Introitus
赦されない罪はないという。
けれど。
償いようのない罪は、あると思う。
たとえば。
生まれたこと自体が、罪だとしたら。
赦しを乞うべき相手が、もうこの世にいないとしたら。
その罪は、どうすれば償えるのだろう。
誰が赦してくれるのだろう。
人はそんな罪に、どう向きあえばいいのだろう。
*
色なき風が、髪を乱して吹き抜けた。
霜降の冷気はセーラー服を通しても寒くて、私は思わず涙ぐんだ。
手鏡を開き、前髪を整える。
見返す瞳は、ずいぶん悲しげだ。笑顔を作ってみたけれど、やはり泣いているようにしか見えなかった。
目を上げると、梢の向こうには、晩秋の空があった。
どこまでも遠い透明が、私の中にさあっと流れ込んできた。
故郷を逃げだし、吉祥寺に越してきてから一年が過ぎた。
事件を起こして学校を追われた私を、ここの高校は受け入れてくれた。
けれど、それで居場所ができたわけではなかった。
恥ずべき過去を知られたくなくて、私は目立たないように、誰からも興味を持たれないように、うつむいて過ごすしかなかった。
好きだった絵も、描けなくなった。
色鉛筆を握っても、描き方を忘れてしまったように、心も手も動かなかった。
それどころか、真っ白な画用紙に色を着けることが、まるで無垢なものを汚しているようにすら思えた。
ため息をついて、空から目をおろす。
公園の遊歩道に伸びた木の影が、昨日より長くなっていた。
影の先端が、遠慮がちにベンチの背もたれを撫で――。
そこに、彼は座っていた。
背を丸めて肩を落とした姿は、まるで冬の気配が人のかたちをとったようだった。
膝の上にスケッチブックを広げ、鉛筆でなにかを描いている。
それを見た瞬間、私は思わず声をあげそうになった。
長い吊り橋がかかる海峡と、対岸にある大きな島。
まぎれもない、私の故郷の風景だった。
うすら寒いモノクロームの世界に、胸の奥を鷲づかみにされた。
郷愁ではなかった。うねるような感情が押し寄せてきて、飲み込まれてしまったのだ。
彼の左手の鉛筆が動くたびに、迷いのない線が描かれていく。
もう、目が離せなかった。
そのとき、不意にピアノの音が聞こえた。
木立の向こうの教会からだった。
讃美歌だろうか。繰り返すアルペジオは、天上にあこがれるような旋律だ。
なんて切ない音楽だろう、と私は思った。
そして、それは彼の描いているものと、どこか似ているようで……。
私の心になにかが形をなそうとしたとき、彼の手がぴたりと止まった。
その手が小刻みに震え。
やがて彼は、描いたものを否定するように、鉛筆の黒で塗りつぶした。
「……どうして」
思わずもらしたささやきに、彼がゆっくりと顔を上げた。
大理石の彫像のような、壮年の男性だった。繊細に整った顔立ちだが、生気を無くしたように蒼白で、魂を失ったように空虚で――。
私はそこに、私自身を見た。
彼の目には――ひとかけらの光も宿さない茶色の瞳には、なにが見えたのだろう。
彼の薄い唇が震えながら言葉を紡いだ。
その言葉は風に運び去られて、私の耳にはとどかなかった。けれど、なんとなく、それが彼のさっきの衝動の原因ではないかと、だれかの名前ではないかと思った。
彼は、なにかに気づいて後悔したように、目を伏せた。
そして、かぼそい声がした。
「描けないんだよ。もう、なにもね」
それで私は確信した。あれはやはり絵画ではなく、彼の心象そのものだったのだと。
そして、彼から私に流れ込んできた感情が、そのまま口をついて出た。
「悲しい……からですか?」
思えばそれは、彼の心に土足で踏み込むような、不躾な問いだった。
けれど彼は、拒絶も受容もせずに、ただ沈黙していた。
自ら発した問いかけが、返す刀となって心を刺した。過ぎゆく時間とともに、痛みが増していく。
耐えきれず、ごめんなさいと言いかけたとき、彼がつぶやいた。
「わかるのか?」
救われたような気がして、私は、はいとうなずいた。
そうか、とつぶやいた彼は、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
「僕は、兼高良平だ」
「私、観月詩織です」