Recordare
その日から、日常のそこかしこで、彼をみつけるようになった。
通学の途中にボート乗り場を通りかかれば、彼が水面を眺めていた。休日の散策で弁天堂にお参りに行けば、彼が手を合わせていた。
私たちはどちらからともなく歩み寄り、ひとときを共に過ごした。
日向のベンチに並んで座り、高くなる空に、ゆく秋を惜しむ。池に架かった橋から野鳥を眺め、木枯らしの冷たさに、冬の訪れを予感する。
交わす言葉は少なかったけれど、心を寄せるほどに、私たちが似た者どうしだとわかった。
おだやかに流れる時とともに、私のなかに彼への思慕が育っていった。
秋も深まった、ある日曜の午後。
彼と連れ立って、葉を落とした雑木林を歩いた。
そっと、足を止めてみた。
彼の背が遠ざかる。
途端に、心が寒くなった。
振り向いた彼に、どうした、と問われて。
歩み寄ると、胸が苦しくなった。
遠すぎず、けれど近すぎず。
それが安心できる間合いであり、居心地のいい場所だと気づいた。
なのに、落ち葉を踏む足音に紛れこませるように、君は、と彼がささやいた。
「なぜ、あの街を離れたんだい」
その声音は、優しくて、とても寒かった。まるで私の傷を知っているかのように、はじめから悲しい答えを予想しているかのように。
私が彼に悲しみを見たように、彼も私に同じものを見出したのだろうか。
ならば、問わないでほしかった。
それは、癒えることのない傷だから。ほんの少し触れるだけで、瘡蓋がはがれて血を流すだろう。
そして私の答えは、せっかく見つけたこの距離を、変えてしまうに違いないのだから。
「話したくありません」
私は、首を横に振った。
なのに、なぜだいと問われて、私は思いを口にしてしまう。
「嫌われたくないから」
私は、なにを言っているのだろう。
彼に私の穢れを、知ってほしいのか、そうでないのか。私の痛みを、彼と分かち合いたいのか、そうでないのか。
この関係を守りたいのか、壊したいのか。
心の向いている方向がわからない。
彼は、なにも答えない。
ただ、足を止めて、寂しげに微笑んだ。
私はそこに、彼の落胆を見た。
また見捨てられる。もうこれきり、会えなくなる。
そう思ったとき、私の口をついてその言葉が出た。
「ごめんなさい」
それは、身に沁みついた癖だった。
なぜ、という彼の声が耳をかすめた。
「どうして、君が謝る?」
問われて、私は口ごもる。
それは私にとって、あたりまえのことで、理由などなかったからだ。
悪いのは、謝るべきなのは、いつでも私だった……。
私は、生まれたこと自体が、罪だった。
エキゾチックな顔立ちの私は、一目でハーフだとわかる。
日本人の家系同士の両親から私のような子どもが生まれて、父は当然のように母の浮気を疑った。
父は親子鑑定を望んだが、母はかたくなに拒否した。母はひた隠しにしていたが、結婚する直前まで北欧系の男性とつきあっていたらしい。
結局、私のもの心がつく前に、二人は離婚した。
母は私を疎み、自分の親夫婦――今の養親に押しつけたあげく、行方をくらませてしまった。
母の犯した罪の結実として生まれた私は、それからも、背負った罪に相応しい人生を歩んだ。
極めつきは、去年の――高校三年生の夏休みの出来事だった。
アルバイト先で知り合った男性に、無理やりホテルに連れ込まれた私は、そこで傷害事件を起こしたのだ。飲みものに薬でも混ぜられたのだろう。意識がもうろうとしていて、なにがあったのかよくわからない。
怪我を負わせた相手は、私を訴えなかった。けれど、警察から学校に連絡が行き、私は無期限の停学になった。
醜聞は近隣にも知れ渡り、あの母親にしてあの娘だ、と陰口がささやかれた。
それを耳にした養親は、故郷を捨てることを選んだ。
両親を仲たがいさせ、養親には迷惑をかける。つくづく私は、罪深い人間だ。
私など、生まれてこなければよかったのに。
いつも私は、そう思っていた。
話し終えてから、私は後悔した。
彼から軽蔑されるのも、憐憫の情を向けられるのも、嫌だった。
けれど。
彼はいつもと変わらず、無色の微笑みを浮かべた。
そして、一言ずつ噛みしめるように告げた。
「それでも、生まれなくていい命なんて、ないんだ」
たぶん。
彼の目は、私を通り越して、どこかを見ている。
でも、たとえ彼の思いが私に向けられたものでなくても、彼の言葉はまちがいなく私に向けられたものだった。
ならば。
この人は、私が求めるものを与えてくれるかもしれない。私がここにいていいと、私が必要だと言ってくれるかもしれない。
それでいい、と私は思った。
風にのって、あの曲が聞こえてきた。
上昇する分散和音は、憧憬に似ていた。
なんて美しくて、いたましい音楽だろう。
手を伸ばして届かず、でもあきらめられずに、また手を伸ばす。
何度も、何度も。
それは終わりのないルフラン。
でも、いつかきっと……。
彼は目を閉じて、曲に聴きいっていた。
その横顔にむけて、私は願いを込めて彼の名を呼ぼうとした。その時……。
彼が――私の希望が、落葉の上に崩れ落ちた。
ピアノの音が止み、時が停まった。