番外編その一、正直者は幸せな夢を見る前編
読む前の注意。
見ていくと分かると思いますが、この話の主人公は国東統次郎ではなく榎本拓巳です。
本編にはあまり関わりがありませんが、一応本編を見なくても分かるようにはしています。
短編を書くのが初めてなので、よく分からなくなっているかもしれません。
それと、本当は一つにまとめようと思っていましたが、思っていたより長くなってしまいました。
前編も後編も一つで約八千字はあるので、根気の無い人は休み休み読んで下さい。
それと、碌に知識も無く書いているので、あれ?と思う部分があるかもしれません。
その際には、感想に書いていただけると勉強になるのでお願いします。
では、ようやく書けた番外編を楽しんで読んでください。
甘い香りが、僕を誘う。
無防備に寝転ぶ彼女は薄着で、まるで襲ってくださいと言っているようだ。
年下で恋愛対象にはならないと思っていた彼女のその姿は、艶やかに思える。
そんなわけないと目を逸らそうと思うが、何故だか僕の目は彼女の身体から離れられない。
それどころか、漂う色香をもっと嗅ぐために彼女に近付いている。
今迄ちゃんと見ていなかったけど、眠った彼女は思っていたよりも大人の身体で、
触れたい、彼女の感触を知りたいと思わせた。
恐る恐る彼女の髪に触れ、頭を撫でる。
健やかな寝息を立てて眠っている彼女は、起きる様子は無い。
そこから僕の理性は無くなり、身じろぎをして艶っぽい息を吐いた彼女に覆い被さった僕は…
「拓|う~ん…いつ読んでも、いいな」
兄貴から借りた恋愛小説を読むのを途中でやめた俺は、
読んだ感想を口にしながら余韻に浸って楽しんだ。
…恋愛小説って言うのは、ちょっと綺麗すぎる言い方か…?
「拓|でも、もうちょっと刺激強めというか…過激なのがいいかな…」
学校に持っていくエロ本を慎重に吟味していく。
そんなものを持っていくなと言われるだろうが、
俺には何としてもこういった本を見せてやりたい奴が居るんだ。
今迄にもグラビア写真集を見せてきたが、
あまりに反応が薄くて、もうエロ本を見せないと自信が無くなってしまう。
「拓|あいつの女の子の好みが分からないが…とりあえず、巨乳を揃えればはずれは無いよな…?」
一度反応を見て、駄目だったら他のを見せよう。
そう思って、学校に持っていくエロ本を鞄に入れていると。
「ちょっと拓巳!読んだ本をリビングに置きっぱなしにしないで!」
部屋の入り口から、俺を怒鳴りつける声がした。
「拓|何だよ姉貴、こっちは明日の準備をしてるのに。邪魔しないでくれよ」
「グラビア雑誌を何冊も放置してるから言ってるのよ!さっさと片付けなさい!」
俺を叱りつけてくるのは、俺の姉である榎本綾乃だ。
姉と言っても、親父が再婚した相手の連れ子で、血は全く繋がっていない一つ上の義姉だ。
一年前に初めて会った時は、ギャルゲー的な展開を期待していたが…
「綾|いくらお兄ちゃんよりもましだからって、わたしは見たくないのよ…」
「拓|俺、ほとんどの本を兄貴から借りてるんだけど?それでもましなのか?」
「綾|…そうね…エロ本を隠してない時点で同じだったわね…」
「拓|隠す理由が無いだろ?どうせ知ってるんだからさ」
「綾|そんなんだから…変態のお兄ちゃんと同じなのよ…」
姉貴から変態と呼ばれている俺の実の兄貴が姉貴を襲ったせいで、その淡い期待は露と消えた。
それ以来、姉貴は兄貴を一方的に嫌い、俺は姉貴を女として見れなくなった。
「綾|いいからリビングの…」
「拓巳~どうせだからこれも持っていくか~?」
「綾|お兄ちゃん…話に割って入ってこないでくれない…?」
「いや、彼女が来るから処分しないといけなくてな」
「拓|…ちなみに何番目?」
「五番目だな」
今、五股している事が発覚した人物こそ、俺の血の繋がった兄である榎本京祐だ。
無類の女好きで、泣かせた女ならぬ、怒らせた女は数知れない程の遊び人である。
顔も性格もいいから尚の事質が悪い。
俺とは六つくらい離れていて、エロ本は兄貴からもらっている。
「京|それよりこれ、ほら」
「拓|おっ、丁度巨乳ものを持って行こうと思ってたんだ。ありがとう」
「綾|…家族だからって、わたしの目の前でエロ本を弟に渡さないでよ…」
「京|何だ綾乃、見たいんだったら見せるぞ?妹だからな」
「綾|………」
ゴンッ!
「綾|いい加減セクハラをやめないと、殴るから」
「拓|姉貴…殴ってから言う事じゃないって…」
「綾|あんたはリビングに行って、雑誌を片付けてきなさい!」
「拓|うわあ!分かったから殴ろうとしないでくれよ!」
姉貴から逃げるために、俺は姉貴の言う通りにリビングへ行った。
これが俺こと、榎本拓巳の休日の昼下がりの一幕である。
「拓|…って事があったんだけどさ」
「…その話を聞かされた俺に、何て言って欲しいんだ…?」
「拓|そんな事がありながらも持ってきたエロ本の感想を聞かせろ」
「今の話は必要だったのか…?」
俺の昨日の出来事を呆れながら聞いているのは、国東統次郎。
この高校に入学して約二ヶ月の付き合いだが、この学校で唯一の友達だ。
…友達が他に居ないのは…学校にエロ本を持ってきている時点で察してくれ…
「統|…なあ…思ったんだけどさ…」
「拓|ん?何だよ?」
俺が持ってきたエロ本をちらちらと見ていた統次郎が、
二、三ページめくりながら何かを言おうとしてきた。
やっと興味が出てきたのか?
「統|何で男って、女性の胸が大きい方がいいんだろうな?」
「拓|…言われてみればそうだけど…何で今なんだ…?」
「統|いや、胸だけじゃなく、お尻もだけどさ」
「拓|俺はエロ本の感想を聞きたいんだけどな…」
「統|小さい方がいいって人も居るけどさ、大抵の人は巨乳好きなのは何でだろうか…」
「拓|大きい方が母性を感じるからじゃないか?それよりも…」
「統|エロ本の感想なら、胸が大きいだけで他に良い所は無いなだ」
「拓|おまっ…!俺が厳選してきたエロ本を、言うに事かいて胸だけってどういう了見だ!」
「統|明らかに胸ばっかり強調してるし、下半身は上半身に対して貧相すぎる」
「拓|何だ、お前は尻好きだったのか」
「統|そういうわけじゃないって。
ただ胸を強調するポーズばっかりなのはどうなんだって思ってるだけだ」
「拓|よ~し、そういうつもりなら胸と尻どっちがいいか語り合おうじゃないか!」
「統|…あれ…?何でこうなったんだ…?」
この後、俺と統次郎は女性の胸と尻のどっちが素晴らしいか時間を忘れて語り合った。
その結果は…
「拓|大多数の男は胸が好きなんだ。だから巨乳は男の夢なんだ!」
「統|だから巨乳の女性は男にもてるわけじゃないだろ?それに…」
「楽しそうに話してるね…二人共…?」
「拓|はっ…!」
「統|ひっ…!」
いつの間にか先生が背後に来ている事に気付かず、エロ本を持ってきている事がばれてしまった。
ものすごく怒っている先生は豊中早苗先生、古文を担当している先生だ。
クラスの女子の間では男らしいと人気らしい。
…女性が女性にもてるのはどうかと思うがな…
「早|何の話で熱中しているかと思えば、こんな本を学校に持ってきているなんてね…」
「拓|ああ!俺の本が!」
「統|諦めろ!見付かった時点でこうなるのは決まってた!」
「早|ほお…これは榎本のか…国東が頼んで持ってこさせたのかな?」
先生が、俺の本を振って統次郎にそう聞く。
統次郎はぎこちなく首を横に向けて口を開いた。
「統|…オレハナニモイッテマセンヨ?」
「早|どっちにしろ、二人共放課後は指導室に来る事。それとこの本は没収」
「拓|俺の命の次に大事な本なのに!」
「早|放課後になったら返すから、次は持って来ないでよ?」
そう言って先生は、俺のエロ本を持って行った。
…俺の大事なエロ本が…
「統|仕方無いって、放課後になれば戻ってくるんだから納得しろよ」
「拓|次は見付からないようにする…」
「統|また持ってくるのか…だったら、今度からは予鈴が鳴ったら仕舞うようにしろよ」
「拓|…明日は貧乳ものを持って来よう…」
「統|そういうのは二度と学校に持って来るなよ?」
「拓|分かったよ…そうだ、次の休み、時間あるか?あるならグラビアアイドルの握手会に…」
「早|榎本、話したい事があるなら後にしなさい」
「統|…行かないからな。理由は後でだ」
「拓|分かったよ…」
一緒に行きたかったのに残念だなと思いながら、
ホームルームが終わるのをぼ~っとしながら待った。
待ちに待った日曜日。
俺は今、グラビアアイドルの握手会の会場に来ている。
「拓|統次郎も来れば良かったのにな…一人暮らしは大変らしい」
前に統次郎の家に遊びに行った時に一人暮らしなのは知っていたが、
やる事が多くて時間が無いらしい。
「拓|可愛い女の子は生で見るのが一番だよな。生で見た方が正確にスリーサイズが分かるし」
中学生の時からグラビアアイドルの写真集を見ていたからか、
今では女の子を見るだけでスリーサイズが分かる特技が身についた。
たとえ偽物の胸だろうと、誤差一センチの正確さで見抜く自信がある。
…今の所何の役にも立って無いがな…
「拓|おっ、もうすぐ時間だ早く中に入っておこう」
順番はあまり気にしないけど、なるべく早く行った方がいいからな。
そう思って走り出した時、左の方から俺と同じく走っていた人とぶつかった。
「拓|うわっ!」
「きゃっ!」
勢い良くぶつかったせいか、お互い尻餅をついてしまった。
急いでいるのに何なんだと、周りを見ていなかった自分の事を棚に上げてそう思い、
相手がどんな人物か見る。
その瞬間、俺は驚きのあまり口を開けたまま固まってしまう。
「いたた…もう、急いでる時に何なのよ…」
「拓|もしかして…」
「えっ?」
「拓|もしかして…モデルの鈴井萌莉…?」
「………」
俺がそう呟くと、素早く落としたものを拾い集めて、俺の手を取ってダッシュで引き摺られた。
あれ…何が起きてるんだ…?
わけも分からないまま引き摺り回されて、俺は呆然としたまま喫茶店の椅子に座っている。
向かい合っているのは、さっきぶつかった女の子が居る。
長めの髪を一つに纏めて、彼女の左手側の肩に流している彼女は、どう見ても不機嫌そうだった。
お互い何も言わない時間が長く続き、ようやく彼女が口を開いた。
「何で…」
「拓|はっ…?」
「何で…あたしがモデルの鈴井萌莉だと思ったの…?」
何が起きているのか分からないまま、俺は彼女に質問された事に素直に答えた。
「拓|ああ、前に姉貴の買った雑誌で見た事のある体型だったからもしかしたらと思って」
「…体型…?顔じゃなくて…?」
「拓|一度しか見てなかったから顔はうろ覚えだったけど、
身長やスリーサイズは覚えてたからな。ちょっと胸が大きく…」
「それ以上言うのはやめなさい!」
胸が大きくなってたから自信はなかった。
そう言おうとした時、彼女から目潰しを食らった。
「拓|ぎゃああ!」
目が!目があああ!
言ってほしくない事を言ったからってこの止め方はどうなんだ!
目を瞑っていたからまだ良かったが、眼球へのダメージは大だった。
「人の体型の事を言うから痛い目にあうのよ」
「拓|いや、だって本当の事だし、言っても…」
「………」
「拓|ごめん分かったから二度目はやめて?」
笑顔で右手の人差し指と中指を俺に向けてきたので、涙目になりながら早口で止めた。
…またやられたらしばらくの間目を開けられなくなりそうだからな…
「全く…セクハラで訴えられなかった事を感謝してよね」
「拓|そんな事より、君は本当にモデルの鈴井萌莉なのか?」
「………」
目の前の彼女は渋面を作って不愉快だと表に出していたが、溜め息をついて面倒そうに口を開いた。
…気になる事を聞いただけなんだけどな…
「その名前で呼ばないで。あたしは珠洲萌莉、鈴井萌莉はモデルの時だけの名前なの」
「拓|でもさ、名前で呼んだらどっちも同じじゃないか?」
「萌|…なら名字で呼んで…」
「拓|分かったよ、珠洲さん」
やっぱり、目の前に居るのは鈴井萌莉だった。
どうやらモデルの時の名前で呼ばれたくないみたいだが、何か理由でもあるんだろうか?
まあ、知りたいとは思わないが。
「拓|ところで珠洲さん、ちょっと思うんだけどさ」
「萌|何なの?」
「拓|ぶつかった時、走ってたみたいだったけど急いでたんじゃないのかな?」
「萌|あっ…!先輩におつかいを頼まれてたのを忘れてた…!」
「拓|だったら早く行った方がいいんじゃないのか?支払いなら俺がするからさ」
「萌|そうね、じゃあ飲み物の代金は此処に置いておくから。じゃあ!」
そう言った珠洲さんは喫茶店から出ていこうと立ち上がった。
かと思ったら、すぐに動きが止まって俺に視線を向けた。
「萌|念の為に言っておくけど…今日の事を誰かに言ったら、貴方を探して心をボコボコにするから…」
「拓|安心しなよ、こんな話を聞いてくれる友達は俺には居ないから」
「萌|貴方…友達に恵まれて無いのね…」
「拓|量より質なだけだっての…急いで行かないといけないんじゃないのか?」
「萌|分かってるわよ。後はよろしくね!」
今度こそ喫茶店を出て行く珠洲さんの背中を窓越しに見送る。
もうグラビアアイドルの握手会会場に行っても間に合わない時間になってる為、
とても暇になってしまった。
折角遠出したんだから、何処かに行こうかと考えていると。
「拓|あっ、スマホ?」
机の上に置いてあったスマートフォンが目に入った。
喫茶店に入った時には無かったので、おそらく珠洲さんのものだろう。
「拓|…届けるか…」
とはいえ、彼女が何処に居るのか分からない。
だから、彼女が行くと思われる場所を探した。
「拓|えっと…このあたりで鈴井萌莉が居そうな所は…」
自分のスマートフォンで鈴井萌莉が出ているイベントを探してみるが、何も出なかった。
なので、彼女の事務所に所属しているモデルが参加しているイベントを探してみた。
「拓|おっ、もしかしてこれか?」
この近くでやっている、モデルのファッションショーが目に留まる。
鈴井萌莉の名前は無いが、彼女の先輩のモデルが出ている。
「拓|此処に行ってみるか。居なかったら、また此処に戻って預けよう」
やる事が決まったので、
喫茶店の人にスマートフォンの持ち主が来たら此処に待たせてほしいと頼んで喫茶店を出た。
「拓|地図によると、此処だよな」
スマートフォンの地図アプリで目的地を確認して、間違えてないかを確かめる。
ファッションショーをやっているらしい建物の前迄来た俺は、
どうやって珠洲さんの忘れ物を渡せばいいのか考えないといけなかった。
「拓|中に入るのは…無理だろうな…」
観客として中に入るのは無理だし、スマートフォンを渡したいだけなので表口から入る事は出来ない。
だが、関係者しか入れないだろう裏口から入るのはもっと無理だろう。
「拓|忍び込むか…いや…そんな事をするわけには…」
そんなに大きくないファッションショーだからって簡単に入れるわけじゃないし、
ただスマートフォンを渡すのに犯罪行為をするわけにはいかない。
というか、割に合わないしそこ迄する理由は無いしな。
「拓|やっぱり…喫茶店に預けようか…」
少しでも話が出来ればなと思って来たけど、渡せないなら仕方無いよな。
そう思って喫茶店に戻ろうとした時、不意に着信音がした。
「拓|ん?」
覚えのない着信音に戸惑いながら音が出ているものを取り出すと、
珠洲さんのものかもしれないスマートフォンだった。
…出てみるか…
「拓|もしもし、この電話の持ち主ですか?」
念の為にこのスマートフォンの持ち主かどうか確認する。
珠洲さんのじゃなかったら赤っ恥だからな…
「ああ、もしかして喫茶店の方ですか?」
「拓|いえ、違いますけど」
何やら焦った様子の女性の声が、電話口から聞こえた。
…絶対に珠洲さんの声じゃねえ…
「拓|暇なので、良ければそちらにスマホを持って行きますよ?」
「いえ、そこ迄していただなくても…」
「拓|暇で退屈でやる事も無いので、そちらにスマホを持って行かせてください?」
「わっ、分かりました…では、躑躅野文化ホールに来てください」
「拓|あっ、今そこの近くに居るので、表口の方に来てください」
「そうですか。ではすぐに向かいますので」
ぷつっ、という音が通話が終わった事を教えてくる。
表口に人はほとんど居ないので、少し待てばすぐに気付いてくれるだろう。
そして五、六分待っていると、表口から女性が出てきた。
その女性は周りを見回し、俺に気付くと近付いてきた。
「貴方が、さっきの電話の人ですか?」
「拓|はい、そうですけど、このスマホの持ち主ですか?」
「いいえ、本当の持ち主は忙しいので私が代わりに受け取りに来ました」
どうやらさっきの電話をしてきた人で間違いないようだ。
「拓|では、このスマホを持ち主に返してください。
それと、喫茶店で何かを忘れないようにって伝えてください」
言いたい事とやるべき事をした俺は、喫茶店に戻って持ち主に返した事を報告しに行こうとした。
「ちょっと待ってください。これから時間があるなら、お礼をさせてもらえませんか?」
「拓|えっ?いや、まあ暇は暇ですけど、
喫茶店の人に忘れ物を返した事を報告しようかなって思ってたんですけど…」
「それは後にして、とりあえず中に入ってください」
「拓|えっ、ちょっと何ですか?」
わけも分からないまま、俺は背中を押されて建物に入れられた。
「強引に連れてきてしまってすみません。ですが、どうしてもお話を聞いてもらいたくて…」
「拓|…何となく事情があるんだろうなと思ってましたけど…見ず知らずの赤の他人にやる事ですか?」
建物の中を歩きながら、多少の不満を口にする。
前を歩く女性についていって廊下をどんどん進んでいると、段々と不安が大きくなってくる。
…結構奥まで進んでるんだけど、大丈夫なのかな…普通は関係者以外入れない場所じゃないか?
「拓|それと、何処まで歩くんですか?俺、追い出されません?」
「では此処で、追い出されそうになった時は私が止めますので安心してください」
そう言われて、俺は人気の無い廊下で立ち止まり、見知らぬ女性と向き合っていた。
…何、この状況…何の話をされるの…?
「実はお願いがありまして…ファンになってもらえませんか…?」
「拓|…はい?」
ちょ…わけが分からない…この人何を言ってるの?
何を言っているのか理解出来ないというより、何でそういう事を言っているのかが理解出来なかった。
「拓|えっと、もう少し分かりやすく言ってくれませんか?」
「ですから、貴方に…」
「萌|ちょっと!此処は関係者以外は立ち入り禁止よ!何で貴方が入ってきてるの!」
詳しい話を聞こうとした時、少し前に聞いた声がはっきりと耳に届く。
その声の主は、俺にぶつかって、喫茶店迄引き摺った珠洲さんだった。
あ~…やっぱり此処に居たんだ…
「萌莉ちゃん落ち着いて。この人は萌莉ちゃんが喫茶店に忘れたスマホを届けてくれた人よ?」
「萌|そうだったの?ありが…」
珠洲さんは一瞬驚き、俺にお礼を言おうとしてまた渋面を作った。
…表情がころころ変わるな…
「萌|まさか…勝手にスマホの中を見たんじゃないでしょうね…?」
「拓|そんな事するわけない、俺を何だと思ってるんだ」
「萌|理由はどうであれ、こんな所に迄入って来るなんて信じられない。
あたしの後をつけてたんじゃないでしょうね?」
「拓|俺は女の子は好きだが、嫌がられるような事をして喜ぶような奴じゃない」
「萌|だったら、外でスマホを渡せば…」
「萌莉ちゃん、そこ迄にして。貴女は何の為に来たの?」
「萌|それは…偶然通りがかっただけで…」
「今回付いて来たのは、貴女がモデルとして勉強する為でしょう?
まだファッションショーは終わってないはずよ?」
「萌|…分かった…でも、終わった時には出て行ってよね」
「拓|大丈夫、そんなに長居するつもりは無いから」
俺がそう言うと珠洲さんは素直に何処かに行った。
初めて会ったのに、俺嫌われてるな…
「すみません…萌莉ちゃんは普段、あんな子じゃないんですけど…」
「拓|ああ、ご心配なく。十割俺のせいでああなってるので」
「何をしたんですか…?」
「拓|彼女の体型の事を少しだけ。
前に雑誌で見た時より、胸は少し大きくなって、お尻は小さくなってますね」
「…それは他の女の子の前で言わない方がいいですよ…」
「拓|いやだなあ、俺は褒めてるだけですよ」
俺の言葉に、目の前の女性は何も言えなくなっていた。
やっぱり褒め言葉って言うのは無理があるか?
「拓|って、そんな事より、ファンになって欲しいってどういう事ですか?」
珠洲さんが話の途中にやってきて、ちゃんと聞けなかった事を思い出して聞いた。
「簡単に言うと、貴方に萌莉ちゃんのファンになって欲しいんです」
「拓|はあ…言いたい事は分かりますけど、理由は何ですか?」
「私は萌莉ちゃんの従姉妹みたいなもので、萌莉ちゃんの先輩にあたる子のマネージャーをしています」
「拓|えっ、珠洲さんのマネージャーじゃないんですか?
珠洲さんの事を気にしてて大丈夫なんですか?」
「私の担当の子には理解してもらっているから大丈夫です。
それに…萌莉ちゃんはこうでもしないと、モデルの仕事に関われないですから…」
「拓|それってどういう事ですか?」
「貴方が前に見たという雑誌、あれは萌莉ちゃんの初めての仕事で、
最後に撮ってもらった仕事なんです」
「拓|えっ…あれって確か、半年…下手したら一年前のやつですよね…?」
つまりは、初めてのモデルの仕事をやって、半年以上はモデルの仕事をしていないのか珠洲さんは?
だとしたら…
「拓|モデルとして大丈夫なんだろうか…」
「本人も仕事が無いのを気にしてて…
だからせめて、ファンが居る事にして、元気を取り戻させようと…」
「拓|それで丁度良い人間だったのが俺だったと…」
「無関係な人に頼むような事ではないのは分かっています。
けれども、どうか萌莉ちゃんの為にファンだという事にしてもらえませんか?」
珠洲さんの従姉妹だという女性は、深々と頭を下げて俺に頼み込んだ。
身内だから、嘘を吐いてでも元気にさせたい。
その気持ちはよく分かった。
だから俺は、俺がやるべき正しい事をしよう。
それがこの人に対する礼儀だと思うから。