第六話 大丈夫、いきていこうよ 6
「ああ……バスが……」
(乗り遅れましたねぇ)
飛騨の家の時計が十五分遅れているという事を告げられたのは、最終バスの発車時刻二十分前だった。程よくアルコールも入っていて、おぼつかない脚で坂を速足で下るも、無情にも目の前の道をバスが走り去ってゆく。
「もうっ、十五分早いならまだしも、なんで遅らせるのよ」
(あっ、私もそれやってましたよ! なんか時間得したみたいに感じるじゃないですか。三時に学校出て、三時半に家に着くとするでしょ、でも家の時計は三時十五分! 十五分も早く帰ってきた気分になりません?)
「ならない。それより遅刻のリスクの方が高いじゃん」
(約束時間は十五分前原則だから、常に三十分前に出ればいいだけじゃないですか?)
「それが出来るなら遅刻なんてしないよ」
そういえば飛騨に初めてランチを誘ってもらった時も彼女の方が早くについていた。五分前には到着したはずなのに。
「ともかく、バスはあれが最終だっつーこと。家までタクシーで帰るとなると結構な額になりそうだし……」
(市街まで降りたらまだバスあるかもしれないですよ)
「ま、いっか。ぶらぶら歩いていくか。月もきれいだし」
(ほーんと、きれいですねぇ)
トーコを入れたリュックを背負いなおして、鼻歌を歌い、朱莉は小高くなった志賀崎町から笠鷺市街の灯を眺めながら坂道を下ってゆく。海側から吹きつけてくる風がずいぶん冷たく感じて肩をすくめるが、寒くはない。昼間は暑いと思っていたが、今は背中にくっついたミケランジェロの体が暖かく感じる。
新興住宅街をまっすぐに下れば市街には出るはずだ。トーコの言うように十二時までに着ければバスはあるだろうと高をくくっていた。周りの家々には明かりが灯り、家族団らんの笑い声が聞こえる。
「ねえトーコ」
(なんですか)
「トーコは家族の事、どう思ってたの」
訊くなら今しかないと思った。ミケランジェロの体に囚われて念動力を自由に扱えない今なら鞠がいなくとも、トーコが癇癪を起して悶着を起こしても勝てる算段はある。もちろん勝てると言っても猫と本気で戦ったことなどないから、もっぱら捨てて逃げるに徹することになるのだろうが、どっちにしても厄介払いはできる。これは圧倒的有利。
(大好きでしたよ)
虚を突かれるとはまさにこのことだ。
「――そ、うな……そ……そうだよね?」
(ええ、お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、大好きでした。もう三年も経つんだなぁ)
トーコの口調は落ち着いていた。怒るでもなく悲しむでもなく。
家族を亡くした、いや――自分もろとも失った家族。もう過ぎ去った幸せな日々を思い返すような、そんな口調。その幸せを奪ったのは彼女自身ではない、という事なのか。
(シュリ様、もしかして報道を信じたりしてます?)
「ほ、ホウドウ? 何のことだ」思わず声色を変えてしまった。
それを聞いてかトーコはくすっと笑い(まあ、仕方ないですよね。状況証拠って奴ですか? 死人に口なし、おまけに密室、疑わしきは血みどろになってトイレに目張りして、死んでた私ですよ)
「じゃあ……事実は違うってこと?」
(やっぱり知ってるんじゃないですか)
「ま……そんなこともあったかな、と……うん、今思い出した」
(いいですよ、どっちでも)
「なんか、トーコのその優しさが怖いんですが……」
(私はいつでも優しいですよ)
今気づいた。
昼間の悶着で、やっぱり朱莉が魔王だという嘘はとっくにバレていて、襲撃の時を虎視眈々、いや猫視眈々と狙っていたのではないか? 今なら、ミケランジェロの体がある今なら、謀った報復として背後から至近距離で喉笛に噛みつくことぐらいできるのではないか。これは圧倒的不利。
朱莉は恐ろしくなり背後に背負ったトーコを振り向く。
すると、そこにはあんぐりと口を開いて鋭い牙を見せる化け猫がいた。
「うっわあああああ!」
慌てて逃げるようにリュックを地面に降ろす。
しかし重量感に変化がない。トーコが背中にぶら下がったままなのだ。トーコが咄嗟に爪で引っ掛けたのは朱莉のペンダントの革紐である。
成猫の体重は五キロから六キロ、ミケランジェロは肥満気味だから七キロ八キロあるかもしれない、その身体の重みで細い革の紐は引かれ、朱莉の喉に食い込む。
「ぐっ、ぐるじいー!」
朱莉は体を右に左に悶え、背後の化け猫を振り払おうとするがうまくいかない。
(ぎゃあああああ)
化け猫は奇声をあげ、朱莉の首をさらに絞めようとするかのように暴れる。
「だ、だずげでぇええ!」
苦しい、息ができない、意識が遠のいてゆく。
なんということだ。あまりに心を許し過ぎた。朱莉はどこかでトーコに対して安全宣言を出したがっていた。いい関係になれたと信じようとしていた。やはりだ、やはり霊など信じてはいけない、霊の言う事など。所詮はこの世ならざる者達、生者とは別の利害で動く者達、それが死者。それが霊だ。
ここ最近能動的に霊たちとかかわりを持つようになってからすっかり警戒心が抜けていた。いままであれほど慎重に過ごしてきたのに、よもやこんな間抜けな形でとり殺されることになろうとは。朱莉は自分の迂闊さにひどく後悔しながら、かすんでゆく視界に意識を集中する。
人は死を悟るとき、思い出が走馬灯のように走ると言うがそれどころではない。ぼやけた視界にまばゆい光が満ちてゆく。いきなり昇天させられそうな勢いである。耳にも先ほどまで聞こえていた虫の音や団欒の声は届かず、ただ非現実的な雑音が聴覚を支配している。
意識を失う手前とはこういうものなのだろうかと、死の直前とはこんな感覚なのだろうかと、朱莉は残った意識でぼんやり考える。
(ぎゃあああ! おちるぅううう!)
「何やってんだ!」ふと、人の声が聞こえたと思ったら、首を絞めつけていた革ひもが緩んだ。背中の重みも抜けている。助かったのだろうか、それとも既に逝ってしまったのだろうか。
「だいじょうぶか?」
視界は相変わらず眩しいし雑音も消えていない。――いや雑音ではなくこれはエンジンの音か。光はヘッドライト。目の前には一台のバイクが停まっている。
仰向けに倒れる朱莉の顔を覗き込むのは、男性。しかもイケメン。
だがどこかで見た顔だ。
(ふああ、死ぬかと思いました)
「うおぁあ! 化け猫じゃねぇか! また別の霊を入れてんのか?」
男はミケランジェロを化け猫と呼び驚いている。なぜだ――それは、彼がトーコの声を聴けるからである。
(シュリ様! しゅーりーさーまー!)
トーコが呼んでる。
「おいっ、おまえ! こら起きろ!」
男は偉そうだ。
こんな偉そうな口をきく男は朱莉が知る限り一人だけだ。
「妙玄さん……なんで?」
「鞠さんがうち来てよ、今頃このあたりを歩いて帰ってるはずだって聞いてよ、とりあえず迎えに来てやった」
「鞠さんが? なんで?」
「ジジイに用事があったんだと、それ以上は知らねぇ」
朱莉は体を起こし、何度か咳払いをすると息を吐いて立ち上がる。
「なんで妙玄さんがあたしを迎えになんて……し、心配してくれた、とか……」
「頼まれりゃあ断れないだろ、ただそれだけだ。第一、夜中にふらふら女が一人で歩くもんじゃねぇや」
「殺されかけたんですよ!」
「ああん、何にだ? 背中に猫ぶら下げて悶えてる馬鹿にしか見えなかったが?」
(シュリ様、いきなり暴れだすんだもん、何かと思いましたよぉ)トーコがリュックを口にくわえて引きずって来る。
「トーコ……?」
「お前な、猫だからって勝手にポンポン身体使っていいってもんじゃねぇぞ?」
「いや、これは……双方同意の上で……」
くたびれたジーンズに、シンプルなチェック柄の赤いネルシャツを羽織った妙玄は、相変わらず僧侶には見えない。髪はヘルメットを被ったせいもあるだろうが、どうやらくせ毛のせいらしく、あちこちの方向にはねている。
いままで整髪料で固めていたり、タオルを巻いていたりしていて気づかなかったが、少し茶色味がかかった髪をしているという事が外灯の照らす光でわかった。だが相変わらず偉そうで、飄々とした態度に新たな発見というものはない、と朱莉は思う。
「ま、ツケ払いはお前ら自身がやることだから別にどうでもいいけどな――後ろ乗れよ、家まで送ってやる」
妙玄の乗ってきたバイクは所謂オフロードバイクという、悪路を走るためのバイクで、シート高が極高く、よじ登るようにして乗らなければならなかった。
仕方なく朱莉は妙玄の肩を掴ませてもらい、ようやく快適とは言えない細長いシートに着座する。
「どこ持てばいいですか?」
「嫌じゃなけりゃ、腰に腕回しといてくれ。重心が離れると運転しづらいからな」
言われた通りに両腕を妙玄の胴に回す。しっかりとした骨格に分厚い筋肉の層を感じる。背中のリュックに入れたトーコが落ちないよう、再度チャックが閉まっているか確認する。
「しっかりつかまってろよ」と言うが早いか、妙玄はその場で後輪をスライドし車体の向きを変え、急加速、フロントを宙に上げながら志賀崎の街を駆ける。
驚きの余り、必死で妙玄の身体に縋り付くしかなかった。
「んなんなんですか! 降ろして! 今すぐ降ろして―!」
「停まって降ろしてる間に家に着いちまうよ!」
「んなわけないでしょ!」




