午前2時24分
独特の機械を通したような声音。
「アハハハッ」
詳しい話の内容は分からないが耳障りな笑い声が壁越しに聞こえてくる。
「いい加減にしろってんだ」
撹上崇之は今年で28歳になる、都内の学習塾に勤める塾講師だ。
毎晩、終電ギリギリまで仕事をしていて、翌日の昼くらいに出勤する、という日々を過ごしていた。
自分の稼ぎではアパート住まいをするしかない。が、恋人も、他に家族もいない身なので不自由を感じたことはなかった。
「にしても、毎晩毎晩」
現在、暮らしているアパートに入ったのは、つい1週間前。学生時代から暮らしていたアパートが老朽化を理由に取り壊されたので、引っ越したのだ。
毎夜、帰宅すると西隣の部屋から、ラジオの笑い声が聞こえてくる。実に耳障りで気が散る。
(引っ越してきたときに挨拶しなかったから、嫌がらせしてやがるのか?)
崇之は思うにつけて、腹が立ってきた。
都内の安い集合住宅においては、近所付き合いなど無きに等しいと、崇之は考えている。前のアパートでも長く暮らしていて、引っ越しの挨拶など受けた試しはなかった。
「アハハハッ」
また、笑い声。
時計を見ると既に午前2時を回っている。
「もう、許さねえ」
崇之は白い半袖Tシャツに青い半ズボンを穿き、サンダルをつっかけて部屋を出た。
西隣の部屋。まだ、部屋の中から笑い声が聞こえてくる。
「ちょっと!うるせぇぞっ!」
意図して乱暴に赤色の金属製のドアを叩く。
聞こえていた笑い声がピタリと止んだ。
だが、住人はまだ出てこない。
「うぉいっ」
声量には自信があった。
野太い声でもう一度、乱暴なノックを繰り返す。
ヒタッヒタッと中から足音と気配が近付いてくる。なぜか首筋に薄ら寒いものを感じた。
ガチャリ、と鍵の開く音がしてゆっくりとドアが開く。
何か煤けたような顔色の、ギョロついた目の女。年齢は若くも年老いているようにも見えた。灰色のワンピースに裸足だ。
黙って、何を考えているのか分からない目を自分に向けた。
「あんたっ!今、何時だと思ってるんだ!ラジオの音、切れよっ!常識ねぇな」
部屋の中を指差して崇之は怒鳴った。
女は何も答えない。表情も動かない。
「迷惑なんだよっ、少しは」
いらいらしながら崇之は言いかける。
女の口が開いて、黄ばんだ歯が見えたからだ。
さらに女の口が動く。
「午前2時24分」
時刻を告げて、女が部屋の中へ戻り、崇之の鼻先で金属製のドアをバタン、と閉めた。
「くそっ、なんだってんだよ!」
イラつきながらも崇之は自室へと戻るしかなかった。
それきり、その夜はラジオの音はせず。崇之は静かな夜を過ごした。
翌日も、授業にポスティングなどの業務をこなし、ひどく疲労して崇之は帰宅した。
帰宅してしばらくは、ラジオの音もしてこない。静まり返った夜の中、久し振りに落ち着いた気分で、翌日の授業準備に着手する。うまい具合にはかどっていた。
午前2時を回った頃。
「アハハハッ」
前触れ無く、また西隣から壁越しに笑い声が響く。
(あいつめっ)
気持ち悪い隣人の顔を思い出し、崇之は立ち上がった。
しかし、笑い声が一度したきり、もう音はしてこない。
注意しに行くべきか、崇之は束の間、悩んだ。
もう一度、気味の悪い女の顔を、黄ばんだ歯を思い出すと、急速に怒りがしぼんでいく。
「ま、まぁ、笑い声ぐらいなら」
自分で自分に苦笑いして言い、崇之は腰を下ろした。
また、授業準備に戻り、終えてから就寝する。
「アハハハッ」
翌日も同じであった。
「アハハハッ」
また翌日も、午前2時を回ったぐらいのタイミングで笑い声が響く。
心なしか、1つだけ変化があった。
(音を小さくしてないか?)
初めて聞いたものよりも音が小さくなっている気がした。
なぜだか安心してしまう。
変わり者の偏屈な女だったのだろう。崇之の注意を素直に聞き入れられず、ささやかな意趣返しをしているのだ。
分かってしまえば気にもならなくなってきた。
毎日、同じ時刻に、同じ笑い声が小さくなっていくだけのことだ。
変わり者の隣人になど構っている暇もないのである。
(もうすぐ夏期講習だからな)
連日、朝から晩までの授業にその準備、受験生たちの成績や進路指導、生徒のかき集め、講習生に夏休み後も塾を続けるよう営業もしなくてはならない。
一年における、1番の繁忙期だ。一方で、1番やりがいのある時期でもある。
(だが、1番身体にキツイときなんだよな)
崇之は意識を今年の夏期講習に向けた。疲労を感じていつもより早めに床につくこととする。
「撹上、お前、疲れてるのか?」
同僚の数学講師である市毛と言う、男が尋ねてくる。
「ん?どうしてだ?」
まったく心当たりがなく、崇之は訊き返した。
「中2クラスのヤツラが、お前の声、最近、小せえってよ」
市毛の言葉に崇之は首を傾げた。
声量にはもともと自信がある。生まれて、物心がついてから、声が小さいと言われたのは初めてである。
「いや、いつもどおりだけど」
崇之は答えた。が、気付いてしまう。いま、発している自分の声からしていつもより小さいということに。
「ただ、言われてみれば、今、話してても何かいつもより声、小さいよな」
何の気もなしに言う市毛。
なぜだか崇之はゾッとした。
「エアコンに当たりすぎじゃないか?風邪に気を付けろよ」
答えられずにいる崇之の背中を叩いて、市毛が自分のクラスへと向かった。
置いていかれた崇之は、喉に手を当てる。どこも、まるで痛くない。
気味が悪かった。
「アハハハッ」
その夜も部屋につき、午前2時を回ると笑い声が聞こえた。また、小さくなっている。
午前2時過ぎだ。ふと気になって部屋の壁にかけたデジタル時計に目をやる。
鳥肌が立った。
『2時24分』とデジタルの文字盤に映っている。
「くそっ、うるせぇぞっ!」
崇之は怒鳴った。
怒鳴り声ですら小さくなっている。
寒気がした。
翌日から数日間、崇之は声を出すのも怖くなって、生徒にプリント中心の授業をするしかなかった。
家に帰る。女に文句をつけてから、もう10日が過ぎていた。
「アハハハッ」
午前2時24分になると、笑い声が響く。
もう、壁に耳をつけないと聞こえない程度の音量だ。
壁に耳をつけてでも聞こうとする自分に気付き、崇之は恐怖する。
11日目。崇之はとうとう仕事を休むことにした。
職場へ架電する。
「もしもし」
市毛の声だ。
「もしもし、撹上だ。風邪みたいで仕事を休もうかと」
崇之は、ホッとして告げる。
「もしもし、ちょっと、どちら様ですか?聞こえませんよ」
市毛の声が言う。
「もしもし、俺だ。撹上だって」
慌てて崇之は言う。
「あれっ?おかしいな、一旦、切りますね」
電話を切られてしまった。
もう、無断欠勤するしかない。
12日目の午前2時24分。
「アハハハッ」
かろうじて聞こえたことに壁に耳をつけた崇之はホッとする。
13日目。家から出ようという気もしなかった。
「アハハッ」
もう壁に耳をつけてもかすかにしか聞こえない。
「アハハ」
14日目。午前2時24分。ほとんど聞こえない。
15日目。午前2時24分。
聞こえなかった。
崇之は窓の外を見る。
あの女が立っている。
悲鳴をあげようにも、もう、声は出なかった。
視界が暗転する。
崇之は、自分の姿をどこかから眺めている。身体は、真っ白なベッドに横たわっていて、傍らにはあの女が立っているのだ。
あの女の左腕には古いラジオが抱えられていた。
以上となります。なんとなく思いついたので書いてみました。ホラー未熟で初投稿となります。拙い文章で恐縮です。