第七話 欲しいのは一本のナイフなのに 7
部屋に戻ると佐藤修二が居た。鞠に連れてきてもらうように頼んでおいたのだ。
(朱莉ちゃん、言っておくけど、こんなこと感心しないわよ)鞠は朱莉の帰宅を確認すると不機嫌に言い添え、鏡のある自室の方へと消えた。
(シュリ様、この方は……お客様ですか?)
「ウチの顧客よ。トーコ、あたしの部屋からノートパソコンとってきて。それから佐藤さん、そこ座って」
「はあい」と言って、トーコがテーブルから飛び降り、宙をふわふわと飛んで朱莉の部屋へと入ってゆく。
(うわっ……人形が? え、ええ? なんで、周防さん……どういうことですか……ここはどこですか)
有無を言わさず、かなり強引に鞠に引きずられてきたのだろう、修二は動転していた。
「佐藤さん、ここがどこかはともかく、今からあなたの作品を完成させます」ノートパソコンを開き、電源を投入する。
(させますって……だから……)
「サイトにはログインすればアクセスできるんでしょ?」
(ええまあ、それはそうですけど……)
朱莉は両掌を強い視線とともに修二に向ける。
「あたしの手を使って、書いてください。そして物語を完成させてください。あなたの作品をこの世に出しましょう!)
自動書記を使った修二と朱莉の執筆は、東の空が白みがかる早朝にまで及んでいた。
さすがに修二は慣れているだけに、タイピングのスピードは普段の朱莉の比ではなかった。
修二が入院の三か月間に書き綴った小説は異世界のファンタジー小説だ。彼は『蟋蟀の命』に代表されるように、これまで現代小説、それもとりわけ純文学小説しか書いてこなかった。
映画も派手なアクションの海外物よりも、素朴な人間ドラマばかりを好んで観てきた。一言でいえば地味で陰鬱。カタルシスも救いもない、理不尽さの中に人間という存在を模索し視聴者に問いかけるといった作品を好んでいた。
製作会社でドキュメンタリー番組のディレクターを任された時は嬉しかった。人の心の内に近づき、同化出来るような陶酔感があった。
今となっては映画界の巨匠と呼ばれる、修二が信奉してやまない『世界のムロサワ』とは七十年代から九十年代にかけて活躍した昭和を代表する映画監督、故室澤邦明監督のことである。修二の年代からするとかなり外れているが、映画ファンは延べて彼の作品を時代を超える名作だとたたえる。
朱莉もその名を知らないわけではなかったが、それほどに映画ファンなわけでもなければ小難しいメッセージ性の強い作風は、わざわざ観ようという気にさせなかった。修二のような人間からすれば朱莉は思慮の浅い愚鈍な視聴者と思われただろう。
だが朱莉は垣ケ原監督作品のような、人の善意を信じたいという気持ちや、そこから紡ぎ出した一筋の救いを描き、希望につなげようというスタンスを持つ作品の方が好きだった。霊的世界を知り、人の本質を知るが故だ。現実からは目を逸らしたかったのだ。
(ファンタジーなんてさ、書き始めたころは苦労したよ。なにせ世界観が何もわからなかった。魔法とか武器とかさ、ある程度のお約束は必要だったから)
それでも思い立って書き出せるというのは、基本的に物語を書く才能に長けているからだろう。
「クライマックスですね」
(ああ、いつもより、不思議なくらい筆がのってるよ……)
修二は霊体ながら鼻息を荒くして、タイピングを続けた。時折目を瞑り拳を握りしめるような仕草をしてはまた書き始める。半覚醒状態で修二と半分同化している朱莉も心拍数が上がる。紡ぎ出される文脈を追ってゆく。文字だけなのにこれほどまでに迫力を感じるのかと驚かされる。
主人公たちの心情、死を目前とした心の動きを、これほどまでに克明に描写出来るのは、彼が死者だからだろうか。修二の霊体は何か別のものに憑りつかれたように無心に文字を打ち続ける。
しかし最後の戦闘シーンが終わり、エピローグに差しかかろうとしたとき、手が止まった。
「佐藤さん、どうしたんですか? 手が止まってますよ」朦朧とした意識の中で、朱莉は止まった手先に息を吹きかけるように言う。修二の霊体が離れたのかと思った。
(だめだ……最後の最後でひどい矛盾がある。失敗だ。なんで今までこんなことに気づかなかったんだ……)
テーブルの上では、トーコが朱莉のスマートフォンから、過去にアップロードされた分の修二の作品を読んでいた。
トーコは立ち上がり、書きかけの最終話が書き連ねられたディスプレイを覗き込む。
(確かにこの結末じゃ矛盾しますね……けど、ここまで勢いのある物語なら、あとは読者側の想像力で補完できますよ、たぶん)
(いや、だめだ。目に見えて自覚できる矛盾なんて放置できるわけがない。物語は物語の構造の中で成立しなくちゃいけない……くそ、どう考えたって最後の伏線を回収する人物が足りない。ここまで来たらもう修正なんて無理だ。やっぱり僕には才能がないんだ、所詮この程度なんだ、どれだけいきがってみても……)
「諦めないでくださいよ! ここまで来たんです! 頑張りましょうよ!」
(無理だ! それに、こんな死人が書いた物語なんて……誰が求めるっていうんだ)
「いますよ! 現にこのサイトでもあなたを応援している人がいるじゃないですか!」
(こんなの、微々たるものだよ。みんな共同体意識で助け合ってるだけさ。本当の声なんて聴けやしない、所詮偏った世界の評価だよ)
「――――ぐ……所詮所詮って! 何でも解ったみたいないい方ばかりで、あなたは何もわかってないじゃない、そうやっていつでも輪の外側から物事を見て、壁ばかり見上げてる、壁の向こう側ばかり気にして!」
言葉がうまく続かない。論理的な思考ができるほど冷静でも居られなかった。焦りと疲れと苛立ち、それは修二も同じだったようだ。
(君に! 君に何が分かるっていうんだ! 僕が今までどれほど創作に情熱を傾けてきたかなんて解らないだろう! 完璧に完全に完膚なきまでに感情を打ちのめし、人の心を鷲掴み、感銘と感動と激情の渦に引きずり込みたい! 作家なら考えて当然だろう! こんな半端な作品で、世間が認めるわけない!)
「っあああっ、もうっ! ばかっ! あほっ! 誰も認めてくれないならそれだっていいじゃないですか!」
(は……?)
「――――あなたの、奥さん――真奈美さんですよ! あなたに酷評されるのを承知でも毎日毎日、真奈美さんがいいと思った作品をあなたに観せてきたんでしょ? あなたに元気になってほしいから、あなたが楽しくなって笑ってる顔が出来るだけ見たいから、真奈美さんはあなたにもきっとわかるって、彼女はあなたを好きだから、だからあなたにも解ってほしかった、同じように楽しみたかったんじゃない! なんでそれが解らないの」
(おなじように、たのしみたかった……?)
「陰陰滅滅な物語なんて、新婚三年で旦那がおっ死んでしまうこの現実だけで充分よ! だからあなたも楽しい物語を書こうって思ったんでしょ! 誰がとかなんてどうだっていいわよ、あなたの作品を読んで楽しいって言ってくれる人がこの世に一人でも――いいえ、あなたが愛した人をあなたが喜ばせてあげられなくて何が作家ですか! たった一人でもいいじゃないですか! あなたを大事に思って認めてくれる人がたった一人でもいるんですよ? なんでそこに気づかないのっ!」
(す……周防さん……)
修二の手は、次にタイプするキーを探すように、キーボード上を彷徨う。朱莉はもどかしい気持ちを、せめて下唇を噛むことで感情の寄り辺を探していた。
(あのぉー、お話の途中ですみません、佐藤さん。この話の中でモルガンは行方不明なんですよねぇ?)
(う……ああ、そうだね……)
(だったら死んだとは限らないじゃないですか、ちがいます?)
(……う、ん……?)
そこから修二のタイピングは怒涛の勢いで完結まで走り抜けた。予定していた文字数を大幅に超え、まるまる一話分が増えてしまったが、すべての伏線を回収し、文庫本五冊分に渡る壮大なストーリーは大団円を迎えた。
朱莉の部屋のリビングに一筋の朝日が差し込んでくる。
「陽が昇るね……お疲れさま、佐藤さん。そろそろ天華会館に戻らなきゃね……」
朱莉の言葉とともに、修二のは朱莉の身体から離れると、やがて朝日に溶けるように認識できる色が薄くなり、霊体が透けてゆく。
霊体は自分の意識で瞬時にどんな場所にでも移動できる。修二が帰るべき場所を自覚していれば、また数時間後には天華会館で再会することになるだろう。
(ありがとう。ありがとう、ほんとうにありがとう、周防さん……)声だけを残して。
朱莉はそのまま力が抜けダイニングの椅子から滑り落ち、背中から床に倒れ込む。
(シュリ様!)
瞼が重い。まるで鉄アレイを結び付けられたかのように。トーコの声を遠くに聞き、朱莉はキーボードの感触が残った指の感覚を確かめながら、サムズアップしてみせる。
「だぁいじょうぶ、だよ……トーコ、ナイスフォロー、ありがとね……ああ、もう無理だあ。悪いんだけど、その原稿、サイトにアップロードしておいて。あとごめん、一時間たったら起こしてくれ、る……」




