三宮
それから彼女は、「人生は選択の連続らしいよ」と笑った。
うまく聞き取れなくて、僕も笑った。
僕らは2人でくっついて、夜の三宮を北に歩き続けた。
「今日誰とどこで遊んで、何を食べてって。ずっと選んでるんだよ」
ときどき彼女は空を見上げてふわふわと話し始める。
3週間前に1年半付き合った彼氏と別れてから2人と寝て、僕が3人目で、可愛い男の子が好みだと言う。でも僕は10人目だ。男の数え方には種類がある。彼女は酔ってるから僕の話を聞かない。
「今日の居酒屋は混んでたけど、卵焼きが美味しかったね」
彼女はまっすぐ僕を見ていたけれど、僕もまっすぐ彼女を見ていたけれど、僕らの目が合うことはない。
これが本当の上目遣いだと思った。小さな顎を無気力に傾け、ただまっすぐ見つめる。視線に角度はなく、それはあくまで平行線で、20cmの身長差のおかげで客観的に愛らしく見える。僕の目には、気だるげなピンクのアイシャドウの下に覗く、くるくると回るような、真っ黒な瞳だけが映っている。
これから僕に選択肢が与えられることはない。
これまでも僕が選んだものなんてなかった。
それらしいものは1つずつ失くしていって、残ったのはどうしようもないものばかりだ。
摩擦をもたないがゆえにするすると指の間を抜け落ちるようなもの、重量をもたないがゆえに地に落ちても割れることのない合成樹脂のようなもの。
「今日遊ぶ予定だった友達に、次はドタキャンしないように言いましたか?」
「もうブロックしたよ」
「厳しいですね」
「ドタキャンする人はドタキャンするでしょ?」
「そんなこと言ってあげないでください、仕方がない時もあるでしょうから」
「ちゃんと怒ってあげないとね。でも結局はブロックするんだよ、結局はね」
今も僕は彼女の肩に手を添えているだけだけど、彼女はこれまで歩き続けてきたし、これからも歩き続ける。
彼女の足は短くて細くて小さくて、遅くて、僕は何度も立ち止まった。
僕らは歩道橋の階段を登る時だけ一緒に歩いて、でも降りる時には僕の方が下にいて、うっかり落としてしまわないように必死に彼女の手を取るのだった。
三宮の街は北の山側と南の海側とに分けられる。
駅のすぐ北は飲み屋街になっていて居酒屋のキャッチが獲物を探し、摩耶山に近づくとオフィスビルやホテルが顔を出す。
南側にはカフェや雑貨屋が立ち並び、西欧風の建物と瀬戸内海の穏やかな海を見ることができる。
僕にとって三ノ宮は海の街であり、1人の街だ。
JR三ノ宮駅で電車を降りると中央口改札を通って南に出て、阪急の紀伊国屋で適当な文庫本を買う。さらに下ったところにある東遊園地近くのファミリーマートで紅茶ラテを買う。これを飲みながら国道二号線を西へ向かい、メリケンパークのベンチに腰を下ろして本を読む。
誰と居酒屋で飲んだって、誰とホテルに泊まったって、結局は1人で海にいる。
何も聞こえない海に浮かんだ埋立地の上で流行りのポップを聴く。
最近話題の歌詞は聞いてもかまわないし、聞かなくてもかまわない。
僕にはもう能動性の欠片も残っていなかった。
ケータイのスクリーンに次々と浮き上がる女性たちを、左右に繰り返しスワイプして分別する。
なるほどたしかに、人生は選択の連続か。
酔った彼女はいつも僕の左腕をぐっと掴む。
そうすると艶のある暗い茶髪から甘い香りが上ってきて、僕の耳に引っかかっているピアスをくらりと揺らしてどこかに消える。僕は右手に持ったケータイで時間を確認するけれど、それが意味の無いことだと知っている。もう既に手遅れだ、また僕はぐるぐると渦巻く流れに足を取られたのだ。柔らかいパイピングコートに包まれた左腕はそのままに、右腕はただ彼女の肩を抱く。
酔った彼女はいつもトイレに行きたがる。
毎度変な誘い文句だなと思うけれど、僕はちゃんと解釈する。彼女の足りない言葉を補って、彼女が無事にホテルまで歩くのを支える。こうして僕はなんでも自分で選んだ気になってしまうけれど、手を振って別れた後には抗うことのできない絶対的な流れを覚って打ちのめされ、空虚な浮舟に身を落とす。船に揺られている間はひどく酔って、横になっても眠ることはできない。それでもいつかは岸に流れ着いて、地に足をつける時が来る。最後、僕の目に映るのは手網の切れた帆と凪いだ水面のみである。