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第十話 欲しいのはあなただけ 追伸

 朝からカチャカチャと食器の鳴る音が部屋の外から響いていた。それとともにジュゥというフライパンの焼ける音、香ばしい香り。明るい窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。相変わらずの低血圧症で、ベッドから這い出て、ふらふらと部屋のドアノブを掴んで開く。


「朱莉さん、おはよう。ごめんね、昨日は酔っぱらっちゃった」肩をすくめて少し舌を出す美玲がキッチンに立っていた。いつもの美玲だ。いや、正確に言うと一年前の美玲の印象に近い。


「あ、おはよう……どう、きぶんは?」


「あはは、やだなぁ。朱莉さんのほうがよっぽど寝足りないって顔してるよ。もう少しでご飯出来るからさ、顔洗ってきなよ」


 なかなかに最低な顔をしていると自分でも思う。そして最低なクリスマスイヴだったと思い返す。自身の行動についての弁明に余地はなし。すべて自分が招いた結果だと洗面台に視線を落とす。


 饅頭顔の美玲の守護霊が美玲の幸福を願うという意味では、頷ける選択結果ではある。成り行きとはいえ同性の朱莉に恋い焦がれているよりかは、実る実らないにかかわらず、異性である妙玄に対しての恋心に組み替えたほうが真っ当だと判断したのだろう。


 麻邦の組んだ式が正常に作動していれば、美玲は今妙玄への恋心で胸をときめかせているのだ。無邪気にも、作られた感情だということも気づかないまま。


 そして朱莉は思う。美玲がいかに守屋直樹のことを好いていたかということを。あれほどまでに好きだった人を亡くした美玲の悲しみがどれほどだったのだろうかと。


 人の死に鈍感になっている。人の心に鈍感になっている。この現世で生きる上で見えてはいけないもの、見なくてもよいものが見えすぎている自分は、まるで人生の落伍者だ。普通に生きてゆけない。普通に人と心が交せない。


 情けなさに絶望する。


「姉ちゃん。早く出てくれよ」洗面所の背後のドアがノックされる。


「ごめん、もうちょっと待って……」


 タケルと暮らし始めて一か月弱、会話はそれほど多くはないが、おおむねいい関係を築けている。表向きは朱莉の弟だということにしているが、タケルもそこは心得たもので、その設定には特に異論をはさまなかった。無論それほど紹介する相手がいるわけでもないので、トラブルらしいことも今までなかった。


 トーコの話によると、朱莉が仕事で出ている間は、ミケランジェロを連れて印条寺に遊びに行くのが日課なのだという。向こうで何をしているのか仔細を教えてくれることはないのだが、本人は楽しそうに暮らしているように見える。


「もう、朝はみんな忙しいんだから占領するなよな」と朱莉と入れ替わりにタケルが洗面所に入る。


 ダイニングに戻るとテーブルにはきれいに三人分の朝食が配膳されていた。いや、トーコの分の小さな食器セットも含めれば四人分。


(シュリ様、おいしそうですよ。美玲さんご飯作るのすっごく手際いいんですよ。あ、それからですね、魔法王国の設定はもう無しになりましたから。タケル君が説明しておきました)


 この異常な状況を受け入れることのできる美玲の寛容さに驚いた。言葉はなくとも表向き美玲はトーコを普通に受け入れているように見える。


「さ、朱莉さん座って」


「う、うん……あ、あの――」


「――朱莉さん、いいなぁ……」


「な……に?」


「なんだかぁ、朱莉さんの家族って変わってるけど、いい家族ねって思ったの」


「あ、あ……はは、だいぶ、変わってるとは思うけど……一応内緒にしておいてね」


「うん? 私には難しいことわからないけど、さ。朱莉さんうらやましい。素敵な彼氏もいるし、こうして朝食を一緒に食べられる家族がいてさ――いいなぁ」


「えっと……あれは彼氏じゃなくて」タケルはどこをどう説明したのだろう、麻邦のことを言っているのだろうか。


「なんか、わざわざ来てもらったのに悪いね、朝食まで作ってもらって……」


「ううん、いいの。久しぶりだったし楽しかった。出勤はフレックスだけど、最近はほとんど夜中までいるし、休みもほとんどとれないし、まあいわゆる世間でいうブラック企業ってやつ?」


 何でもないという風にアハハと笑いながら、「でもそれなりのお給金は貰ってるから誰も文句なんて言わないしね」とその顔に悲壮感はまるでない。むしろすがすがしく、仕事にやりがいを感じている者の顔である。


 美玲は時計を仰ぎ見て、「昨日の分の仕事たまってるだろうなぁ。朱莉さんも今日は仕事でしょ?」と席を立ち、美玲はスーツの上着を羽織る。


 朱莉は出勤までにはまだ時間はあるからと、自分の支度は後回しにしてタケルとトーコを連れて、美玲の見送りにエントランスまで降りる。


「こんなんじゃ、当分彼氏なんてできないだろうけど、今は仕事が恋人って感じ」とマンションのエントランスを出がけにピッと張りのあるピースサインを朱莉に向ける。その美玲の言葉に、朱莉はキョトンとしてタケルとトーコをみやる。二人は微笑みながら美玲に手を振っている。


「あ、そうだ朱莉さん、駅前のお花屋さんってこの時間やってるかな? 東京には朝のうちに戻ろうかと思ったんだけど、やっぱりお参りしていかなきゃね」


「お花屋さん? ん、ああ……石嶺園芸さんならたぶん……えと、も、守屋君、の?」


「うん……」美玲は自分に言い聞かせるように僅かに頷いた。その視線の先の手にはきらりと光る物があった。


 この一言で守屋のことが美玲の記憶に戻っているということが分かる。彼女はこの一年間、朱莉のことを疑似的に恋人と錯覚し、愛しい人を失った痛ましい事故のことを忘れていたはずなのだ。それが戻っているということはつまり……。


「トーコちゃんもタケル君もありがとうね! また今度来るときケーキ買ってくるからね! じゃあね!」バス停に向かって駆けてゆく美鈴は途中で振り向き、はじけるような笑顔で朱莉たちに向かって大きく手を振る。


「ねぇタケル、美玲ちゃん指輪なんてしてたっけ?」


「ほんの、ケーキのお返し――僕が思縁法鼎式を結晶化したものだよ。姉ちゃんたちがつまんないことでもめてるから」


「思縁式を結晶化……?」


「行き場のない思念おもいなんてのは雑霊にしかならないからね、ああしておけば指輪が自ら彼女のもとから離れることもないし――もっとも、結晶化できるほど結合力の強い想いなんてそうそうないけどね――彼女はいずれあの指輪をかつての彼氏との思い出として認識している。僕が生成したなんてことはもとより気づきもしていないし、昨日ここにきて起きた不思議なことも、昼ご飯を食べるころにば夢みたいに忘れちゃってるよ」


 こともなげにタケルは言うと羽織ってたパーカーのポケットに手を突っ込んで踵を返す。


「タケルぅ……あ、ありがとうぉおお! さすが神ぃいい!」朱莉はその男前すぎるタケルの背中にすがった。


「なんだよ、離せよ、恥ずかしいなあ。――ちなみに、妙玄とのことは姉ちゃんのほうで何とかしなよ、そこまでは面倒見きらんからな!」タケルは無理やり朱莉を引きはがすと、エレベーターに駆けながら言い放つ。


「えっええ! そっちもなんとかしてよ!」


「うるっさい」


「樋井大明神さまぁああ! ケーキ買ってくるからさぁ!」


「神を食い物で釣るな! それにそれは姉ちゃんのツケだから、自分で解消してゆかないと意味ねぇの!」


 タケルは朱莉を待たずに、エレベーターのドアを閉めて行ってしまった。


「朝から元気だねぇ」ロビーで立ち尽くす朱莉の背後から声をかけて来たのは、管理人の初老の男性だった。さっきの醜態を見られたかと思うと、バツが悪くまともに顔を見ることが出来なかった。


「あ、おはようございます……すいません、朝から騒がしくて……」


「いやいや、ともあれ元気なのはいいことだよ、あんたが来てくれていい流れが出来とるよ」


 この管理人の男性とは今までそれほど会話したことがなかったが、疎まれているわけでないことが分かり、朱莉は顔を上げて会釈をし笑顔を向けた。やや、わずかに、気のせいのような違和感を感じながら。





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