第七話 欲しいのは一本のナイフなのに 追伸
(アツゥ……ねえ、シュリ様。佐藤さんの本、読ませてもらってもいいですか?)
出棺を見送る朱莉の胸元から、トーコが顔を出した。
「なあに? あんた、あんな小難しい本読むの?」
(読みますよぉ。シュリ様まだ中身読んでないじゃないですか、小難しいかどうかなんてわかんないでしょう)
「……三行は読んだわよ。ま、あたしが読まなくても、トーコが読むならいいじゃん。残された作品を一人でも多くの人に読んでほしいって、真奈美さん言ってたしね」
(作家は死ねど作品は死なず、です――でも私思うんですよ)
「え、なに?」
(作品を読んでくれる人がいる限り、作品を読んで何かを感じてくれる人がいる限り、作家の魂は生き続けるんだって)
「……ふふ、なによ。いい事言った、みたいな顔しちゃって……」
朱莉が手を貸して作り上げられた幽霊作家たちの作品は、いずれか誰かの手に渡ったか、どこかの展示室なり、いずこかの調度品としておそらく生き残っている。朱莉は大学にいる間から、彼らの作品を一切処分することなく、受け入れてくれる先を三年間かかって探し続けている。まだ貰い手がないまま実家の押し入れに仕舞ってある作品のことが、また少し気にかかった。
霊柩車が盛大にクラクションを鳴らし、会葬者達がしのび泣く声の中、朱莉は背を向け会館内へと戻る。まだ終わりではない。火葬が終われば親族がまた戻って来る。そのための準備をしなければならない。
「でもよかった。トーコが咄嗟に話の筋を読んでアレンジ提案してくれたから……あの一言がなかったら佐藤さんの最期の作品は完成しなかった。あの人頑固だから下手すりゃ全部削除してたよ……」
(それはないですよ、だってあのシュリ様のアツいお説教に圧倒されてたじゃないですか。やっぱ愛ですかぁ――愛ですよね、人を動かすのは――)
「はっ、ふぁ……ぶぁくしょん!」
(なんですか、人がいい話してる時にぃ)
「あーなんか熱っぽいかも」
(あっ、もしかしていつもより暑かったのって、それ? ちょちょちょ、シュリ様もしかしてインフルかかったんじゃないんですか?)
「う、ん……かもねぇ」
そう言ったそばから朱莉の身体はぐらりと傾いた。膝をつくかと思われる前に壁に寄りかかり耐えた。天華会館の廊下が二重に見えて平衡感覚がなくなった。さすがに様子が変だと思われたのだろう、飛騨の声が駆け寄ってくる。
(シュリ様、大丈夫ですか!)
「……トーコ、離れときなさい。誰かに見つかると面倒だから……大丈夫だよ、先に家に帰ってて。鞠さん、トーコのことお願い」
トーコは飛騨が朱莉を抱え起こすまでに、素早くその場を退いて物陰に隠れた。朱莉のことは心配だったが、面倒ごとを増やすわけにもいかないと、トーコは朱莉の託けを守って一旦その場を離れる。
こうなった時は物理身体が面倒なものになる。霊体であれば一瞬でどこにでも行けたのだが、わずか二十センチ余りの人形の身体を持つトーコは念動力でそれを制御しなければならない――もっとも地縛霊だったトーコが、こうして表を出歩けるのは体あってこそなのだが――幸い足で歩かなければいけない事はないが、小さな体にとって天華会館から自宅の部屋までは遠い道のりだった。
(トーコちゃん、ごめん……朱莉ちゃん念力使いすぎてバイタルが落ちてるの、今の状態だと悪い霊に付け込まれる恐れがあるから)
(いいですよ、私は一人でも帰れますから。鞠さんはシュリ様の傍にいてあげてください、私こう見えても強いですから!)
(代わりにミケランジェロを迎えによこすわ)
そう言い残して鞠は医務室に担ぎ込まれる朱莉の後を追った。
(ま、どうせミケは迷ってここまで来られないだろうし、今日の晩御飯のことでも考えながらのんびり帰ろう)
天華会館を出ると、ふわふわと宙を飛んで、平均台の上に載るように両手を水平にして、住宅の塀の上に降りる。(いっぺんこれやってみたかったんだ、ふふふ、アイナスみたーい)体の小さなトーコからするとブロック塀の幅は普通の人間の一メートル弱に相当する。アイナスというのは一昨日観た垣ケ原作品の一つ『塀の上のアイナス』という、赤い服に長いマフラーが特徴的な、小人の女の子が活躍する話だ。
塀には連続性があり各家々の造りの多彩さもさることながら、庭木の植え込みが塀にかかっていたり、植木鉢が置いてあったりと、ちょっとした障害物になる。それがあたかもトーコにとってはアスレチックのように思えて、いつしか塀の上から降りずにどこまで行けるか、という遊びになった。
天華会館から自宅までは二キロほどしか離れていない。いざとなれば飛んで帰ればいいのだからと、トーコはこの時期としては温暖な昼下がりの街を塀の上から、色づき始めた木々や、実を生す植栽を眺めながら、ぶらぶらと歩いていた。
そろそろ下校時刻らしく、小学生やら中学生がちらほらと見える。多くは友達とのおしゃべりやスマホに夢中で、塀の上を歩くトーコに気づくことはないだろうが、万が一見つかると大変だ。
前から小学生の男子がふざけ合いながらこちらに歩いてくるのが見えたので、避けるため住宅の間を抜けてゆく薄暗い裏通りへと歩みを進める。
(たしかここ抜けたら近道なんだよねぇ)
トテトテと飾り気のないブロック塀の上を歩きながら家屋を見上げていると、ベランダの上から興味深げにこちらを覗いている猫がいる。
トーコが手を振ると、(おやぁ、珍しい子だねぇ。あなたはどこから来たの?)その初老の雌猫が穏やかにトーコに語り掛けてきた。
基本的に動物とはまともな念話は出来ないが、家で飼われて人語を覚えるような個体は割と多い。特に長年人間とともに暮らしてきた猫や犬はその辺の大人よりも聡明で理知的である。これは飼われていることで本来持ち得ているはずの生存本能が薄いことや、そもそも人間のように利害や煩悩というものがないせいだろう。彼女は猫社会からしてみれば、俗世から離れた賢人か仙人のような存在なのかもしれない。
(今から帰るところです、樋井台まで)
(ひのいだい? ああ、そこなら数年前にうちの子が三匹もらわれていったねぇ、たしか)
家から出たことがない家猫はこのように土地を認識しているのだ。トーコがどこから来たのか、という問いは“この辺に居る者ではない”というだけの認識が得られれば十分なのだ。
トーコが、じゃあねと手を振ると、傍らから何匹かの若い猫が、じゃあね、またね、さようなら、気を付けてね、と見送ってくれた。
(かわいい……あの子たちに比べるとミケって、なんかひねくれてるよねぇ。妙に人間臭いというか、いじわるというか……飼い主が悪いのかしら?)トーコはひとりごち裏通りを抜ける。
てててと陽の当たる明るい方へと駆けていると、そこに突然現れた何かに弾き飛ばされる。
(きゃっ)と短く叫ぶもすぐに念動力で自身の身体を制御し、落下を防ぐ。胸をなでおろしつつ再び塀の上に戻るとそこには、塀の上を走っているトーコをジャンプして捕まえようとしてたのだろう。塀の高さにも満たない身長の女の子が目を真ん丸にしてトーコのことを見ていた。
見つかった、というより、驚かせてしまったことを詫びようと笑顔で両手を合わせる。女の子は驚愕の眼差しのまま、一歩二歩と退き、くるりと向きを変え叫ぶ。
「まぁまぁー! あいあすがいるぅ!」
これはいけないと、トーコはポンとジャンプして宙を飛ぶ。女の子が“あいあす”と言ったのは、アイナスのことだろう。フリルをあしらった赤いワンピースに、ストールを巻いた小人のトーコがそう見えたのも仕方がなかった。
しかし、安心したのもつかの間、上空からは太陽を覆い隠すような黒い影、カラスだ。
(くわぁーっくわっ! なんか珍しいもんが浮いてるかー!)
カラスはもともとの頭の良い動物だが、やはり人間とのかかわりが多いため、念話を扱う。
(ちょ、ちょっと待って! きゃー!)
トーコはあわてて鋭い爪から逃れて、全速力で飛ぶ。当然カラスは面白がってそれを追う。いくら空中を飛べるといっても、カラスの飛翔力にはかなわない。高度を下げようがお構いなしだ。(ぎゃぎゃぎゃ、にげろっ、にげろっ、もっと早く飛ばんかー、つつくかー)カラスは余裕でトーコを追い回している。遊ばれているのだ。
このままじゃ捕まっておもちゃにされるだけだ。トーコはとっさの判断で勢いのまま誰とも知れない家の生け垣へと飛び込む。
何の備えもなしに突っ込んだため、パキパキと細い枝を折り、自前の服が引っかかって破れ、まるで蜘蛛の巣に捕らわれた羽虫のように、生け垣内で宙ぶらりんになっていた。
(いたあ……助かったけど、服びりびり、ショックぅ……)
カラスから逃げるのに瞬間的に大きな力を使ってしまい、うまく動けなかった。カラスはぎゃあぎゃあ騒ぎながら、しばらく生け垣の上を探っていたが、通りがかった人に追い払われたのだろうか、どこかに行ってしまった。
(どぉしよ……動けないよぉ。)
途方に暮れてると、ガサガサと生け垣を押しのける手が現れる。トーコはなす術なく覗き込まれた双眸におののき、身を縮める。
「大丈夫? 妙にカラスが騒いでいたから……」
(え、あ……?)
生け垣をのぞき込んでいるのは若い男、いや少年と言うべきだろうか切れ長の目だが、その瞳は黒々として麗しい。滑らかで瑞々しい白い肌に、絹のように艶のあるサラサラの黒髪。最初に声を聴かなければ女の子だと見まごうほど、少年は美しかった。
「あんしんして、もう大丈夫」
(あの……私を見ても……?)
少年は微笑み、うんと頷く。
(私の声が聞こえるの? あなた霊感応力者……)




