表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

Kyrie eleison

 僕はかつて愛した人を、自分のせいで失った。

 そしていまでもまだ、その喪失を受け入れられないんだ。


 僕とあいつと彼女は、小学校のころから仲のいい友達だった。

 絵を描くのが好きだった僕は、よく彼女をモデルにした。

 描きはじめた頃はあどけない女の子だった彼女は、年月を経るごとに画用紙の中で、艶やかな色彩をまとっていった。

 僕は、いつしか彼女に恋心を抱いた。


 けれど彼女は、僕ではなくてあいつを選んだ。

 あいつは、僕よりもずっとまっすぐで優しい男だった。だから僕は、彼女があいつを選んだのは、仕方がないと思った。

 仕方がないと、諦めたはずだった。

 なのに、日を追うごとに、彼女への恋慕は募るばかりだった。


 そして、あの夜。

 夏の星座たちが広がった夜空の下、僕は力づくで彼女を奪った。


 激情の赴くままの過ちは、けれどそれだけで済まなかった。

 彼女が妊娠してしまったのだ。

 僕がそれ知ったのは、学校を休んでいた彼女が、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったあとだった。

 警察が動き、通っていた高校にもすべてが知れてしまった。

 僕は、責任をとりたいと彼女の両親に申し込んだが、一介の高校生が何を言っても説得力などなかった。

 お前を娘に会わせるつもりはない、二度と顔を見せるな。

 そう言われて、僕は諦めるしかなかった。


 告訴はされなかったから、罪に問われることはなかった。

 その後、僕はニューヨークの伯父のもとに預けられた。

 名前を捨て、過去も捨て、画家として再出発するために。


 彼女が自宅マンションから転落して亡くなったことを知ったのは、渡米した直後だった。

 ショックで僕はまともに絵が描けなくなり、生活も荒れて落ちぶれていった。


 自分を変えようとしたこともあった。

 前に進むことで、なにかをなすことで、罪を償えるのではないか。そう思って僕は、一枚の絵を描いた。

 馴染みの店から見える風景に、彼女の姿を描き込んでみた。

 けれど、仕上がった絵を見て、僕はいままでより激しい自己嫌悪に襲われた。

 僕は、この人の命を奪ったのだ。そして、僕の親友だった男の、ささやかな幸せも。二人の人生を滅茶苦茶にしておきながら、自分はなぜ、まだこうしてのうのうと生きているのだ、と。


 それに気づいたとき、自分の中から、なにかがごっそりと失われたような気がした。

 そして、それを埋め合わせるものなど、もうなにもなかった。



 回顧を締めくくった彼は、あの曲を口ずさんだ。

 悲しいほどに美しい、アルペジオを。


「あの日、彼女が弾いていた曲なんだ。きれいだった。とても、とても……」


 最後は、絞り出すような声だった。


「……帰りたい。帰りたいよ」


 私は、やっと気がついた。

 彼が帰りたいと願ったところは、故郷という現実の場所ではないのだ、と。帰るべきところは、すでに失われていたのだ、と。


 彼は、涙を流すことなく、泣いていた。

 それは、償いようのない罪を抱えて、生ある限り繰り返す後悔と自責のフーガだ。

 そこから抜け出せない限り、いずれは魂も肉体も抜け殻となって、死者を悼むエレゲイアを虚しく再生するだけになるだろう。

 まるで、主を失ってもなお死者を慕う調べを奏で続けた、オルフェウスの竪琴(ライラ)のように……。


 私は、地平線の向こうにある、かの星に語りかける。

 ベガよ――。

 神の憐れみで天に召された、琴の星(ハープスター)よ。


 彼岸に追いやられた織姫に、常世の国の客人となった彼女に、伝えてほしい。

 どうか、もう彼を赦してあげてくださいと。


 そして、汚れなき蒼白の光が、夜空のアーク灯と呼ばれるのなら。

 彼が立ちすくむ闇路の先を、照らしてあげてください。行く先も帰る場所も見失い、寄る辺なく夜の闇に泣く者の、希望のともし火となってください。



 旅から帰ると、彼の病状はさらに悪化した。

 自力で起き上がることができなくなり、食欲もなくなった。

 私が剥いたリンゴをひとかけら口にすると、それで精魂を使い果たしたように横になった。

 彼がどんどん透き通っていくように見えた。あの、出会った日の空のように。

 残された時間はわずかなのだと、私は悟った。


 彼の家を出て、池の畔をひとりで歩く。

 葉を落とした木々の枝が、冬空に震えている。

 足を止めて、涙をぬぐう。

 私には、もうできることはないのだろうか。

 そう思ったとき――。


 教会から、あの曲が聞こえてきた。

 彼と彼女との、思い出の曲。ただひとつだけ残された、彼が帰りたいと願うところ。どこまでも美しく真っ白な、彼にとっての唯一のレクイエム。

 だとしたら……。


 私は教会を訪ね、司祭からその曲の題名を教えてもらった。

 ヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲第一番前奏曲。グノーのアヴェ・マリアの伴奏曲だ。

 ピアノなんて、弾いたこともないけれど、それしかできることがないのなら。

 私は楽譜を買い、音楽教師に頼み込んでピアノの手ほどきを受けた。

 演奏が難しい曲ではない、と音楽教師は言った。けれど、初めてピアノに触れる私が、すぐに弾ける曲でもなかった。左利きの私には、右手のアルペジオが――この曲の神髄が、途方もなく高い壁だった。

 弾きすぎて、手首が悲鳴をあげた。

 それでも私は、ひたすら鍵盤と向かい合った。



 クリスマス・イブの夜。

 キャンドルライトの薄明りが、礼拝堂の壁や天井に、柔らかな陰影を浮かび上がらせていた。


 彼にピアノを聴かせたいという私のお願いを、司祭は快く許可してくれた。

 司祭が彼の手を引いてきて、椅子に座らせた。

 若い女性の助祭が、白百合の一輪挿しをピアノの横に飾った。

 二人は会釈をして、礼拝堂を出ていった。


 私は深呼吸をひとつして、両手を鍵盤にかざした。

 左手の中指で白鍵に触れ、そっと押し下げる。


 しじまに消えゆくドの音を追うように、親指でミを奏でる。次は、苦手な右手のアルペジオだ。

 ソ、ド、ミ。

 なんとか弾けた。

 再び、左手で二音。続けて、右手で三音

 つっかかり、テンポが乱れ、弾き間違える。

 きっと彼女は――彼の大切なひとは、もっと上手だっただろう。

 悔しくて、泣きそうになる。

 それでも弾き続けた。


 そして私は、思いを託した歌を唇にのせた。



 アヴェ・マリア

 神に祝福され

 恵みに満ちた聖母よ

 罪を犯した者のためにお祈りください

 生きている今この時に

 死にゆくその時に

 傷ついた魂に

 どうか憐れみを



 演奏が終わっても、私は動けなかった。

 彼を見やることもできなかった。

 あの夜のように、拒絶されることが怖かった。

 かわりに、私は心の中で問いかけた。


 帰ることはできましたか、と。

 そこに、その時に。幸せだった、かつてのあなた自身に。


 長い沈黙があった。

 やがて……。

 彼のささやきが聞こえた。


「ありがとう」


 たしかなぬくもりをもった言葉が、私の胸を深く静かに満たしていく。

 それは、彼が、そして私が望んだもの。

 やっと得られ、与えられたものだった。



 膝に広げたスケッチブックに、彼が色鉛筆を走らせる。

 手を止め、顔をあげて。

 彼のまなざしが、私に向けられる。

 その目に、私が映る。


 やがて彼は満ち足りた微笑みを浮かべ、スケッチブックを閉じた。


「詩織」


 呼ばれて、私は彼の隣に席を移した。

 彼は、最後の力を使い果たしたように、ゆっくりと倒れ込んできた。


 そして。

 彼は、私の膝枕で安らかな寝息をたてている。

 私はそっと、彼の胸に手を当てた。

 今にも消えそうな、けれどたしかに息づく命が、どうしようもなく愛おしかった。


 ガラス窓の外に、粉雪が舞い落ちる。

 彼の罪を包み込むように、小さな白い天使たちが降り積もる。

 私は思った。


 きっとあれは……。


 彼女が降らせた雪。



 Fin.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 詩織の心の襞が丹念に描かれていて好感が持てました。 暗いお話なのに救いがあり、ラストに安らぎがある。 過去は変えられないし、未来は誰にもわからないけれど現在流れている時間は自分の上にあると…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ