第二章 10 トイレの修理
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甲板にある船の施設の一角。そこにもトイレはあった。何十人もの人間が何日も過ごすのだから、トイレは複数の場所に設置されている。
しかし今、甲板のトイレの前で若い船員が困り果てていた。
「人魚に襲われたときに、タンク室が壊れてしまったんです……」
トイレは『男用』と『女用』の二つの扉があり、それぞれ個室が数個ほどありそうな大きさだった。
その横にもう一つ、『タンク室』と書かれた扉があり、『関係者以外立入禁止』という表記も見られた。
しかしその扉は、人魚か、人魚に襲われた人間が倒れこんだのだろう、真ん中から放射状に折れて室内側にへこんでいた。辺りはすっかり夜になっていたので、タンク室の中はさらに暗く、よく見えない。
他の船員がやってきて尋ねる。
「タンクのことなら水係だろう。水係はどうしたんだ」
さらに別の船員が答える。
「一人は人魚に不意打ちされて重傷です。もう一人は人魚と戦ったり彼に回復魔法を使ったりして、精神力を使い果たしてしまいました。今は二人とも寝込んでいます。一晩休めばかなり落ち着くでしょうが、今すぐタンクのメンテナンスは無理かと……」
最初に声を上げた若い船員が困った顔をする。
「でも、下水タンクにヒビが入っていて、今にも割れそうなんです……」
船員たちが話し合うのを聞き、リユルが声を上げた。
「えっ! じゃあ、ここからこの船の下水が全部噴き出しちゃうの!?」
ユージナもヴァルルシャも、その場に集まってきた乗客たちもざわつきはじめる。
「いえ、船は陸上にある建物と違って、建物全体の上水タンクと下水タンクが一つずつあるわけではないんです。巨大なタンクがあると重さが偏って船が傾く危険性があるので、トイレ用、台所用、など、水を使う場所ごとに小型の上水タンクと下水タンクを設置してるんです。だからここのタンクが壊れても、船全体の下水が噴き出すわけではありません」
若い船員が説明するが、ユージナが尋ねる。
「……でも、ここのが壊れたら、ここのトイレの分の下水は噴き出すんですよね?」
船員たちは無言でうなずき、集まっている乗客はまたざわめく。
「……水係の様子を見てこい! もう動けるかもしれないだろう! それか、他に浄化の魔法を使える奴はいなかったか!? 浄化剤はどれだけ船に積んである!? とにかく下水タンクが壊れる前になんとかするんだ!」
リーダー格らしい船員が指示を出す。若い船員がうなずいてその場を離れようとしたとき、ユマリが前に出た。
「待ちたまえ。怪我人たちに無理をさせるのはかわいそうだ。とりあえず、廃水浄化の魔法でここの下水をすべて蒸発させれば問題ないだろう。後はこのトイレを使用禁止にして、タンクそのものの修理は明日以降、係の者がやればいい」
リーダー格の船員がユマリに気づき、向き直った。
「あっ……。でも、お客様のお手を煩わせるわけには……」
「ここのタンクはそんなに大きくないだろう。それに魔物も皆で退治したしな。タンクの破損も魔物の被害の一種だし、協力は惜しまないよ」
そう答えるユマリに、若い船員が言う。
「で、でも、小さいといっても下水タンクの中身は結構ありますよ。それを全て浄化して消し去るとなれば、廃水浄化の魔法に相当の威力が必要です。うちの水係二人もその魔法の習得だけでも苦労したと言ってましたし、メンテナンスでタンクを空にするときは、二人がかりでやってます。とてもお一人では……」
リーダー格の船員が若い船員を小突く。
「おい、この方を誰だと思ってるんだ。『トイレ製造会社ユマリ』、その社長の、ミザンナ・ユマリ様だぞ!」
集まっていた人々がざわめく。もちろん、リユル、ユージナ、ヴァルルシャもだ。その場の注目を集めたユマリが苦笑しながら言う。
「……まあ、そういうことだ。下水タンクの浄化は私に任せておけ」
ユマリはタンク室の前に進み出た。
「明かりをくれるか」
ユマリが言い、船員がランプを持ってくる。リユル達三人の目に、ユマリと船員の背の隙間から、タンク室内の様子が少し見える。金属の管が隣のトイレにつながっていたり、奥に金属のタンクらしきものがあるのが見える。
「……扉を動かすと余計な振動を与えてしまいそうだな。このままやるか……。というか、うちの製品じゃないじゃないか」
「あ、そ、その、お宅のは高くて」
「それだけ頑丈なんだ。うちのトイレならこれぐらいの衝撃じゃ壊れなかっただろうな。船を魔物が襲ってくるのはごく稀にしても、嵐などに見舞われることはあるだろう。買い換えることになったら検討してくれ」
「は、はい……」
恐縮する船員にそう言い、ユマリはタンク室の前で姿勢を正した。
ふーっと息を吐き、深く吸い込む。気合いを込めているのが背後からでもわかった。
「浄化!」
ユマリが両手をタンク室に向けて突き出す。水や炎のように何かが手から放たれるのではないが、見えない波動のようなものが発せられたように、リユル達は思った。ユマリはしばらく手に力を込めていたが、やがて肩の力を抜いた。
「ランプを貸してくれ」
ユマリは船員からランプを受け取り、タンク室の中を覗き込む。壊れた扉を少し動かし、手で軽くタンクを叩いた。空っぽの金属の箱を叩く、軽い音がした。
それからもう一つ音が響いた。今度は中身の詰まった金属の箱を叩くような音だった。
「上水タンクの方は特に壊れていないようだな。仮にヒビなど入っていたとしても、下水タンクほどの惨事にはならないだろう。後はきみたちに任せるよ」
ユマリはそう言ってランプを船員に手渡した。
「ありがとうございます!!」
船員たちはユマリに頭を下げる。
タンク室から離れるユマリに、一部始終を後ろから見ていたリユルが声をかけた。
「すごい! 下水タンクの水を全部消しちゃったんですか!? 一人で!?」
「まあ、職業柄、浄化の魔法を使うことには慣れているからね。長年の訓練のたまものだよ」
「先ほどの水の魔法も、私の位置から見ても威力が強いことがわかりました。それだけの魔法を使えるようになるには、とても訓練されたんでしょうね……」
リユルとヴァルルシャ、魔法使いの二人がユマリの強さを実感する。魔法の使えないユージナもユマリの強さはよくわかる。
「ていうか、社長さんだったんですね」
ユージナの言葉にユマリはうなずいた。
「ああ、別に隠していたつもりはないんだが、わざわざ言うことでもないしな。タンクが壊れる前に処理できてよかった」
「……聞いてもいいですか? 下水タンクって、どんな仕組みになってるんですか?」
リユルが尋ねる。三人で闇の中から現れたとき、中世ヨーロッパ風ファンタジー異世界でも清潔なトイレが使いたいと、各建物に上水タンクと下水タンクがある設定を考えた。しかし詳しい仕組みまでは考えていなかった。だがユマリはその製造を行う会社の社長だという。
自分たちが詳しいところまで考えなかった、タンクの仕組みについて知ることができるかもしれない……。リユルはそう思った。
「構わないよ。じゃあどこか落ち着いたところで話そうか……」
ユマリがそう言ったとき、食堂の方から声が響いた。
「おおい、食事の準備ができたぞ!」




