第十話 欲しいのはあなただけ 5
目の前の食欲にそれどころではないトーコは(ケェーキ! ケーキ!)とテーブルの上で飛び跳ね、紙袋の中を覗き込む。
(ようこそいらっしゃいました! こんばんはケーキさん! やっほー……ありゃ?)覗き込んだその中の箱は、コンビニのロゴが書かれたケーキの箱である。
「ごめんトーコ、陽窯軒のケーキ売り切れちゃってさぁ……」
(えええええ! ひどいひどい! 約束したのにぃ!)
(しゃあないでしょ! 人気なんだから)
トーコは目に涙を浮かべポカポカと朱莉の肩を叩く。
「あの、朱莉さん。私もケーキ買って来たんです、よかったら……」と美玲は傍らの紙袋からケーキの箱を取り出す。
トーコの背中をつまみ上げつつ、そのかつて見た薄茶色の箱に目を丸くする。
「よっ、陽窯軒!」
「えへへ、去年と同じく最後の一つだったんだよ、本店まで走って買いに行ったんだ。店長とは会えなくて残念だったけど」
朱莉が手に入れそびれた最後の一個は美玲が買っていったのだ。それみたことか、あたしはやっぱり行いがいい、とここにはいない鞠に向けて舌を出した。
「あの鬼瓦なんて見てもなんの役得にならないよぉ、それよりケーキっしょ!」朱莉の心の内で巨大なガッツポーズが立ち上がっていた。
「そのケーキ作ってるのが鬼瓦さんだけどねぇ」
「だよねぇー、あ。美玲ちゃんスパークリングワイン、呑んで呑んで!」
とりあえずはこの状況なら貞操の危機は脱したとみた。しかし、さっきから変わらず美玲の背後の"彼"から厳しい視線が飛び続けてきている。
しかも麻邦ともあろう韻枢師が、彼の作る守護結界により美玲に分解式をかけることができないでいる。背後でそんな攻防が繰り広げられているとは知らず、美玲はマガジンラックに仕舞われていた雑誌を手に取る。
「あっ、この雑誌の編集、私やってるんだ! これ、このページ『食彩の匠』、陽窯軒のことも紹介したんだよ!」
「へっ、へぇえええ。そうなんだ!」一か月前に買った雑誌だが、ちゃんと中まで見ていなかった。巻頭グラビアの桐原耕哉だけが目当てだっただけだからだ。美玲の担当するページは、全国で五十年以上飲食店を経営する、時代に埋もれた名店を掘り起こし紹介するという、見開き二ページの年間企画のようだ。たしかに、厳つい鬼瓦宗二郎が仁王立ちで店の前に立っている写真が掲載されていた。その傍らには妻の文江、その両脇を娘の静江ともう一人、静江と歳の変わらなさそうな、背の高い白人男性がコックコートを纏い笑顔で立っている。
「静江さんフランスの洋菓子職人の方と結婚してね、今は四人で陽窯軒をやってるんだって。アルバイトも増やして、売り上げも徐々にだけど上がってきたって」
「へええ? よくもまあ、あの鬼瓦が許したもんだね」
「あはは、色々悶着もあったみたいだけどね、結局は店長も娘の親なんだよねー」美玲は言いながら慣れた手つきでケーキを切り分ける。
「ああ! 美玲ちゃん自分だけ大きいじゃん、ずるーい!」朱莉は努めて意識しないよう、とにかく明るく振舞いつつ(まりさーん、まりさーん)と小声で念話を飛ばし続けていた。対守護霊戦略となれば、霊格の高い鞠に話をつけてもらうほうが真っ当だ。だが鞠が姿を現す気配はない。
同時に(セバスチャン! さっさと式の組み換えをやって美少女の心をゲットするのよ! 後ろの饅頭なんて吹っ飛ばしなさい!)と麻邦にはっぱをかける。
(朱莉さん、なにか勘違いなされてるのでは……)
(何めんどくさいことしてるんだよ……)ずっと黙ってソファにもたれかかっていたタケルが薄目をあけて起き上がる。
「あのぉ殿下。魔法王国の王子様なら魔法も使えるんですよね?」美玲は一緒に持ってきたスパークリングワインで程よく酔っていた。酒には強くないことはリサーチ済みである。
「え、あー。魔法、かぁ……じゃあこういうのではどう?」
タケルはテーブル上のフォークを宙に浮かせる。
「わっ、わああ! すごいすごい!」
気をよくしたのかタケルは珍しく眉をあげ、さらにフォークをぐにゃぐにゃと曲げて人形を作るとテーブルの上でダンスを踊らせる。
「さっ、すが……神」よく考えたら麻邦に頼るまでもなく、タケルに言えば美玲の記憶を消去するなり、美玲をどこかに飛ばしてしまうなり、なんだって出来たのではないだろうかと、神を利用した邪な考えを募らせる。無論タケルが素直にそれに応じればの話だが。
(あー、またなんか悪いこと考えてますね、シュリ様。てゆーか、このお芝居いつまで続けるんですか?)トーコは時計をちらちらと気にしている。
ミケランジェロは興味を失い、ファンヒーターの前で寝転がっている。
美玲の背後ではセバスチャンと岩石オヤジが正座して向かいあっている。
ともあれ、このまま夜が更ければ、貞操の危機は乗り越えられる。今回で解消できないのは癪だが、朱莉は気づかれないようほっと息を吐き、フォークを手に取り切り分けられたケーキへと手を伸ばす。
そこへ部屋のチャイムが鳴る。
トーコが待ち構えていた犬のように首をのばし立ち上がる。
「なあによ、トーコ! こんな時間に誰か来るの?」
朱莉の問いかけにトーコは返さず玄関へと飛ぶ。もうこれ以上の来客で場が混乱するのは勘弁だと思いつつ、ケーキを口に含んだその瞬間だ。
「おお、わりぃ。遅くなった。ライブが長引いてよぉ」
声に振りかえると、そこにはギターケースを担いだ妙玄が立っている。
「げっ、なんで? なんで妙玄ふぁん? えっ、えっえええ!」
「口にものを入れたまま喋るなって!」妙玄は顔をしかめて朱莉を払うような動作をする。
「トーコ! 聞いてないわよ!」
(もお、シュリ様だってお友達連れてくるなんてわたし聞いてませんでしたよっ、おまけにこんな小芝居までさせて……おかげで台無しですよ)
「――台無しぃ……なにが?」
トーコは朱莉の問いかけに応えることなく、プイと妙玄のほうを向く。
「っおお、陽窯軒じゃねぇか!」妙玄はトーコの視線をスルーしてケーキへと食いつく。
(妙玄さんの分もちゃんとありますよ! どうぞー)とトーコがケーキの皿を差し出し(あ、そうそう、ケーキはこちらの戸田美玲さんが差し入れてくださったんですよ。きいてくださいよ、シュリ様なんて時間がなかったとか言って、コンビニでかるーく済ませちゃおうなんて考えてたんですよ。前から頼んでるんだから予約しとくなんて大人の常識ですよね)
トーコはあからさまに妙玄の前で、朱莉の評価を引き下げるような言い回しをする。前から頼まれたわけじゃなくて、今朝思いついたんだろうが、そもそもあそこは予約とか受付してねぇし、と眉根を寄せる。
「はは、そりゃねぇよなぁ」
「こ、コンビニケーキだって最近はレベル高いのよ!」
どう取り繕ってみたところで、自分の怠慢を優先して家族をないがしろにしたのは事実だ。
「で、麻邦さんは何やってんだ、さっきからぶつぶつ言いながら座っているが?」妙玄は美玲の背後で正座をしている麻邦に目をやる。
「――あ、ああ、あれは……美玲ちゃんに悪いものが憑いてるから祓うって……」
妙玄は「ふうん」、と目を細め美玲の背後を見るそぶりをしたが、霊視能力のない妙玄の目にはなにも見えない。
「朱莉さん? 何ですか私に悪いものが憑いてるって……」美玲が不安な顔を隠さずに、すがってくる。
「いっ、いや! なんでもない!」妙玄に対して念話で話すことを忘れていた。美玲の不安はそれだけではない、その視線はちらちらと妙玄へと向けられている。
「朱莉さん……わたし、信じていいんですよね?」密やかに、朱莉の耳元で囁く美玲の声は、締めた蛇口から洗い桶に滴る水滴のように、胸の内に波紋を広げる。
「大丈夫! なんでもないから! 安心して!」あわてて美玲の両手をとり、彼女の膝の上へと戻しつつ、麻邦の動向を見やる。
麻邦は相変わらず岩石オヤジと向かい合っているが、時折和やかな雰囲気が垣間見れる。指向性念話のため、朱莉から内容は聞き取ることはできないが、どうやら穏便に話が進んでいるようである。ことを荒立てなくて済むならばそれはそれで懸念は一つ減る。グッジョブだ、セバスチャン。と朱莉は心中で頷く。
(どーぞ、妙玄さん。今日は飲んでくださいねぇ)とトーコが妙玄のグラスにワインをなみなみと注ぐ。
(トーコ、何考えてるのよ? わざわざ妙玄さん呼ぶとか)妙玄には聞かれないよう、トーコに指向性念話で問いかける。それに対しトーコは(別にぃ、普段お世話になってるんだからいいじゃないですか)とこともなげに言う。
別に悪くはないが、なんというか、調子が狂う。
「朱莉さぁん、私なんだか酔っちゃいましたぁ」と朱莉にしなだれかかってくる美玲ではあるが、このシチュエーションならば何ら問題はない。
「あっ、じゃあ、奥の部屋で休んでなよ、ね?」と指を指すのはタケルの部屋の方である。
「おい、姉ちゃん。そっちは俺の部屋だろ」と、演技も忘れてタケルが抗議する。
「え、お姉ちゃん?」と美玲。
「ああああああっ! 殿下は世を忍ぶ仮の姿として、あたしの弟という設定で――」
「殿下? 設定ってなんだ?」と妙玄。
「え、朱莉さん一人っ子だよね?」と美玲。
「っああ! これは――ほら、あれだ、タケルにはあたしのことをお姉さんって呼ばせるようにしてるわけで……」
「なんだそりゃ……」妙玄はグラウのワインを一気にあおり、深い深いため息をついた。
「あっはは……察してくださいぃ」
思考が混濁し、見上げた天井のダウンライトに目がくらんで、気を失いそうだった。
妙玄はあからさまに不機嫌な顔を作り、人差し指で眉間を押さえて「……お前さ、サイテーだな――わりぃ、トーコちゃん。せっかく呼んでもらったんだがよ、俺帰るわ」と言うと腰を上げる。
「ちょっと妙玄さん!」
(そんな、妙玄さん!)
「まってゲンちゃん!」
「え?」と恵はトーコと顔を見合わせ、互いに自分の発言を確認して、フルフルと首を横に振る。そして傍らから立ち上がった人影を仰ぎ見た刹那、驚愕する。
火照った顔の美玲が妙玄の胴に両腕を回し、全身を預けるようにして抱き付いていた。




