第六話 大丈夫、いきていこうよ 追伸
マンションのドアを開き、部屋に飛び込むやいなや、朱莉は叫んだ。
「鞠さんっ! なんで先に帰ってるの!」
そこにはソファに寝転ぶ和服の女が居た。
(だあって、今日はもう疲れたしぃ、ゲンちゃんが行ってくれたから、まあいいかって)
「げ、ゲンちゃん?」
(妙玄さん、来たでしょ? 送ってもらった?)
「き、来たけど……もう帰っちゃったよ――大体ね、あたしが死にそうになってるのに、肝心な時に居ないってどういうことよ!」
とはいえど、あの時トーコはあくびをして口を開いただけであり、それを朱莉が自身の思い込みから“噛みつかれる”と誤解して振り払おうとしたためで、死にそうになったのは自業自得である。
(――まったく、この親心がわからんとは、いつまで経っても盆暗ねぇ)
「なに、がっ……」
盆暗と言われ一瞬腹も立てたが、今日一日ですべての欺瞞が瓦解したであろうことは認めざるを得ない。それのことも含めて鞠は言っているのだろう。
(さ、まずはミケランジェロを解放してあげないとね。トーコちゃん出てらっしゃい)
朱莉の胸に抱えられたミケランジェロがすっと目を閉じると、音もなくトーコがいつもの姿で姿を現した。律法根している間はミケランジェロは眠っているのと同じだと言っていたが、ミケランジェロはそのまま体の力がぬけてぐったりとした。
「あ……死んだりしてないよね?」
(疲れてるのよ。眠りながらずっと動いてたようなもんなんだから。そっとしておいてあげなさい)
(ミケランジェロ、今日一日ありがとうね)トーコはミケランジェロの額をちょいちょいと指先で撫でる。
(そうそう、トーコちゃん。これは私からのプレゼント)
(え? 人形)
トーコがそう言うように、テーブルの上には二十センチほどの日本人形が置かれている。いわゆる市松人形と呼ばれている、おかっぱ頭に朱の美麗な着物を着た少女を模った人形である。
(へぇ、綺麗。随分古そうだし高価そう……これを私に?)
(ええ、大体二百年くらい前のものね。昔々、京都の商家に奉公に来ていた女性が持っていたものでね。当時幼い娘を病気で亡くしてしまった彼女はとても悲しんだの。仕事も手につかないほどにね。それで日々悲しみに暮れる姿を見るに見かねた家人が、この人形を我が子だと思って仕事に励めと贈られたそうよ。以来女性は元気を取り戻し、商売に励み繁盛に大きく貢献したって。それで商家では人形を、女性の名をとって“志乃さま”と呼んで商売繁盛の神として祀ったんだって)
「そんなものがなぜここに?」
(代々続いてきた商売が時世とともにうまくゆかなくなってね、会社を畳むことになり、それで志乃さまは行き場を失い――観寧和尚が預かっていたの」
「なによこれ……不気味ねぇ。生きてるみたい」
(生きてるわよ)
鞠がそういうと、朱莉とトーコはぎょっとして同時に身を引いた。
(魂格を持たない霊体が封じられた器よ。付喪神とも言うわね。当然単体でも動くし髪も伸びる、笑ったり泣いたり怒ったりもするのよ、すごいでしょ?)
鞠がそう言って二人を振り向いたとき、朱莉とトーコは人形から最も離れた壁に張り付いていた。
(カンちゃんのところに来るまでにいろんな人の手を渡ったみたいだけど、ご利益があると手に入れた者は商売繁盛どころかあらゆる災厄に見舞われ、命を落としたものも居たそうよ。それに何度か人形供養にも出されたらしいけど、なぜか供養を試みた僧は、重い病気にかかったり大怪我をするらしいわ)
いつも通りあっけらかんとして鞠は言う。
「まっ、また! なんでうちにそんな怪異物件持ち込んでくるのよ!」
(鞠さんひどいじゃないですか、そんな妖怪を私に押し付けるなんて! いじめですか! 後輩いじめですか!)
二人は離れた場所から鞠に対し猛烈に抗議する。それに対し鞠は肩をすくめて(ちがうちがう、場の提供よ)と言う。
鞠の言う“場”とは念力場のことである。
この志乃さまという人形に魂はないが強力な念力場がある。
最初に手に入れた奉公の女性の、子を想う強い念があったことは確かであるが、実際は彼女の働きで商家が潤った功績をたたえ、彼女の亡きあとも、彼女が大切にしていた志乃さまを商売繁盛の神として崇め奉った人々の念が造りだしたのである。
その後も商家は順風満帆で、街道に面した敷地内に志乃さまの為の社を建て、やがて志乃さまは一般庶民からも商売繁盛の神として一躍有名になる。商売繁盛を願う者達の切な願いや、そこを訪れる人々の認識や意識が長年の間に積み重なり、それらは全て“御神体”の志乃さまへと注がれてゆき、志乃さまは人間の念が作り出す疑似霊体である付喪神となった。
この付喪神の厄介なところは、単なる念の集合体で魂を持たないことにある。
商売繁盛を願うとなると、それはあらゆる願いが交錯するもので、全ての願いが全ての人に良いものであるという事はけしてない。志乃さまが受ける念の量は尋常ではなく、また純粋でもなく、魂を持たない付喪神はそれらに翻弄されてゆくしかなく、やがて持ち主の心を形どり映すという物の役目を失って、妖怪変化へと転じてしまう。
(要するに、みんなで寄ってたかって作り上げた残念体ってわけ。志乃さまには意識はないの。何をどうしようという気もないんだけど、生きている者並のエネルギーがここに蓄積されているから、たまに動いちゃったりするのよ)
「その結果呪いの人形になっちゃったってわけ?」
(呪いじゃないわよ、持つ人の念を反映しただけ。志乃さまを手に入れようとした者は、邪な心を持つ者が多かったってことよ)
「それとトーコがどういう関係があるのよ?」
(まあ、みてなさい)鞠は狡猾な魔法使いのような笑みを浮かべた。
次の日の朝、朱莉の目の前には机の上でちょこまかと動き回るトーコの姿があった。着物は志乃さまのそれであったが、顔や体は朱莉が今まで見てきたトーコそのものである。
「なにこれ……トーコが人形に入っちゃったって、こと?」
(連れ出すたびにミケランジェロの身体使うわけにもいかないでしょ)
(そうそう、猫の身体とか違和感ありまくりだし、そもそもオスだったし……それにこの体ちっさいけどほら、ちゃんとシュリ様に触れること出来るんですよ――)
(――トーコは……いいの?)
(いいって、何がですか? 変わらず念動力も使えますし、不自由はしませんよ?)そう言ってトースターのパンを浮かせて、皿へと載せ、テーブルへ運んでくる。
「まっ、鞠さん! 念力場の提供って……」
(ご明察。使うあてのない念力場なら誰かが使ってやればいいってこと。カンちゃんが気を利かせてくれたのよ、後でお礼言っておきなさいよ」
こんなこと頼んだ覚えはない。朱莉が望んでいたからやったのだ、とでもいいたげな鞠の勝手な行動と、トーコがそれに乗りかかり同調している様に朱莉は憤った。
(鞠さん! こんなこと、なんで!)
鞠は指向性念話で話しかけられ、ちらと朱莉に視線を流すも、何も応えない。
(無視しないでよ!)
トーコは地縛霊で、この部屋や家族への想いに縛られていたんじゃないのか。それを……いや、最初からそもそもおかしかったのだ。自ら殺害した家族への想いや、その現場となった部屋に居ついていることに説明がつかないことを、彼女から事情を訊くこともせず見てみぬふりをしてきたのは自分だ――おかしな地縛霊だという事は解っていたはずだ。
(これからはシュリ様と一緒にご飯が食べられます。味見も間違いないですしね!)
「トーコ……」
(でも実話まではできないみたいです。でもこれからは一緒にお出かけとか――)
「トーコ!」両手を握り合わせて目を輝かせるトーコを遮ろうと語気を強める。
(今度は旅行とか行けたらいいですよねぇ。きれいな景色を見て、美味しいもの食べて――)
「トーコ!!」 嬉々として語り掛けて来る、まさに人形のような無邪気なトーコを見ていると、焦燥感と共に、今まで募らせてきた酷い感情を顧みて怒りが沸き上がってくる。
(でね――シュリ様は山と海どっちが好きですか?)
(トーコ!!!)
どんとテーブルを叩き、自分でも驚くほどの勢いで怒鳴ってしまった。
(――ひあっ……な、なんですか……?)トーコはテーブルを叩かれた勢いで飛び上がり尻餅をついてしまった。
(――もういい)
(――シュリ様……何が)
(シュリじゃない、朱莉で……朱莉でいい!)朱莉はトーコの姿を直視できなかった。歯を食いしばり、自身の不甲斐なさを噛みしめ、両拳を握り締め彼女が次に発するであろう言葉を甘んじて受けようと思った。寧ろこのまま念動力で殴り飛ばしてくれと。遠慮なく。
しかしトーコはそのまま居住まいを正し、正座をして朱莉に向うと(いいですよ、もう慣れちゃいましたから。今更照れくさいじゃないですか)と言う。
思わず朱莉は顔を上げ「だ、だって……あたしは魔王なんかじゃ……」と視線を泳がせ戸惑う。
(謀れてたって判った時は、そりゃあ腹が立ちましたけどね。でもこっちもこっちで都合よかったんですよ)
「都合が……よかった?」
(シュリ様は霊感応力者だから、ここの事情知ったら私を何とかして天上霊界へ昇天させるだろうなって思ってましたから)
年少者のすべてを俯瞰し知ったかのような物言い。今更いつからシュリ・バーミリオンなどという魔王は存在しない、という事に気づいていたのかを訊くのも恥ずかしかった。
「じ……地縛霊が何を。あんたなんか今からでも……」自分でもどう表現していいのかわからない思いが、顔を複雑にゆがめさせる。
(掃除、洗濯、料理。今日からご自分でやりますか?)
「……やだ」
(ではシュリ様、ご苦労をおかけすると思いますが、本日より改めてよろしくお願いいたします)
そう言ってトーコは正座の姿勢から頭を下げたが、それはいつも見慣れた三つ指をつく仕草ではなく、手のひら全体を床につけた、深々と頭を下げるお辞儀だった。




