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逃走

作者: 若葉
掲載日:2018/04/14

日本に来て三年と八ヶ月。ろくな事ない日々だった。毎日、金と食い物の心配ばかりの日々だった。


何度かの失業を経験した。現在勤めている工場では、要領の悪い俺は毎日怒鳴られている。馬鹿だの屑だのと罵られ、下手な日本語ではろくな反発も出来ない。俯き頭を下げ、すいません、を繰り返すばかりの惨めな毎日が続く。

祖国に帰りたいと何度願っただろう。

だけど、祖国に帰ってどうする?内戦やら過激派やら、銃声と爆撃音の絶えないあの国で、仕事もなく逃げ惑いながら幼い兄弟と母を抱えてどうやって生きて行く?

今は我慢して、この日本の地で稼げる限り稼いで、出来る限りの仕送りをしなくては。其れ丈がただ俺に出来る事なのだ。


仕事が終り、町外れの狭く汚いアパートで一人、特売で買ったインスタントラーメンを食べて眠る。

寝る前のお祈りもどこか物憂い。

枕元のラジオは今日も外国の自爆テロのニュースを流している。何人もの死者が出た。自爆した犯人は本当に天国に行けたのだろうか?本当に美女に囲まれているのだろうか?

とてもじゃないがそんな事は信じられない。俺は駄目な信者なのだろうか。

俺には政治や宗教の詳しい事は判らない。でもやはり祖国を見下し苦しめるあの大きな国は悪い国なのだろう。その友達の日本は、…判らない。


ある日、俺もいつか自爆テロを起こそうと思った。いや、決意した。

工場をクビになったのだ。お前の国は悪い国だから、そんな国の人間を使っている訳にはいかない。

勤務態度がどうとか色々言われたが、要は俺が良くない国から来た外国人であるかららしかった。

当然アパートにも居られなくなった。何より家族への仕送りがもう出来なくなった。

日本は悪い国だった。

みすぼらしい身なりの俺を道行く裕福そうな日本人の誰もがちらっとみて、汚いものの様に避ける。

俺だけならまだ我慢もできる。

繰り返される蔑視に、まるで家族や祖国までを蔑まれている様に思われて、悔しく憎たらしくて、怨めしくなった。


しばらくはホームレスの暮らしが続いた。

ビルの軒下や橋の下で微かに微睡み、飲食店の裏口で野良猫や気味悪い虫に混じって残飯を漁った。


ある秋の夜、その男はふと俺の前に姿を現した。

惨めに物陰に横たわる俺の目をじっと見詰めてこう言った。

君はとても悲しい目をしているね。大変な目に遭ったんだね、解るよ。

君に是非お願いしたい事があるんだ。

そう言って小さな箱を差し出した。

意味がわからず呆然としている俺に、男は優しい声で、大事な人がいるんだろう?連絡先を教えてくれないかい?きっとその人にも満足な御礼が出来ると思うのだがね。と言った。

流石の俺にも、渡された小さな箱の意味が判りかけてきた。男が単なる善意の人でない事も。そして気が付くと、その小さな箱を受け取り、彼に大きく頷いていたのだった。


彼の車に乗り、ホテルの一室に案内された。そこでいつ以来かのシャワーを浴び、ホテル内の理髪店に連れていかれ、今度は洒落た紳士服店で立派なスリーピースのスーツを買って貰い、個室つきのレストランでよく判らないが高そうな料理をご馳走になった。

しっかりした服装にしっかりした食事。店の従業員も、皆が恭しく頭を下げる。一夜にして、魔法の様な変化が俺を飲み込んでいた。

どうして、こんなにしてくれるのですか?

俺の問い掛けに、男は鋭い眼光で此方を見ると一言、気に入ったからさ、と応えた。

この箱をどうするのです?俺は最も重要な点についてゆっくりと尋ねた。

明日、夜七時、この近くで大きなイベントがあるんだ。大勢の人が集まる。君達の嫌いな連中も沢山来る。そこに持っていって欲しいのだ。

心配はいらない。簡単さ。一夜にして君は祖国の英雄になれる。神様も褒めてくれる。私は君の家族の一生を保証する。悪い話では、ないと思うのだがね。

まぁ、君次第だがね。

今日はホテルでゆっくりと休みなさい、明日の夕方、連絡するよ、と彼は最後に言った。


俺は躊躇う訳でもなく、とても好意的にその話を受け入れていた。

仮に彼が悪魔だったとしても、構わない。

簡単な事だ。俺のような何等の取り柄もない男が大きな事を成し遂げられる。俺や祖国を見下し蔑んでいる憎いこの国の人や白い人も巻き込める。神様もきっと喜んでくれる。天国もハーレムもどうでも良い。今なら何でも出来そうだ。駄目な俺にもきっと出来る。いや、やる。

高揚感の為に、夜が酷く長く感じられた。


黄昏が青に染まる頃、俺は昨日買って貰ったスリーピースのスーツを着て、指定された通りへ向かいゆっくりと歩いていた。

もう昨日までのみすぼらしい余所者はいない。

誰も俺を冷たい目で見たりはしない。

鼻唄の一つも歌いたい位に良い気分だった。

俺の人生最後の日をこんな風に晴々と迎えられるとは思いもしなかった。

すれ違う無数の人混みの中で、鞄に積めた小箱がまるで意思を持った心臓の様にどくんどくんと脈打っているのがはっきりと伝わってきた。

ああ、俺もこいつらも、この小箱と共におさらばだ!今目の前で浮かれて笑っているこいつらは、誰もその事を知らない。

ざまをみろ。

ああなんて愉快なんだ!

こんな愉快な事が俺の惨めな人生で一度でも有っただろうか?

俺は自分でも分かるくらいに満面の笑みを浮かべていた。

どれ、最後に一服するか…。

ポケットからタバコを取り出し、コンビニの喫煙所へ向かう。

ライターがない。

何処にも無い。

部屋を出る時に、確かに持ってきた筈なのに、おかしい。肝心なところでこれだ…。俺はいつもそうだ。肝心なところでへまをしてばかりいる。

さっきまでの高揚感が、まるで風船が割れたようにあっけなく萎んで行く。

俯いて足元を見ていると、火、貸しましょうか?と声が聞こえた。

声の先を見やると、冴えない風体のくたびれた日本人の中年親父が気の弱そうな微笑を浮かべて火のついたライターを此方に差し出していた。

あ、有難うございます…。思わず頭を下げ、くわえたタバコを慌てて火に近づけた。タバコの先がほんのり赤くなり、口一杯に柔らかな煙が広がった。それは今までに無く素敵な味の紫煙だった。

有難うございました。

いやいや、どういたしまして。

日本に来て、初めて無償の親切に触れた気がした。

中年親父も微笑したまま旨そうにタバコを燻らせている。

何故なのか、ふと、涙が込み上げてくるのを抑えられなかった。

同時に悪い夢から醒めた気がした。鞄の中の小箱が今は得たいの知れない悪魔の嬰児の様に思われ、その場に放り捨てたい衝動に襲われた。

俺は、こんな気持ちの悪いものをこの手に持って運んできたのか。穢らわしさに嫌な汗が出た。

動悸がする。もう時間がない。

タバコを揉み消し中年親父に一礼すると一目散に走り出した。なるべく遠くへ、人のいない所へ。ただ其れ丈を一念に、吹き出る汗もそのままに走り続けていく。

俺は此から何をしようというのだ!判らない。何処までも続く人混みを掻き分けて走る。

やがてビルとビルの狭間の路地裏を見付けた。

やった!ここなら誰もいない。もう大丈夫だ!

息を切らし、肩で息をしながら足を緩める。ひんやりとした風が汗まみれの頬を心地よく撫でてゆく。

遠くパレードの歓声が聞こえる。

ビルの隙間から見上げる夜空がやけにきれいだった。

時計の針がゆっくりと七時を指そうとしている。

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