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Lacrimosa

 救急車を呼ぼうとした私を、彼は押しとどめた。

 彼に肩を貸して自宅のアパートまで連れていき、かかりつけだという医師に往診を頼んだ。


 彼が眠り、医師が去ると、私はひとり残された。

 公園からほど近い場所にある彼の部屋は、家具も少なく、生活感は薄かった。

 殺風景な部屋のなかで、壁にかかった一枚の色鉛筆画が、異彩を放っていた。


 それは、私の故郷とは違う、どこかの海の絵だった。

 開け放たれた窓の向こうに、小舟が舫う桟橋と平たい島があり、彼方には灯台が見える。窓辺の席には、白いワンピースの少女が座り、彼女の前には飲み物の入ったグラスが置かれていた。

 左隅に、Ken Lianと署名されていた。

 知らない名前だが、絵のタッチはまちがいなく彼のものだった。


 背後で、彼が起き上がる気配があった。

 振り返ると、うつろな表情の彼と目が合った。


「……なおこ」


 彼が私をそう呼んだ。

 胸の奥を棘が刺した。


「私、詩織です」


 すまない、と詫びた彼は顔を曇らせた。

 また棘が心を刺した。さっきよりも痛かった。

 けれど私は、痛みに気づかないふりをして、大丈夫ですか、と声をかけた。

 彼は、助かったよ、と答えて枕元の薬袋に目をとめると、かすかに笑った。


「聞いたんだね」

「はい」

「あと、どれくらいだと」

「三か月」


 医師が私に話したのは、彼の余命だけではなかった。

 治癒の見込みがないと分かった彼は、身寄りもいないのに自宅ですごすことを選んだのだそうだ。


 そうか、とつぶやいた彼は、壁の色鉛筆画に目を向けた。


「あなたの絵ですね」


 私の問いかけに、彼は苦笑しながら、ああと答えた。


「ケン・リィアンって……」

「僕のもうひとつの名前なんだ」


 自嘲するようにそう告げた彼のまなざしが、その絵に――そこに描かれた女性に注がれる。


 私の心を、悲しい予感が満たした。

 わかってしまったのだ。

 そのひとに向ける、彼の思いの深さが。そして、たぶん、いやきっと、それはもう彼女に届くことはないのだと。

 私は永遠に、彼女に敵わないのだと。



 それから私は、毎日、彼の見舞いに行った。

 もう来ないでいいよ、と彼は言ったけれど、私はこれからも来たいと懇願した。


「迷惑ですか?」

「いや……」


 彼は、言いかけた言葉を飲み込んだようだった。

 それなら。

 遠慮なんてしないでください、と私は言った。


 彼は放っておくと、まともに食事をしなかった。

 私は、手作りのお弁当を持って行って、彼と一緒に食べることにした。彼は、小鳥がついばむように、わずかな量を口にするだけだった。

 それはまるで彼の命が、死を受け入れてしまったかのようだった。


 このままではだめだ、と私は思った。悲しみを抱えたまま、絵を仕上げられないまま、逝ってしまってはだめだと。


 私は、二冊のスケッチブックを広げ、一冊を彼に差し出した。


「一緒に描いてください」


 彼の表情が曇った。

 けれど、私はかまわずに続けた。


「故郷の風景を、一緒に」


 彼は弱々しく首を横に振った。


「もう、絵を描くつもりはない」

「それなら、私に絵を教えてください」


 そう言い放って、私はスケッチブックの一面の白に、最初の線を描いた。

 心も手も震えた。

 けれど、自分のためではなく、この人のためなら、私にもまだ描けるはずだと思った。そう自分に言い聞かせながら、記憶のなかの風景を、私は画用紙に写し取っていった。

 彼は、それを静かに見ていた。

 やがて、海峡に臨む街の風景が画用紙の中に現れると、彼はああと苦しげにうめいた。


「……帰りたい」


 私はそれこそが、彼の望みだったのかと思った。

 だからその週末、帰郷しましょう、と彼を誘った。

 彼は戸惑い、そしてためらったが、最後にはうなずいて旅装を整えた。



 新大阪に着いたときには、すでに日が暮れていた。

 在来線のホームで列車を待つ。

 ほろ酔いで騒ぐスーツの男性たちや、他愛のない会話に興じる女性たち。聞きなれたはずの方言が、どこか懐かしかった。


 快速電車がやってきて停まった。

 その行先表示に目をやると、彼は辛そうに顔をゆがめた。

 うつむき、立ちすくむ彼を尻目に、後ろに並んでいた人が乗り込んでいく。

 ドアが閉まり、列車は私たちを残して出発していった。


 それは吉祥寺を出発したときから、何度も目にした光景だった。

 駅の階段で、ホームで、彼は足を止めたまま、動けなくなることがあった。次の一歩を踏み出すのに、ひどく苦労していた。

 でも、今日を逃したら、彼にはもうチャンスはない。そんな確信めいた予感があった。

 だから私は、急かしたりせず、彼のペースに合わせてきた。


 けれど、夜が更けても、彼はそこから動けなかった。

 最終電車を見送った彼は、すまない、とつぶやいた。


 私は、彼をここまで連れて来てしまったことを、今さらのように悔やんだ。

 彼はもう、故郷には帰れないのだ。

 望郷の念をも押しつぶすほどの、故郷の風景を描ききれず塗りつぶさなければならないほどの負の情念が、心に深く根ざしているのだ。それはたぶん、後悔などという生やさしいものではないのだろう。

 この旅は、そんな残酷な事実を、彼につきつけるだけのものになってしまった。

 そして、そう仕向けたのは、この私だ。


 ホームから見上げた夜空には、冬の星座たちが瞬いていた。

 かつて私は、優しくて暖かい人たちとともに、あの星たちを見上げていた。けれど今は離ればなれになり、それぞれの道を歩んでいる。

 あの場所に――故郷に戻っても、私を待っている人は誰もいない。

 その痛みを、私は誰よりも知っていたはずなのに、彼の痛みに気づくことすらできなかった。



 東京に戻る新幹線は、すでになかった。

 駅前のホテルで、私は彼とともに夜をすごした。


 覚悟はしていた。

 私がしたことは、結局、彼からなにもかも奪うことだった。だから、せめてもの償いとして、求められれば応じようと思った。


 けれど、彼は私を求めなかった。

 これほど近くに二人でいるのに、私たちはどうしようもなく一人ぼっちだった。

 夜空に並ぶ星と星とが、実際には気も遠くなるほど離れているように、二人のあいだには埋めようのないへだたりがあった。


 私は、ベッドでうつむく彼を、思わず抱きしめた。

 いや、私が彼にすがりついたと言うべきかもしれない。

 一人でいるのは、もういやだった。たとえ仮初の――偽物のぬくもりであっても、私はそれが欲しかった。

 私と同じ痛みを抱えた人となら、きっと癒しあえると思った。


 でも、そこにぬくもりは、少しもなかった。

 かわりに、耳元で苦しげな声がした。


「やめてくれ」


 彼はためらいながら、私をふりほどいた。


「もう、赦してくれ」


 私は、その言葉に打ちのめされた。

 自分がしてきたことは、もしかしたらこの人を追いつめていたのではないか、と思った。心が凍えた。


 彼は、すまない、と頭を垂れた。


「ぼくは、そんなことをしてもらえる人間じゃないんだ」


 彼はカーテンを開き、窓の外に目をやった。

 そして、この時季ではもう見えないだろうが、とつぶやき、こと座の神話を知っているかい、と問うた。


 こと座。

 夏の夜、天の川の岸辺に流れ着いたようにたたずむ、小さな四辺形のアステリズム。

 その星座には、悲しい神話がある。

 先立った妻エウリデューテを連れ戻すために冥界に赴き、果たせずに嘆きの中で自らも命を落とす、悲劇の英雄オルフェウスの物語だ。


 私がうなずくと、彼は遠い目をしたまま語り始めた。

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