第四章 12 魔物の襲撃
12 魔物の襲撃
しばらく景色を眺めた後、三人は自由席に戻った。やはりスフィアの姿は見かけないので、個室にいるのだろう。
三人はおやつを食べたり景色を眺めたりして過ごし、昼頃には弁当を食べた。
「そろそろ島が見えるかな?」
弁当を空にし、瓶詰めの果汁を飲み終えたリユルが言った。
船は順調に進んでおり、予定通りの時間にルフエ島に着くだろうと思われた。
「もう昼過ぎですもんね。見えてくるかもしれませんね」
「甲板に行ってみよっか」
ヴァルルシャとユージナも食事は終えていたので、膝の上に広げた弁当の包み紙などをたたみ始める。
船にもゴミ箱が設置されている。弁当の包み紙などの燃える物を入れるゴミ箱。それからその横に、空き瓶を回収する箱。これらは町の宿屋や店でも見かける。瓶は回収してリサイクルするのだろう。
三人は甲板に出たが、まだ水平線の先に島の姿は見られなかった。
今日は朝からずっといい天気で、雲一つ無く日差しがきついぐらいだった。それは船での移動中ずっとそうだったのだが、今、日差しは少し陰っていた。
「なんか霧が出とるね?」
ユージナが辺りを見回す。確かに薄く白いベールのような霧が湖の上に広がり始めていた。
「ルフエ島って、霧に包まれてるの? 神秘のベールに包まれてる的な……」
「でもそんな話は聞かなかったですよね。あえて情報を仕入れないようにしていたので、耳に入らなかっただけかもしれませんが……」
霧は最初のうちは薄く、湖を水平線まで見渡すことができた。だが甲板でずっと眺めているうちに、だんだんと濃くなってきた。
甲板には三人以外にも何人かの乗客がいたが、彼らも珍しそうにその霧を見ている。
そして、青いスカーフを身につけた船員たちが、ざわついている気配が伝わってくる。警戒した表情で船室を出入りする様子が甲板からでも見える。霧の中で船を操縦するのが難しいのは当然だろうが、そういう自然現象に対する緊張とは違った気配を感じる。
霧はますます濃くなり、水平線が見えなくなった。
「甲板のお客様! 船内に移動をお願いします……」
船員がそう呼びかける。だがその声の最後は、別の音声によって遮られた。
美しい歌声が聞こえる。
それは湖から響いてきた。高いソプラノの、女の声だ。甲板からそちらの方向を眺めると、霧の中に岩の影があり、その上に座る髪の長い女のシルエットが見えた。それは何人もおり、彼女たちが歌声の主のようだ。
「岩? あんなところに岩場なんて……」
リユルが言うように、先ほど、ここまで霧が深くなる前に見た景色では、湖の上に突き出した岩など無かったはずだ。
「てことは……魔物? 岩ごと現れてきたとか? あんなとこにおるのが普通の人間なわけないし」
ユージナも冷静にそう判断する。
だが、ヴァルルシャの様子は普段と違っていた。
「でも……とても綺麗な歌声ですよね……」
ぼんやりとそう口にし、歌声に近い船べりまで浮ついた足取りで進んでいく。
甲板の乗客に避難を呼びかけた船員も、うっとりした表情で歌声に引きつけられていく。
「ちょ、ちょっとヴァルルシャ!?」
ユージナがヴァルルシャの腕をつかんで振り向かせようとするが、ヴァルルシャの目は湖の上を見つめていた。
「なんかおかしい! 普通じゃないよこれ!」
リユルもヴァルルシャや他の乗客の様子を見て言う。甲板にいるのはユージナとリユル以外は男性で、彼らは皆、魅了されたような顔で歌声に聞き惚れていた。
「歌で魅了……しかも船に乗ってるときに……これって、あれだよね?」
リユルがヴァルルシャをつかまえているユージナに確認する。
「うん……うちだって知っとる。『ローレライ』だ」
ローレライの伝説は現代日本でも有名だ。美しい乙女や人魚の姿で描かれる、歌声で人を惑わし、船を沈没させる魔物。さまざまな創作物に登場している。
女のリユルとユージナは正気を保っているが、ヴァルルシャや甲板の他の男たちはローレライの歌声に取り憑かれているようだ。
「こ、これどうしたらいいん?」
ユージナはヴァルルシャの腕をつかんだままうろたえる。これが魔物の攻撃による物だとはわかったが、それでどうしたらいいのだろうか。
そのとき、大きな声が聞こえてきた。
「なにぼんやりしてる!」
女性が、手を叩きながら大きな声を出して甲板にやってきた。青いスカーフを首に巻いた船員だ。長い髪を後ろで三つ編みにして束ね、動きやすそうだが魔法使いのような服装をしているので、風係だとわかる。船の帆に風を当てるところを遠目で何度も見かけてはいたが、女性だったようだ。
「ローレライに魅了されてんじゃないよ、しっかりしな!!」
女性はまず近くにいた船員の男性をつかんで揺さぶった。男性はうたた寝から目覚めたように顔を上げて目を見開いた。大声やそのぐらいの衝撃で目を覚まさせることが出来るようだ。
「ヴァルルシャ、起きて!!」
ユージナが猫だましのようにヴァルルシャの顔の前で自分の手を打ち合わせる。ヴァルルシャはハッとしたように辺りを見回し、目の前のユージナに気づいた。
「ユージナさん……? あれ? 私は一体……」
自分を見つめるヴァルルシャの目が正気を取り戻しているのを確認し、ユージナは安堵した。
「ほらっ! そっちのお客さんも目を覚まして!!」
風係の女性が甲板にいる他の客のところへ行き、手を叩いたり揺さぶったりして魅了を解いた。
「女の船員さんもいるんだ」
リユルが辺りを見回して言う。船室や操縦室の方でも、女性の船員が男性の船員や客を起こしているような声が聞こえる。
荷物の上げ下ろしなどは腕力が要るので、船員は男性ばかりだと三人は思っていた。だが、魔法で風を起こすのに腕力は関係ない。風係以外でも、数は少ないようだが女性の船員が何人かいたようだ。
「ヴァルルシャ、ローレライに魅了されとったんだよ」
ユージナに説明され、ヴァルルシャはもう一度、正気の目で湖の上を見る。
「ローレライ! それが出たんですか……。ということは、歌声を聞かない方がいいんですよね」
ヴァルルシャもローレライの伝説を頭に思い浮かべ、自分の手で耳をふさごうとする。
だが、その前にローレライの歌声が聞こえなくなった。
「聞こえんくなった」
「みんな目を覚ましたから、歌っても効き目が無いと思ってやめたの……?」
ユージナとリユルが言うが、すぐに別の歌声が響き始めた。
低く、美しい、テノールやバリトンのような声。
「男の声!?」
ヴァルルシャが湖を見る。霧の中の岩に座る無数の人魚の姿。皆、髪が長いので体型が隠れがちだが、よく見れば上半身に胸の膨らみが無く、肩幅のしっかりした、男の上半身を持つ人魚もいるようだ。
「男のローレライもいるということですか……」
現実世界のローレライは、女の姿で描かれた物ばかりだったはずだ。だがそもそもローレライは、船の航行が難しく沈没しやすい場所に、『魔物が船を沈めているのだ』、という理由を想像して生まれてきた伝説だったはずだ。
この世界においては、船の難所に限らず出現する魔物であり、女も男もいる。そういう設定なのだろう。
ヴァルルシャは、周りに自分たち以外の人間もいるので口には出さなかったが、冷静にそう判断した。
リユルとユージナもきっとそう推測しただろう、と思って彼女たちを見たが、二人の様子はヴァルルシャとは違っていた。
「ローレライ……男もおるんだね……」
「うん……すごくいい声……」
女二人は我を忘れたように歌声に聞き入っていた。
「ちょっとお二人とも!! しっかりしてください!!」
ヴァルルシャは二人の肩をつかんで揺さぶる。
「あっ、あれ!? うちらもおかしくなっとった!?」
「やばい! 魅了されてた!?」
二人はすぐに正気を取り戻した。
甲板では他にも、先ほどの風係の女性が歌声にうっとりしているところを、男の船員に揺さぶられていた。
「あねさん! 目を覚まして!」
「あっ!? やばっ、魅了されちまった」
「異性のローレライはしょうがないっすよ。でも同性の歌声には誘惑されませんからね! 船には必ず男女両方乗せとくっていう、昔からの言い伝えを守っといてよかったっす」
「そうだね。フルーエ湖にローレライが出るなんて、ここ何十年も聞かなかったけど、魔物はいつどこで出くわすかわかんないもんね」
そういう会話が三人の元にも聞こえてきた。
「そっか、だから女の船員さんもいるんだ」
納得したリユルがつぶやく。とはいえ比率で言えば男の方が多い。歌声に魅了された女性陣を目覚めさせるのは先ほど以上に簡単で、混乱はすぐに収まった。
船にいる人間はすべて正気を取り戻し、霧に包まれた湖をにらんでローレライを警戒する。男女どちらの声でも誘惑できないことを悟ったのか、ローレライの歌声は止まった。
そして霧の中、岩に座る人魚たちの影が湖に飛び込んでいくのが見えた。
「来るよ! みんな、気をつけて! お客さんは下がって!」
風係の女性が叫ぶ。船員の男性はナイフを取り出して魔物の攻撃に備える。
「うちらは戦えるよね!」
ユージナが腰に差した刀を抜く。
「ええ!」
「あいたちは魔物狩り屋だもん!」
ヴァルルシャとリユルも身構える。
甲板にいた他の乗客は戦うのは得意では無いのだろう、船員に誘導されて船内に避難していった。
「じゃあお客さんも、頼んます!」
ナイフを構えた船員が言い、三人がうなずいたとき、水面が割れる音がした。
泳いできたローレライが水から飛び出し、船の側面に手をかけて登ってくる音がする。
そしてローレライは側面を登り切り、船べりから顔を出した。
男も女も美しい顔をしている。だがその目はどこまでも冷たかった。
そして先ほど魅惑的な歌を歌った唇で、別の言葉を発した。
「水よ!!」
槍のような水の塊が、甲板にいる人間に向けて放たれる。身構えていた皆はそれをよけ、手に持った武器、あるいは準備していた魔法で反撃する。
「炎よ!」
「炎よ!」
風係の女性とヴァルルシャがボールのような炎を投げる。
「岩よ!」
リユルが同じぐらいの岩の塊を投げる。
敵は人魚なので、水の魔法を使ってくることも、炎や岩の魔法が効くことも、すぐに想像できた。だから敵の魔法は外れ、人間の魔法はすべて当たった。
それでも一撃では倒せないのでローレライたちは船に上がり込んでくる。そこを、ユージナとナイフを持った船員が迎え撃つ。
ローレライの大きさは人間と同じぐらいで、下半身は魚だった。上半身は人間と同じ形で、男と女と両方あった。
以前戦った人魚は人間より小さく、姿も魚に近かったので、すぐに魔物と認識して攻撃することができた。
しかし目の前のローレライは、上半身だけ見れば人間と同じように見える。ユージナは人間部分に斬りかかるのに少し抵抗を感じ、下半身の魚部分に向かって刀を振り下ろした。
「グッ!」
魚部分に亀裂が走り、ローレライがうめく。その傷からは血は吹き出ず、粘土細工をヘラで切ったような傷跡になる。
(……そうだ……いくら人間に似とってもこいつは魔物! それに、人間はこんな目をしとらん!)
ユージナは自分に言い聞かせる。ユージナに切られたローレライは、冷たく憎悪に満ちた目でユージナをにらみつけた。
船員はユージナのようなためらいは最初から無く、ローレライの上半身をナイフで切りつける。その肌には血の出ない傷がつき、ナイフが触れて切り落とされたローレライの長い髪は、足元に落ちる前に消えていった。
いくら形が似ていても、やはり人間と魔物は違う存在なのだ。
ローレライは男女合わせて八匹いた。甲板に残ったのはユージナたち三人と船員二人でローレライより少なかったが、やがてナイフや棍棒を手にした他の船員も甲板にやってきた。
間近で見るローレライは美しい顔をしてはいたが、甲板にいる人間は、歌声に魅了された後に正気を取り戻した者ばかりだ。今更その美しさに誘惑はされない。
ローレライは両手に鋭い爪を持っており、それで人間を引き裂こうとしてきた。歌声に誘惑されたままなら、ローレライに近づいた人間はその美しさにも見とれて身動きできず、爪の餌食になってしまうだろう。
だが冷静を保っている人間にとっては、ただの爪に過ぎなかった。
ローレライの上半身は男女とも優雅、つまりは華奢で、見た目通りそれほど物理攻撃力は高くなかった。槍のような水の塊を放つ魔法も、それほど強力な物ではない。下半身は魚なので、陸での移動は飛び跳ねるように行っていたが、それも素早い動きとは言えなかかった。
美しさという一番の武器が通用しなくなったローレライは、そこまで強い魔物では無かった。
敵の攻撃をかわしつつ、魔法や武器でダメージを与える。それを繰り返すうちに、ローレライは一匹ずつ倒れていった。光がそれぞれの所持する蓄光石の元に吸い込まれていく。
「ローレライ、全部倒せたかな?」
最後の一体に切りつけたユージナが、辺りを見回して確認する。甲板にはもうローレライはいなくなったようだ。
船を包んでいた霧が晴れていく。
「この霧は、ローレライが使ってた水の魔法なんだろうね」
風係の女性が言う。
「そっか、水の魔法はそういう使い方も出来るんだ」
「ローレライをすべて倒したので、霧が消えてきたのでしょうね」
リユルとヴァルルシャ、魔法使いの二人がそれを聞いてうなずく。
「あ、リユルさん、皆さんも」
そのとき、スフィアの声がした。リユルが振り返ると、甲板にスフィアがやってきていた。帽子はかぶっていない。
「スフィアくん、どうしたの。ここ、さっきまで魔物がいて危なかったんだよ」
リユルがスフィアに向き合い、彼は答えた。
「ええ、ローレライが出たって船内でも騒ぎになってました。僕は奥の個室にいたので歌声は聞こえなかったんですけど、船内でも歌が聞こえた人は魅了されちゃって、混乱してました。女の船員さんが魅了された男の人を揺さぶって起こして、でも女の船員さんは少ないから僕や女のお客さんが手伝って、一緒にみんなを起こしてたんです。そしたら低い歌声が聞こえてきて今度は女の人が魅了されちゃって、次は男の人と一緒に、女の人たちを起こしてたんです。
それがようやく落ち着いたころに、甲板から避難してきたお客さんが『魔物狩り屋と船員が甲板で戦ってる』って言ってたので、僕、ここに来たんです」
「何でよ? あいたちは魔物狩り屋だからいいけど、きみが来たら危ないよ」
「僕、学校でたくさん魔法習ってますから。炎や水のボールを的に当てるのも、すっごくうまくできるんですよ。魔物と戦ったことはまだないですけど、船が大変なんだから放っておけないと思って」
「でもきみはまだ子供なんだし、怪我でもしたらご両親が心配するでしょ」
「回復魔法も勉強してるから大丈夫ですよ。それに僕の両親だって、船が魔物に襲われたら魔物と戦うはずです」
「だからって……。まあ、ローレライは全部倒したところだから、もう危なくないけど」
リユルがそこまで言ったとき、隣にいるユージナが言った。
「ねえ、まだ岩が残っとらん?」
ローレライを倒したことで霧が晴れ、湖の上がもう一度よく見渡せるようになってきた。
船から少し離れたところに、先ほどローレライが座っていた岩場がある。ローレライが現れる前、湖の上には岩など突き出していなかったはずだ。
「この辺りには、岩礁があるのですか?」
ヴァルルシャが近くにいる船員に尋ねる。
「いや、そんなことはないけど……でも確かに、あそこになんかあるね……」
甲板の船員たちは船べりに近づいてそれをじっと見る。
「うち、霧みたいにローレライが岩も魔法で出したんかなって思っとったけど。だって歌って魅了するんだで、水の上に顔を出さんといかんし、だったら座る場所があった方がいいでさ」
「でも、甲板に直接乗り込んできた時点で岩は不要になりますよね。霧は船を孤立させるためにまだ必要ということで、我々に倒されるまでローレライが使い続けたとしてもおかしくないですが」
ユージナとヴァルルシャがそう話している間に、船員たちがざわつき始める。
「あれは……岩じゃない……」
「まさか……こんなところで……」
「ローレライよりやばいぞ……」
「動いた!」
悲鳴のような声が響く。三人とスフィアも湖の方を見る。
岩場に見えていた物が動き、水の中に沈んでいく。
だがいなくなったわけではなく、大きな物が船に向かって泳いでくるのが、水面の動きでわかる。
「何? 前みたいにもっと強いのが……?」
リユルは前回の船旅のことを思い出す。弱めの小型の人魚が大量に現れた後、強力なナックラヴィーが現れた。ローレライは前回の人魚よりは強かったが、それももっと強い魔物が現れる前兆に過ぎなかったとしたら……。
「下がって!」
船員が叫ぶ。そして、船が揺れた。




