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第一話 ようこそホテル・カリフォルニアへ 6

 着替えてくるという飛騨に目もくれず、朱莉は引き寄せられるように葬儀式場へと立ち入っていた。数名の若者が前のほうの席に座って祭壇を眺めている。


 通夜の間は線香を絶やさないというのが大体どこの宗派でもある慣例である。所説は紛々といったところだが、この線香の番と称して親族の若手が明日の朝まで寝ずの番をするらしい。


 朱莉は彼らに気取られないよう、式場の後ろの入口に立っていた。


 いた。


 まだそれほど老いてもいない。


 故人の意識が棺のそばに佇んでいる。


 番人の彼らは故人の息子たちだろうか。三人とも二十代くらいで喪服の上着を脱いでくつろいでいる様子だ。時に静かな笑い声すら聞こえる。故人を偲んであれこれと積もる話がなされているのだろう。


 彼らの父親は彼らの正面に立って、柔らかな笑みを浮かべて佇んでいる。時に一人一人の顔を眺めるように腰を落とし、自身を祀る祭壇を腰に手を当て眺め、物珍しそうに棺に収まる自分の体を確かめる。


 肉体と意識が離れた状態、それはまだ霊ではなく人である。


 ただ、外側からは感知されることはない。だから自分が死んだということが受け入れられない人も多いという。


 だが目の前の故人は自身の死期を明確に受け取り、状況が把握できているものと見える。他に霊はいるだろうかと式場内を見渡していると、


(ここの人ですか?)


 朱莉の頭の中に言葉が響いた。やさしく落ち着いた中年男性の声色。一瞬“認識された”ことに苦々しい思いを広げる。関わろうと思っていなかった。彼らの状況に心を奪われ、無防備でいすぎたのだ。


 仕方がない。朱莉は声に出さずに彼の意識と波長を合わせる。


(このたびは、ご……)いや、当の本人にご愁傷さま、というのはふさわしいのだろうかと、頭を軽く下げながら言いよどむ。


(はは、いいですよ。ほう、死ぬとこういう感じなのですね。あなたには私の姿が見えているのですね)


(はい、ええ……)


 あまりにあっけらかんとした、すがすがしいまでの口調に言葉を失う。


 中年男性はロマンスグレーの頭を掻き、スーツを身にまとっている。よくある遺体に着せる白装束ではない。


(これね、私がイタリアで誂えたスーツなんです。私が死ぬときは着せてほしいって頼んでおいたんですよ。だって一度しか着ていないんですから、もったいないでしょ?)


 朱莉はその茶目っ気のある口調にクスリとする。


(あちらは息子さんたちですか?)


(ええ、真一と和樹と、あいつらのいとこの智也です。私の兄にもあいつらにもずいぶん苦労かけてしまいました。和樹が生まれて間もなく母親を亡くしましたから)


(お父様おひとりでお育てになられたんですね)


(大変でした、って自分で言っちゃいますけど。正直走りづめだったなぁ、がむしゃらに仕事して、夜遅く家に帰って次の日の朝ごはんを用意して、昼に戻って晩御飯を作って。あいつらがいっぱしにできるまでは、何一つ自分のことなんて出来なかった)


 いつの間にか朱莉の目の前にまで来ていた男性は、息子たちを見つめて目を細めた。祭壇前の三人の間で哄笑が沸き起こる。


(仲がいいんですね)


(前はそうでもなかったんですよ。私の体が悪くなるまではろくに口もききませんでした。互いに警戒して自分のことは一切話さない、干渉もしない。ただでさえ察しの悪い性質ですし、どうも男所帯ってのはよくありません。再婚の話もあったんですがね……おっと、見ず知らずのあなたにこんなことを言うのはおかしいですね)


 胸に熱いものがこみ上げ、涙があふれそうになった。


(でもね、嬉しかったんですよ。体を悪くする前に家族で旅行に行きました、その時に二人がプレゼントしてくれたんです。親父はスーツが一番よく似合うからって。考えてみたら彼らは私のスーツ姿しか見たことがないんですよね。働きすぎて、もう息子たちが自立したら休んでもよかったんですけど、働き癖っていうんですか? 

人生の大半を仕事で埋め尽くした私には趣味も何もなかった。で、仕事を引退したらしたですぐに体調壊しましてね。検査の結果末期のガンだと宣告されました。ただあいつらが巣立ってくれることだけが私の幸福だった。欲を言えばあいつらの嫁を見てみたかったな)


 朱莉はあふれる涙を止めることができなかった。わなわなと震える顔面の筋肉を必死でこらえようとしていた。それとは逆に穏やかなほほえみを浮かべる男性はそっと朱莉の肩に手を置いた。


 触覚はない、しかしその温かみだけは伝わる。


(いいえ、ご立派だと、思います)


(そうかなぁ、立派な父親でいられたんだろうか。ついに最後まで訊けなかったな。俺はできていたのかって、お前ら満足できたかって、ね)


 ハンカチを取り出す間もなくぼろぼろとこぼれてくる涙を、子供のように両手で拭うしかなかった。


(ありがとう、話を聞いてくれて)


 男性は白い歯を見せて、健康的な笑顔を浮かべた。体はがっちりとしており、肩の広さと胸の張りは、洗練されたスーツのデザインと相まって、猪口武雄という人生を全うしてきた男の証を体現していた。


 朱莉は次にかける言葉を見失い、ただフルフルと首を横に振った。


 洟をすする音に気付いて祭壇前の彼らが朱莉のことを見つめていた。


「どうか……しましたか?」心配そうな口調で問いかけるのは猪口家の長男真一だ。まだ若く社会人として軌道に乗り始めたころだろう。その顔には父親の面影がにじみ出てきている。


 隣で内ポケットをまさぐるその弟、和樹。しかしハンカチを用意していなかったことに気付きばつが悪そうな顔を浮かべる。


 それを横目で見て笑い、彼の背中をたたいて朱莉のほうに歩み寄ってくるのが一番年上の、いとこの智也だ。


「すみません。こいつら朴念仁で。男所帯で育つと何かと気が付かないもんで」ハンカチを取り出し、優しく笑いかけてくる。


「こちらこそすみません……皆さんの姿を見ているとなんだか泣けてきて……だめですね」


「いいえ、人が人の悲しみを労わるのに立場なんて関係ありませんよ。明日はよい葬儀になるよう、叔父が安心できるよう、しっかり務めます。足りない部分のサポートは是非よろしくお願いします。明日もお世話になります」


 そういって智也は深々と頭を下げ、続いて背後で二人の兄弟もあわてて頭を下げた。


 朱莉もそれに応じ頭を下げると、いつの間にか着替えを終えて戻ってきていた飛騨が、隣で足をそろえてお辞儀をしていた。


 式場を出る間際、朱莉は棺の上に座って手を振る猪口雅夫に、誰にも気づかれないよう手を軽く振った。





「ははっ、ひどい顔やな、メイク落としてきたら?」


 一旦事務所まで戻ってから、飛騨に洗顔料を手渡された。鞠に指南してもらったメイクはドロドロにくずれて、か弱い素顔が露わになりかけていた。初日からなんてかっこ悪いんだろうと思いながら、さっきのやり取りを思い返し、葬儀場という場所を忌み嫌っていた自分を少したしなめる。


 トイレの洗面所で素顔の自分の顔を鏡に映し、思い出したように背後に意識を向ける。


「ねえ、鞠さん……いないの?」


(っああ、くらくらするわぁ……)と顔をしかめた鞠がゆがんだ空間から姿を現した。


 鞠は朱莉の肩にもたれかかるようにして、その言葉とは裏腹にずいぶんと血色のいい顔をしていた。


「もう、昼間に呼んだのに出てきてくれないし、成仏したのかと思ったよ」


(んふ、ばかねぇ、私はとっくに成仏して上級霊になっているから、あなたの背中に居られるのよ? ま、正確にはちょっと違うけどぉ)


 別に正確な答えなど求めていないが、鞠が消えてしまったのでないと判って安心した。


「どこ行ってたの?」


(いやあ、はは。お線香は私たちにとってはお酒みたいなもんなのねぇ。朱莉たんのそばに居たらあまりに縁がないから、久しぶりに吸いすぎちゃったぁ)


「いや……そうなの? っていうか鞠さん酔ってる?」


(やぁねぇ。んなことねえすよ!)


「酔ってるじゃない!」


 思わず朱莉は鏡に向かって食い入るように叫んでいた。だが背後に鞠のものではない人影を見て戦慄する。


「な、なあ……周防さん?」背後から戸惑うような別の声がして、鏡越しの鞠が消える。そして鏡には飛騨の怪訝な顔が映っていた。


「……ひ、ださん」


「だっ、誰かと、話してた?」


目をまんまるにして鏡をのぞき込む飛騨を横目に、ハンドタオルで顔を拭くふりをして沈黙を貫くしかなかった。たとえ変な子だと思われようと。


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