10 鬼瓦宗二郎 All I want for Christmas is you
クリスマスセール三日目にして仕込みの材料がなくなった。まさかの事態であった。昨晩の内に午前中販売分は確保していたが、ショッピングモールの特設売り場に出す分がない。陽窯軒店主の鬼瓦宗二郎はまだ日が昇りきらない早朝から市場に走り、妻と手分けして業者にあたった。
これまで何十年とクリスマス時期にケーキを売ってきて、これほどまでに売れたことはなかった。だから体に染みついた感覚で材料の発注をし、いつも通りの作業でケーキを焼いていた。
ところが今年はいつになく、店頭の方がやけに騒がしい。二十四日ならまだしも、まだクリスマスの三日も前だ。
工房の方からちらと覗いてみれば、なんと狭い店内が人で埋め尽くされているではないか。クリスマスの時期はケーキ作りに専念するため、日持ちのする洋菓子だけをあらかじめ作って置くのだが、それらをも取り合うようにして客が買い漁っている。
こんな事は今までに一度もなかった。妻の文江もあまりの客の多さに混乱して、たびたびレジを打ち間違える。
娘の静江はどこへ行ったのかと視線を巡らせてみれば、店の外側で何やら叫んでいる。驚いたことに、店の外の歩道には行列が出来ているのである。静江はそれを収めつつ、歩行者や隣の店舗に頭を下げている。
「なんてこった……こりゃ夢か?」おもわず独りごちた鬼瓦は、店頭へとふらふら出てしまう。
「――あなた」小声で文江が奥に引っ込むように、カウンターの下で鬼瓦のことを掌で払っている。
「あ、ああ」と踏み出しかけた足を工房へと下げる。
別に名前が寄与している訳ではないだろうが、代々鬼瓦家の男は鬼顔に生まれる。角さえ生えていないが、大抵自分と対面した人はおびえた表情を見せ、見てはいけないものを見たかのようにそそくさとその場を去る。子供なら間違いなく本能的に泣く。鬼瓦家の親戚が一堂集まって初詣にでも行こうものなら、地元のヤクザが道を開ける始末である。
鬼瓦家は明治のころまで『鬼師』という棟瓦の端部に取りつける装飾用の役瓦を作る職人だった。
鬼瓦と一口に言っても、その全てが鬼を模したものとは限らず、蓮や鳳凰、龍や家紋をあしらったり、めでたい福神をかたどったものなどさまざまである。これらのルーツは中東の建築物に端を発すると言われており、軒の装飾として角端部の仕舞を美麗に見せる技術が、瓦文化に取り入れられたものだ。
そういった中で、西洋などでもしばしば軒にガーゴイルやメドゥーサ、キメラなど魔物が彫刻されているのは、毒をもって毒を制する魔よけの意味があるとも言われており、この文化がシルクロードを伝い鬼の面を模した鬼瓦に転じたとも言われている。
巨大な建築物を建造するために多くの労力を要した時代は、それそのものが土地を象徴するランドマークとなることが多い。――もっとも太古の巨大建造物の多くは寺院や教会などがほとんどなのだが――そのため人々の想いや意識が集まりやすく、建築物そのものに霊性や神性を求めるところがあるのは、洋の東西を問わずなのだろう。
伝統的な日本建築や寺社の瓦屋根にはなくてはならない鬼瓦だが、時代が下るにつれ、瓦ぶきの屋根は減少し、昨今では瓦職人や鬼師のような仕事もすっかりなりを潜めている。そういったことを予測していたのか鬼瓦の祖父は早々に職掌を換え、洋菓子作りの職人へと身を転じた。この華麗なる転身というべきか、祖父の代に何があったのかは知る由もないが、ともかくそれ以来鬼瓦一家は洋菓子職人の血筋となった。
工房の鬼門方位にあたる天上に近い角には、神棚よろしく祖父が最後に彫った鬼瓦が掲げてある。鬼瓦はこれに向かって毎朝手を合わせていた。これは屋根に据えられる瓦に込められた呪術的な意味というよりも、もっと単純なものだった。
信仰とは人それぞれである。ただ大事なのは何を祀るかではなく、それを祀る者が何を思うかである。神というものがあったにせよ、それが人を助けるものではないということ、神頼みなど、人の手でなす術がなくなった時に初めて、ダメもとでなされるまじないの様なものであること、そうでなくては人は強くは生きてはゆけない。
鬼瓦は常々そう思い続けて店を切り盛りしてきた。
さすがに昨年度は右肩下がりを続けてきた売り上げが地の底について、いよいよ店を閉めることも覚悟した。ここ十年で駅前の開発も進んで地価が上がったせいで、店の家賃も上がったことも痛手だ。娘も嫁に行く、後は年金と貯めた貯金で二人が食つなぐくらいは何とかなるだろうと。だが、一人の少女の言葉が、弱気に囚われた考えを払しょくさせた。
大学在学中の四年間ずっと陽窯軒のアルバイトとして働いていた戸田美玲だ。彼女は二年前、クリスマス・イヴの夜、目の前で起きた交通事故で彼を亡くした。
あの時はきっとショックでここも辞めてしまうだろうと誰もが思っていた。だが彼女は気丈にも、葬儀が終わってすぐにアルバイトに出てきた。
よく働き、気が利いて、客受けもいい彼女のことを知らないものはこの界隈ではいない。そんな彼女を必要以上に慮るのは、かえって傷をえぐるようなものだと誰もが無理を押してでも、普通を装った。そしていつものように、今までと同じように、大学四年生になっても彼女は笑顔で店頭に立ち続けた。
「私は陽窯軒が好きなんです。お給料は出世払いでいいですよ」などと笑顔で言われてさすがに、ふざけんじゃねぇと、怒鳴ったものだが、娘のように慣れ親しんだ彼女なりの檄である。
あと一年、あと一年頑張ってみようと折りそうな膝を立て続けられたのは、時折陰りを見せながらも揚々と働く、彼女の頑張りに応えなければいけないという思いもあった。
そしていよいよ就職を目前に控えた美鈴は、三月の卒業式のすぐ後、目見麗しい袴姿で店に来てこう言った。
「店長! 次のクリスマスにはここに行列作ってみせますから!」と屈託のない笑顔で言ってきたのだ。
たしかに“ウチの味を知らねぇ奴にとやかく言われたくねぇ”と、こっちの事情も知らず不躾に広告をうたないか、などと営業をかけてくる輩を追い払ってきた。もっとも広告料を支払う余裕もなかったのは事実なのだが。
インターネット上のSNSや雑誌などで、取り上げられたりするほどの知名度はないに等しく、洒落たサービスも飾り付けもできない不器用さは今更どうすることもできず、こじんまりと旧来の客だけを相手にしてきた。
「なんでぇ、おめぇがか?」
「陽窯軒の味を知っている私だからこそ、です」
やけに自信満々だが、鬼瓦はそれに気づかされた。その目、キラキラしてて未来を夢見ている眼。
店を始めた時はあなたもそうでしたよと、妻の文江に言われたのも効いた。
「美玲ちゃん、あんなことがあったのに、去年もずっとうちで働いてくれて。それだけじゃなくって応援してくれるだなんて――」
文江にそこまで言われるまでもなかった。
「バカやろ、一から百まで言わねぇと解らねぇほど盆暗じゃねぇや。一年と言わず、五年でも十年でも続けてやらぁ」
市場からの帰り道、ステーションワゴンの荷室に材料を積み込み、運転席に乗り込む。チラと助手席の雑誌を視界に入れて舌打ちする。
「まったく、余計なことしやがって。おかげで忙しいじゃねぇか……」
ウィンカーを出しながらステアリングホイールを大きく回して、朝焼けの街道へと車を発進させる鬼瓦の顔は、差し込むオレンジ色の光に照らされて、険しく歪んだ。
おそらく誰が見ても機嫌が悪いようにしか見えなかっだろうが、密やかに彼は彼なりに微笑みをたたえていた。




