第六話 大丈夫、いきていこうよ 5
朱莉、飛騨の食卓は静かに淡々と始まる。助郷録仁左衛門宗兵衛はやはりそこは犬らしく椀に盛られたご飯にブリと大根の煮物を乗せた物を食べている。ミケランジェロの姿のトーコも小ぶりではあるが同じものを食べている。
「うん、汐里殿の料理は美味いなぁ。しかし、飯がパサパサしてるな……」
がつがつと丼の中に鼻先を突っ込む犬を横目に、朱莉と飛騨は微妙な空気の中で静かに箸を動かしている。
犬のくせにご飯の炊き具合をとやかく言うな、と飯炊き担当の朱莉は眉間に皺を寄せる。が、しかし(ご飯はともかく、ブリ大根がおいしいでぇええす)と猫も言う。
「朱莉ぃ、お米洗いすぎてへんか?」と箸で米粒をつまみ上げた飛騨に指摘される。
そうかもしれない、というか二度目で加減などわかるか、と思いつつ自分の不手際さに若干落ち込む。そういえばトーコは一条早苗からご飯の上手い炊き方を教わっていたな、と思い出す。
幸せそうに飯を頬張っているトーコは、いつも料理を作ってはいるが、今日、おそらく三年ぶりに実存実体をもって舌で料理の味を感じる幸せに身を委ねている。そのご飯がこれかと思うとちょっと申し訳なく思った。
「やっぱり猫は魚が好きやなぁ」飛騨が頬杖をついて、無心にブリをほおばるトーコをのぞき込む。
「日本だけの話らしいですよ、欧米のキャットフードはほとんど肉が主体で、魚を使うことはないんだって。猫が魚好きってのは日本人の食習慣に飼い猫も慣れていったってことらしいです」
「へぇ、そうなんや? 朱莉って変なこと詳しいな」
テレビで仕入れたトリビアである。しかしこの猫まで人間の意識で動いてるなどと飛騨が知れば卒倒ものだろう。
「飛騨さん……」朱莉は意を決して告白することにする。「このレトリバー、憑いてるんですよ」と。
「ついてる? 何が?」
「霊です、それも人間の霊が。まあまあ厄介な奴っぽいです」
「人の霊?」
「拙者は汐里殿には迷惑はかけぬよ」助郷禄仁左衛宗兵衛は顔を上げて言う。
「うるさい、黙ってて」
にべもなく応える朱莉を見つめて飛騨は面白そうな顔を作ると、日本酒を呷りながら、缶ビールに口をつける朱莉を見据える。
「なあなあ、やっぱり朱莉って見えるんや?」
「……うん。声も聞こえる。普通の人みたいに」
「えっ、じゃあウチには? なんか憑いてる?」
「守護霊様がいるよ。飛騨さんの事いつも見てるよ」
「どんな人?」
他人の守護霊というのは意識しないと見えにくい。これは半分本人と重なっているせいもあるが、守護霊や指導霊など、いわゆる天霊の念力場は地上にはないためだ。高級霊になればなるほど見えにくく、そこそこの霊感応力を持っていても、ただの光のようなものにしか見えないことの方が多い。無論高級霊の式を見るなどということはまずできない。朱莉は目を細めて意識を集中して飛騨の背後を探る。
「外国のお坊さんだね……ええと、たぶんタイとかあの辺の人かな。ほらオレンジ色のこんなやつ着てる人」手を袈裟懸けに動かして説明する。
「ふうん――朱莉って最初に来た時から変な子やなって思ってたけどさ。きょろきょろ視点が定まらんし、いつも何か考えてるみたいにしてるし、たまに独り言ゆうてるし……そうゆうことか」
言いながら飛騨は冷蔵庫から白ワインを取り出してくる。「飲む?」
こくりと顎を下げる。
こんな告白をするのは飛騨が初めてだ。今迄この能力をひた隠しにしてきた。バカにされるとか疑われるとか、そういうのを恐れていたわけではない。認めたくなかったのだ。もうこの世ならざる者と繋がるのが嫌で、その懸け橋となり得る自分を受け入れたくなかった。普通で居たかった。
だが、これからはそうはいくまいと、観寧にも釘は刺されていた。
ポンとコルクの栓が引き抜かれる小気味よい音に一瞬気をとられ、飛騨の顔を見る。
グラスを差し出し、そこに注がれてゆく液体を見つめる。すっと鼻腔を通り抜けるフルーツの香りが思考を霧散させる。
とりあえず呑もう、と飛騨の目が言っている。
朱莉は天華会館に来てからの一連の話を飛騨に話した。猪口雅夫のことから一条早苗のことまで。
「そっかぁ。ま、そういう事情なら、天華会館にいたら、そら気も休まらんな。でもな、仕事は仕事や。誰かて大人になったら問題の一つや二つは抱える。こっちの都合もお構いなしにあれこれゆうてくる。そういうのに怒ったり悲しんだり、楽しみにしたり、期待したり、惹きつけられたり、不安になったり、絶望したり――だから考えないようにする、無視したり、忘れた振りしたり、見なかったことにしたり――でもそんなんいちいち気にしてられんやん? 人も霊もさして変わらんやん」
飛騨はワイングラスを一気に呷る。悲壮感があるわけではない。飛騨のその語り口調はこのすっきりとした飲み口のワインのように、さわやかな後味を残す。
「ちょっとあっさりしすぎてるかなぁ」
唇を舐め、ボトルのラベルを読む飛騨はワインのことを言っている。朱莉にはまだその違いが判らない。
「そやけどさ、霊って死んでもまだなお言いたいこととかあるんやな。やり残したことなんかな?」
「その、どっちも、だと思います」
「正直さぁ、底意地悪いよなぁ、って思うわ。生きてるうちにやることやって、言いたいことも言ってから死にゃあいいのに。出来んかったらそれは自分の責任やろ、あとからグチグチゆうってかっこ悪いやん」
朱莉はチラとリビングに寝転がるゴールデンレトリバーと、その腹にもたれかかり気持ちよさそうにしている三毛猫を見遣る。
(こっちはこっちで色々あるんです)とトーコはやや不機嫌につぶやき、「汐里殿、それは違う。誰も死に時が判るなら苦労はせぬよ」と助郷禄仁左衛門宗兵衛はパタンパタンと尻尾を振っている。
「あ、こりゃ失言。確かにね、ごめんごめん」
「かまわぬよ」
霊感応力のかけらもない飛騨だったが、さっきから普通に助郷禄仁左衛門宗兵衛と会話をしている。受け入れるのが早すぎるとは思うが、これが大人の器量というものなのか。
「まっ、事実は事実で受け入れる。目の前で実際に犬が喋ってるんやし、それについて疑いはない。不思議やとは思うけど、考えたってわからんなら楽しくやるわ。これからよろしくな助さん!」
「ふははっ、汐里殿は肝の座った女子だな。拙者は嫌いではないぞ」
助郷禄仁左衛門宗兵衛は犬の顔をして愉快そうに笑う。動物番組のアフレコの映像を見ているようだが、ちゃんと笑っているように見えるから不思議だ。悪い奴ではないということは解った。
だがそれはそれで釘を刺しておかねばならない。
「それはいいけどあんたね、その子も生きてるんだから、ご飯が済んだら解放してあげなさいよ」
「ふむ、確かにな。しかし居場所がなくてのぉ……祠には戻りとぉないし」
「もう大丈夫よ、封印したからもう祠に吸い寄せられることはないよ」
鞠は食事の前に(ちょっと離れる、あとよろしく)と言ったきり戻ってきていない。助郷禄仁左衛門宗兵衛と話をした後のことだ。守護霊が守護対象を放っておいてどこかに行くというのはどういう了見なのか、それに何がよろしくなのか皆目わからないが、とりあえず鞠がああいうなら、この場に問題はないのだろう。
この助郷禄仁左衛門宗兵衛という霊。どうやら本人曰く、このあたりで起きた戦の際に討ち死にした男だと判る。死んでからどのくらい時間が経っているのかと説明すると驚いていた。なぜ自分が祠に囚われていたのかはよくわからないらしい。
朱莉に言わせれば、残念するにはそれなりにこの場所か、祠にまつわる何かと親和性があったと考える方が容易い。年数が経ちすぎて自分が武士だったということくらいしか覚えていないが、それでもこんな祠に長年くくりつけられて、悪霊にもならず、人間らしい言動を残しているのは驚くべき精神力だ。
しかしいずれにせよ、成仏させるというのは材料がなさ過ぎて困難に思える。
「かああ、判らんことづくしか……」
「すまぬ」
「ま、とりあえず出なよ」
「うう、む。そうだな」と、助郷禄仁左衛門宗兵衛と思しき霊がゴールデンレトリバーの身体からふっと浮き上がって宙に浮いた。
さすがに人の形を保ってはいないか、と目の前の霧のような塊を見つめる。向い側に居る飛騨にはやはり見えないので、彼女は理解することを諦めたように静かに一人で呑んでいたが、不意に訊いてくる。
「なあ朱莉、助さん、どんな姿してるの?」
「形はないですね、こう、ぼやっとした霧みたいな感じですよ」
「え、そうなん? なんやしょーもな。なんかこう、沖田総司みたいなイケメン剣士やったらよかったのに」
どうせ飛騨には見えないんだから、そういう事にしておけばよかった、と言われてから思った。
酒に強いとはいえさっきから飲み過ぎだ。イケメンと同居してるともなれば少しは生活に自制心が生まれるのではないかと、自分のことを棚に上げて考える。
それに沖田総司のイケメン伝説は日本のサブカル文化が作った幻想中の幻想である――が、まあそれも知らないなら知らないでいい事だろう。
(人形の方が良いだろうか? やろうと思えばできるんだが……)
飛騨との会話を聴いて助郷禄仁左衛門宗兵衛は念話でつぶやく。
(あー別に無理しなくていいよ、あたしは見たくもなんともないから)
(し、しかし……しょーもないとか、どうでもよいとか、何でもよいみたいな言われようは、拙者としては役立たずの厄介者のように言われているようで――)
(厄介だよ)
(――心外でござる)
そんな朱莉と犬の語らいをよそに、ボトルとグラスを携え、ふらふらとした足取りで飛騨が広縁に向かって歩いてゆく。本当にどうでもいいらしい。仕方なく朱莉もそれに続いて縁側に腰を下ろす。夜になり気温はガクンと下がっていたが、酔って火照った体には心地がいい。
「後悔ってのは結果次第ともいえる」
朱莉は何の脈絡もなくそう発する飛騨の顔をのぞき込む。
「結果が良ければ後悔にはならんやろ、いい思い出、戒め、経験、努力の痕跡、そんなもんで片付けられる」
朱莉のグラスに残りのワインがなみなみと注がれる。あわてて唇を近づけて零れそうになる液体を啜る。
文脈がよく見えないので、そのまま黙って飛騨の言葉に耳を傾ける。
「結果が悪けりゃ――後悔する。けどなかなか人って自分を責めへんもんでなぁ、人の所為にする。あいつがいたからとか、あいつが失敗からとか、あいつがあんな事言ったからとか。自分が悪いって、自分の所為やって認めるのがすごく嫌なんよね。ま、お釈迦様じゃあるまいし、ウチらはそういう汚いもんで出来とるっちゅうことなんやろ。そやけどそのまんまあの世へ行けるんやろか、なあ?」
飛騨はそこまで言ってからからと笑う。
「誰でも死ねばあの世へは行くんですよ。でも事情でこっち側に残ってる人もいる、それが終われば自然とあっちに行くってのが普通みたいです」
「じゃあ助さんも?」
おそらく祠の念力場に捉えられていただけで、自主的に残った訳ではないのだろうが、ややこしいので、飛騨の前では頷くにとどめる。
「そか。それはそれでご苦労やな。なんかウチがしてやれることがあればええんやけど」
「うん……気持ちはわかりますけど、あんまり肩入れしないでください。ややこしいことになりかねませんから」
慎重に言葉を選んで、警告の意味を込めたつもりだったが、飛騨は口を大きく開いて笑う「デキるお姉さんは、ダメンズには慣れてるからな」と。
霊に出会ってダメンズの一言で済ませてしまう飛騨に朱莉は目を丸くする。
「ウチはあんたみたいに霊は見えん。だから相手が誰だろうと言葉以外で通じることは出来んやろ。やっぱり普通の人付き合いとなんも変わらんやん」
「あの、飛騨さん……このこと、あたしが霊能力者だってこと職場では内緒にしててくださいね」
「ははは! アホやな、わーかっとるわ。けどそういう体質やからゆうて仕事に身が入らんようやったら容赦なくケツ叩くで」と、さらに買ってきた赤ワインのコルクを引き抜く。
わかってますよ、という意思を込めて朱莉は自らワイングラスを差し出し、飛騨の顔を見つめる。それに呼応して彼女は眉を上げた。
朱莉は一口ワインを口に含むと舌で転がして飲み込むと、ふうと息を吐き「実りを誘う初秋の日差しのようですね」と満ちた月を見上げながら呟いた。
それを聞いた飛騨は、ワインボトルと朱莉と月に視線を交互に巡らせ、眉を複雑にゆがめていた。




