8 緋埜伊之尊 Ain't no Mountain High Enough
笠鷺市の前身である笠佐木町は、海岸に面した南側を除く三方に山地を控えた、なだらかな稜線が海岸に向かって伸びる扇状地に広がっていた。
山と海が近く、こじんまりとした土地の東西を旧街道が貫いており、江戸時代までは宿場町としてずいぶん栄えたと言われているが、都市というほどの規模にはならず、昭和八年の時点ですら、点在する寺社を拠点に集落が栄えているといった様子にとどまっている。
背後に控える山麓から風がよく吹く温暖な気候は、農産物に豊かな実りをもたらし、穏やかな海では海産物の収穫が盛んだった。
この笠佐木町の北部丘陵地とは別に独立した、ちょうど扇状地を割るような形でぽんとそこにある特別な山が樋井山である。標高にしてみれば百メートルあまりという低山で、頂上部は水平に切り取られたように、綺麗に盆上になっている変わった山で、古くから笠佐木の霊山として村人に崇められていた。年に一度の祭りなども粛々と執り行われる、地元では大切にされてきた聖域であった。
しかし、明治末期に内務省神社局主導による神社合祀政策がすすめられた結果、集落単位に点在する小規模かつ由来の知れない祭礼習俗といったものはことごとく排除されてゆき、社殿や社、祠は取り壊され、地域に新たに建てられた社殿へと合祀された。
笠佐木村の祭神であった『緋埜伊之尊』もその例にもれず、半ば強制的にご神体を麓の八幡宮へと移された。
これは明治政府が国家神道を推し進めるため、神社の数を減らし、一社に集中させることで経費の削減とともに、設備、財産、威厳といったものを保たせ、国民に神道教化、すなわち天皇家への求心力を強めさせるための、極めて政治的な意図があった。
これ以降、樋井山山頂は緋埜伊之尊を祀っていた社殿の遺構だけが残ることになり、跡地となった台地状の広場は子供たちの格好の遊び場となっていた。
いつも樋井山の頂にある大銀杏を訪れる五人の少年たちは、着物の裾をまくりあげて無邪気に野山を駆け回っていた。鬼ごっこやかくれんぼ、相撲ではだれが一番強いのか、木登りは誰が一番高く登れるのかを競い合い、小川で小指のような魚を獲って喜んだり、蛇の尻尾を掴んで振り回したり、田んぼに飛び込んで泥だらけになったり、畑からスイカをかっぱらってみんなで分け合ったり、それでも腹が減った時は山の実を摘んだりもした。
子供が遊ぶためのおもちゃやゲームなどのない時代だ、彼らはそこいらにあるものと自分たちの身体を使って次々と遊びを作り出していた。
「へへっ、今日は学校からバラ板かっぱらってきたぜ!」
「おお、さすが寛治! 俺はロープもってきたぜ!」
「俺は釘もってきた!」
背の高い寛治という十歳の少年は、彼らのリーダー格だった。何かを始めるときはいつでも寛治の一声から始まる。ただ背が高いから、というだけではなく、寛治には度胸と統率力というものがあった。
それを取り巻くのが声の大きな六郎と少し太り気味の兵太郎、洋装で眼鏡をかけている喜助、そしてもう一人、歳のころからしても背が低いと思われる坊主頭の観吉が居た。
毎日ここを訪れ、散々はしゃいで帰ってゆくのだから、嫌でも特徴と名前を覚えるものだ。六郎は喧嘩っ早いが頭がいい。兵太郎は生き物を捕まえるのが上手で、生き物のことをよく知っている。喜助は手先が器用で、道具を扱える。観吉は体が一番小さいにもかかわらず相撲が強く、木登りがめっぽううまい。それぞれ得意なことがあり、それぞれがそれぞれに心地よい依存関係にある。そんな彼らがまたぞろ揃いもそろって道具や材料らしきものを携え、木の下に集まって何やらを企んでいる。
その大銀杏の枝に腰かけ、騒ぎ立ててる少年たちを見下ろす童子がいた。
(ち、またガキが来た、うるっせぇなぁ……)彼は不満げにつぶやくとおもむろに立ち上がり、腰かけていた枝を踏み台にして器用に飛び上がり、逃げるように枝を伝ってさらに上へと登る。
童子の見た目の年の頃は彼らとそう変わらないが、“彼”の姿が見える者からすれば、その違いは一目瞭然である。
切れ長の目の中に黒々と輝く瞳、坊主頭の観吉らからすると女の子のようにさらさらとした綺麗なおかっぱの黒髪。そして一風変わった装束、『水干』という平安時代の白い着物を身にまとっていた。
どうせ関わり合いになることもないのだが、童子は一人には慣れていたから、騒がしいのはごめんだった。さらに枝から枝に飛びあがろうとしたその時、ふと視線を感じて根元を見下ろすと、一人の少年と目が合った。
いや、そんなはずはない。
童子は気にせず登ろうとしたのだが「おおい! 俺たちこれからこの大銀杏にやぐらを組んで展望台を作るんだ、良かったらお前も一緒にやらないか!」と、声をかけてきた。
童子は戸惑い動きを止める。幹を抱きかかえるようにして、木の下から視線をまっすぐ向けているのは、坊主頭の観吉だ。
童子が応えるかどうか迷っていると「おい、黙ってないで何とか言えよ」とさらに追い打ちをかけてくる。
しかしそこで「観吉、誰に話しかけてるんだよ。猿でもいたかぁ?」と兵太郎が観吉の肩を叩いて視線の先を追う。どこだどこだと、追って他の三人も樹上を見上げてくる。太い根元の幹を五人の少年の顔が囲んでいる。
観吉以外の他の四人には自分の姿が見えていないようだが、観吉だけはしっかりと自分の目を見つめてきている。面倒なことになったと思い、観吉が目を離した隙に童子は幹を登り、素早く樹上へと逃げた。
天辺近くの細い枝に腰かけ、ふうと息をつく。樹高三十メートルの大銀杏だ、ここまでは登ってはこれまいと、童子は緑の葉が茂る大銀杏の樹上から顔を出し、美しい海岸線を描く志賀崎の海を望む。笠佐木は美しい土地だと思う。この景色を眺めてもはやどのくらいになるだろう、などといつになく感慨にふけっていた。
しかしそこへガサガサと生き物の気配が樹上に迫って来る。
童子が驚いて幹の方へと顔を向けると、にやにやとした顔を向けた観吉がそこに居た。
「どぉだい、驚いたか! 天辺まで登れるのはお前だけじゃねぇぜ!」
樹は上に行くほど幹が細くなる。いくら体が小さいからといっても、人ひとりの体重がかかれば心もとなく揺れる。
観吉は細い幹を片手で抱き込むようにして、ゆさゆさと揺れる枝に構わず手を伸ばす。
(あんまり揺らすなよ、あぶないじゃないか)思わず童子は初めて会った観吉に向かって注意する。ところがそれが観吉には聞こえていないのだろう「おまえさぁ、友達になりたいなら降りて来いよ」などと言う。
童子はいささかむっとして、(別にそんな……)と言いかけたが、相手にすることはないと遠くの空を見つめるように視線を流す。しかし、こんなやり取りは何か変だと、同時に首をひねる。
「名前なんていうんだ?」と、観吉はさらに少年の腰かける枝へぶらさがり、伝って近づいてくる。
(なんだよ、こっち来るな! 枝が折れるぞ)
「お前が腰かけることが出来るくらいなんだから大丈夫だろ?」
観吉は両腕で枝にぶら下がった状態から、両足の勢いを使って逆上がりの要領で体を持ち上げ、少年と同じように枝に腰かける。身のこなしが軽い、まるで猿のようだ。
「で、何て名前だよ?」
(――――なんでお前に教えなきゃいけないんだよ)
名前を聞かれたことなんて今まで一度もない。だってみんな知っていたから。だから名乗ったことなんてない。
「ああ。そっか……俺は勘吉! 俺が名乗ったんだからお前も名乗れよ!」観吉は興味深げな視線を童子に送り、返事を待っている。
(……タケル、だ)仕方ないとばかりに童子はぼそっと言い捨てる。
「タケルかぁ、おうタケルよろしくなっ!」と観吉は半身を乗り出しタケルに向かって手を伸ばす。枝がググッとしなる。
(ばっ、か! あぶな……!)
ばきっという音と共に、観吉の腰かけていた細い枝は折れ、観吉はバランスを崩して、背中から落ちた。
一瞬のことだ、恐怖のあまり観吉の大きく開いた口からは声すら出なかった。三十メートルの高さから直接落ちるのでなかったとしても、下の枝に叩きつけられて無事で済むはずがない。
(だから言ったのに、バカ!)
タケルは自分が思わず手を伸ばしてしまったことに気づき、驚くと同時に、こぶしを握り締め念じる。するとどうだ、銀杏の枝が触手のようにうねうねと動きながら、一か所に集まり、葉が集まり、上から落ちてきた観吉受け止めたのだ。銀杏の枝がしなり、わずかに観吉の身体は、木の枝と葉が作り出した傘の上で弾んだ。
観吉がおおきな声も出さなかったため、下にいる仲間には気づかれていないだろう、タケルはほっとして長い息を吐いた。
「う、ああ……なんだこりゃあ……」観吉は葉と枝で作られた即席のハンモックをまじまじと確認し、次いで樹上から見下ろしているタケルを見上げた。
「たぁすかったああ……こりゃ、すげぇ……タケル、これ、お前がやったのか?」タケルは最初、その声が聞こえないかのようにじっと観吉を見つめていた。さっきから観吉とのやり取りの違和感を今さらながら気づいてしまったのだ。
「なあっ!」観吉が再度問いかける。
(――――なんで、そう思うんだよ……なんだよお前、なんで僕の姿が見えて、僕の声が聞こえるんだよ!)
「おめぇ……タケルは初めて見る感じだ」再び登ってきた観吉は言う。
(お前は……観吉は、本当に僕が見えるのか……)
「そんな特別な事じゃねぇよ。俺の親父だって、爺さんだって幽霊見えるぜ?」
(いや、そうじゃなくて……僕は……)
そうしているうちに、根元から声が響く「うぉおおい! 観吉ィ、何やってんだ! 降りてこい! こっち手伝えよ!」観吉も大声を上げて、わかった、すぐ降りる、と呼応する。
「――じゃ、またなタケル。どーせいつもお前ここに一人でいるんだろ? 寂しくなったらいつでも降りて来いよ!」
(ふん、誰が……僕は今までだって一人だったんだ、今更寂しいとかあるか)
観吉は顔全体で笑うと、幹を滑り降りた。タケルはそれを見ないように、再び首を背け空へと視線を転じる。
「あっ、タケル! 言い忘れた」
降りかけた観吉はまた猿のように軽々と幹を登りタケルの近くまで登ってきた。
(なんだよ、さっさと行けよ……)
「あんがとな! さっき助けてくれて! 今日は翠滸の奴、どっか行っちまっててさぁ……あいつ肝心な時に役に立たねぇんだよな」と、観吉は前歯の抜けた口を開いて笑った。




