~止まったままの歯車~
「……こんなもんか」
息をふーっと吐き出しながら、目の前にある絵画から顔を遠ざける。額にじんわりと汗が滲んでいることに気付いたので、手の甲を2回ほどそこに擦りつけた。
猫背になっていたので少しだけ背を伸ばすと椅子がぎしりと自身の存在を示す音を立てる。その音を耳で聞きながら、目の前にある絵画の最終点検をした。
「うん、綺麗になったな」
さっきまで埃を被っていた絵画が綺麗になったことで、胸の中に満足感が広がっていく。だけど、その満足感はすぐに焦燥感へと変わった。
「やべっ! 今何時だ!?」
慌てて部屋の壁に掛けてある時計へと目をやると、最後に見た時間から二つも短針が進んでいた。それを見て俺は「げ」と無意識に言葉を零してしまう。思った以上は時間が過ぎてしまっていた。
明日の昼までにやらなければいけないこと仕事があったことを忘れていた。今日はまだ仕事に手を付けていない。心の中で馬鹿野郎と自虐しながら頭を掻く。
だけど、この絵を汚れたままにしておくのは嫌だった。だから、まぁ──。
「──仕方ないか」
こういう時は切り替えが大事だ。過ぎたことを悔いても仕方ない、今日一日徹夜でやっつければなんとかなるはずだし、後は未来の自分に託すとしよう。
「それにしても……疲れたぁ……」
自分でも情けないと思うような声を出しながら、椅子から立ち上がりノビをする。背中の骨が伸びてパキっと軽い音が鳴った。
それにしても、季節のせいかやたらと部屋に湿気を感じる。じんわりと額に汗が浮かんでいる感覚がしたので、手の甲で汗を拭い窓際へと向かった。このまま置いておくのは絵画にとってよくないだろう。ヘタをするとカビが生えてしまう。いやな想像をしてしまい、俺は頭を掻いた。
仄かに光を含んだ白のカーテンを開く。昼の日差しが目に飛び込んできた。
あまりのまぶしさに思わず目を細める。目の奥にぼやっとした影が落ちたが、目を細めたまま建付けの悪くなった窓を開くのを確認した後、目を閉じた。
ふわりと風が俺の肌を撫でる感覚がした。それは、夏の気配を感じる風だった。
「もうすぐ夏か……」
目を閉じたまま、ぽつりとつぶやいていた。もう一月もすれば七月がやってくる。
ゆっくりと目を開き窓の外に広がっている風景を見た。木は夏の到来を示すように、青々とした葉をつけていた。俺はそのままぼうっと外の風景を眺め、昔を思い出す。
「夏……なんだな」
夏が来るたびに昔のこと思い出す。もう両の手では数えきれなくなったほど昔の話だ。
俺は振り返り、もう一度しっかりと絵画を見つめる。うん、いい状態のままだ傷一つない。よく十三年も保ったものだ。
その絵画には、二人の青年がお互いを見つめ合っている絵が描かれていた。だけど、その真ん中には透明な壁が一枚置かれている。そして、片方の背景には水が描き込まれていた。
隔たれた青年たちは違う世界からお互いを見ていた。その絵を描いたのは……俺の彼女だった人だ。
見ていると作品の世界に吸い込まれそうな錯覚を覚えてしまう。絵はところどころ粗削りな部分が見え隠れしている。その代わりにこの絵には成熟しきった絵にはない魅力が詰まっていた。
「描いた本人はこんなに大切に扱われているなんて知らないだろうな」
この作品を描いた作者の事が頭の中に浮かんで、思わず顔が綻んでしまう。久しぶりに童心に返ったような、そんな穏やかな気分が胸に訪れた。
一緒にその頃の記憶が甦ってくる。それは美しく綺麗な記憶だけではなく、苦い記憶もあった。若さゆえの過ちというべきだろうか。あの頃の俺は周りが見えていなかった。
──今も変わらないか。
よくよく考えるとあまり成長していないような気がした。仕事が控えているのに絵画の掃除に精を出す男、それが俺だ。何年経っても俺という人物は変わっていないらしい。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。強いて変わったところをあげるとするならば言葉遣いくらいなものであろう。
「でも……あれからもう十三年になるんだな」
それを思うと寂しさが胸を締め付けていく。俺は、気持ちを紛らわせるために頭を掻いた。
「日和、なにしてるんだろうな」無意識の内に言葉が音となり口から零れる。
それはこの作品を描いた作者の名前。そして、今は離れ離れになってしまった最愛の人の名前だった。
「日和……」
ダメだ、毎年この時期になると感傷的になってしまう。心が伽藍洞であることに気付いてしまう。だからこの絵に縋りついていることを思い出してしまう。
きっと、俺の時間はあの日から進んでいないのだ、一緒に歯車を回すべき相手が今は隣にいないから。
それでも世界は容赦なく回っていた。俺が止まっている間に十三年という時が過ぎてしまっていた。
俺は胸にぽっかりと空いた穴を埋める為に記憶を遡り始める。『日和』と初めて出会った十三年前のあの夏へと……。