。


 そして彼は喫茶店のマスターに依頼して、タクシーを呼んでくれた。

 私は喫茶店を出て、タクシーで家に帰った。

 彼は別れ際、「今日は折角の外出の日にごめんね。でも、話せて良かった。ありがとう。」と行ってくれて、一枚のメモをくれた。

 住所と電話番号が書かれていた。

「後で電話をくれる?

 その時、君の電話番号も教えて欲しいな。」

 私は頷いた。

 そして、タクシーで自宅へ帰った。彼は発車前に運転士にタクシーチケットを渡してくれた。


 それからというもの月に二、三回お忍びで会うようになった。

 予約したタクシーが私の家まで来て、彼の指定したお店で食事したり、映画館の営業終了後、貸し切って映画を見たりした。

 時々、彼のマンションにも行くようになった。

 地下から入ることができ、エレベーターで、他の階には停まらず直通で彼の部屋まで行くことができるので、誰の目にも止まることはなかった。

 

 そして春がやって来た。

 彼はあの町の桜祭りに一緒に行こうと言った。

 ファンの人にばれるよ、と言ったが、どうしても行きたいとのことだった。


 久しぶりに桜祭りに来たが、昔とあまり変わっていないように見えた。

 道の両側に桜が咲き、そして出店が沢山出ていた。

 かなり混んでおり、確かにこれならバレないかもしれない。

「ねえ、綿あめ買おうよ。」

 彼は綿アメを買った。

 割り箸が二つ入っており、ふたりで分けて食べた。

「うまい。」

 彼はとても美味しそうに食べた。

「綿アメをそんなに美味しそうに食べる人を初めて見た」

「久しぶりに食べたけど、こんなに美味しいものだったんだね。」

「そうね、大人になるとなかなか食べないよね。」

 私と彼は顔を見合わせて笑った。


 そして二人で桜の下を歩いた。

 土曜日で、快晴、桜は満開、そして穏やかな風、隣には彼がいる。

 私にはこれ以上の幸せは思いつかなかった。


 桜のトンネルを抜け、近くの公園に行った。

 思い出した。

 20年前のあの日、ここでさよならしたんだ。

 確か私は彼との別れが寂しくて、少し泣いた。

 そんなことまで思い出した。


 「ねえ、あの日の約束覚えている?」彼は言った。

 私は首を振った。

 本当に覚えていない。何を約束したのだろう。

「僕はあの日、君に言ったんだ。

 もしまた君に会うことができたら、その時は僕のお嫁さんになって欲しいってね。

 そしたら君は「良いよ」と言ってくれた。」

 彼はポケットから指輪を取りだした。

「だから…、僕と結婚して欲しい。」

 桜の花が春の風に吹かれて、美しく舞っていた。

 

 

 

 


 

 

 

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