第五話 なんでもはできないの 追伸
ようやく観寧から解放された翌日の夕方、部屋の前に着いた朱莉はしばし考え込む。ドアが破壊されたのは一昨日前、翌日すぐに修理依頼をしたのだが、まず状況を確認しないとという事で、業者が見積もりに来るはずだった。ところがさっきまで印条寺に缶詰めにされ帰宅できずだったのだから、当然話は何も進んでいないはずだった。なのになぜドアが直っているのか。事情を聴くにはそのドアを開くしかない。
「あー、憂鬱。またドア開けたら植木鉢飛んできたりしないでしょうね……」
何故連日、自分の部屋に帰るのに戦々恐々とせねばならないのかと苛立ちもするが、今回は自分が悪いと朱莉は思う。
(あかりん? どうしてボクりんを盾にしてるん?)
「大体ミケ、これはあんたの任務未遂行が原因だからね、甘んじて飛来物を受け止めなさい」
(だって、あかりん、ボクりんに気づかないでさっさと寝ちゃったじゃんか!」
「うるさい、連帯責任だ!」
夕方五時、朱莉はマンションのカードキーでドアを解錠しようとするが、反応がない。鍵がかかっていないのか、ますます怪しい。ミケランジェロを胸の前に抱えるようにしてゆっくりドアを開く。
「た、だいま……」
部屋にトーコの気配がない。リビングをぐるりと見渡し、テラスも覗いたがいない。食卓には食事の用意がそのまま残っており、ますます罪悪感が募る。
(家族にとって無断外泊は禁忌よねぇ……そりゃ怒るわ。私が様子見てこようか?)
(家族って……いいよ、自分で探す)
三つの部屋のドアも恐る恐る開いてみたが居なかった。部屋はきちんと片付いており、いつも通りだ。もしかして居なくなったのかと一瞬思ったが、内覧の時のようにどこかに隠れているのかもしれない。
朱莉は夕日で赤く染まりかけるテラスに出て、マンションの最上段、屋上屋根のほうを見上げる。
いた。
なんと、連れ合いと陸屋根に隣り合って腰かけ、談笑している。
トーコの隣に座るその長身の男は、真っ黒なスーツに身を固めて、長い髪を黄昏に吹く風になびかせている。一昨日この部屋を襲撃に来たゴーストスイーパーだ。昨日の敵は今日の友と言うほどお気楽な訳でもあるまい。笑っているトーコに呼びかける。
「トーコ!」
(あ、シュリ様ぁ、お帰りなさい!)
男の隣で無邪気に手を振るトーコはふわっと浮き上がり、朱莉の前に着地する。それを追うように彼も立ち上がり、三メートル以上ある陸屋根からテラスへと颯爽と飛び降りてくる。
「どういうこと?」
「ああ失礼いたしました、シュリ・バーミリオン様。請求書が届くまでは到底待てなかったものですから、私が直々に部材をお持ちして施工させていただいた次第でございます」
男は相変わらず暑苦しい服装と冷徹な態度で、片膝をつき胸に手をあてて述べる。
「ん、ああ。器用、なのな」どちらの声色で話そうか迷って、中途半端になった。
「いえいえ、冶金技術に長けた式神の力をちょいと借りましてね」そう言って男は二枚の式符を差し出した。
「これは部屋の鍵のようなものですから、お手元に持っていてください」
「え、なに? なんで?」
「その窓とドアは私の式神です。なあに、元のドアと窓よりも百倍強いですから安心してください」
よく見てみればドアも窓も微妙に元のものとデザインが違い、ところどころに手元の式符と同じ文様が描かれている。
「ちょ、ちょっとまてぃ! 部屋をこんなハイブリッドにしろなんて頼んだ覚えないわよ!」
「シュリ様、お言葉ですが、あなたのような御方がお住いの念域が、人の作った物理防壁でしか守られていないとは驚きでした。ここは僭越ながら、私が最大の念を込めて施術させていただきました。これにて安心安全の住環境のもと、平穏に暮らしていただけますよ」
そう言う男の顔に他意は見当たらない。そしてよくよく見てみれば男だてらに綺麗な顔をしていることに気づかされる。どこかしら陰のある男が好きな人にとっては好まれる顔かもしれない、と思う。
(ま、鞠さんこれって何かの罠? 結界とかじゃないわよね?)
(ううん……先日の件への謝意と親切心でやってくれたことなんじゃない? 式神からも変なものは出てないみたいだし)
それならばとりあえずは飲んでおくかと、不承不承息を吐く。
「麻邦さん! ゴハン食べて行ってください、材料が少なくて簡単なものしかできなかったんですけど」トーコがキッチンの方で呼んでいる。
「は? あさくに? だれ?」
「私のことですが、なにか?」
「あんたの名前“マホウショウジョ”じゃないの?」
「どうやったらそう読めるんですか」黒づくめの男、麻邦はダイニングテーブルに着き、手を合わせる。
「だって麻・邦・沙・助、でしょ?」
「仮にそういう名前だったとしても、“あさくにさすけ”と名乗りますよ。なんですかその読み方は」
麻邦はわずかに眉間にしわを寄せ、箸を取り上げる。
(シュリ様、漢字苦手ですもんね)とニコニコと機嫌がよさそうなトーコは、朱莉の分のご飯と味噌汁を装って運んでくる。おもいきり人の名前の読み方を間違えるのは結構恥ずかしい。
「ああ、ありがとう……」
恐縮である。食卓に残っていたのは昨日用意されたものではなく、今日のために用意されたものだったか。 そういえば昨晩も今朝もご飯と味噌汁だったと思い返しながら、朱莉は手を合わせる。
目の前の麻邦は一昨日に見た時とは打って変わって柔和な表情を浮かべている。結局植丸不動産からすれば麻邦は業務不履行で報酬を受け取ることができなかったはずだ。しかし昨日の時点なら、朱莉と鞠が居ない間なら、リベンジだって可能だったのにしなかった。この韻枢師、「おお、この出汁は……母さんを思い出します」見た目よりもずいぶんいい人なのかもしれない、と朱莉は思う。
(おばあちゃん直伝ですからねぇ!)トーコもうれしそうだ。どんな話が二人の間でなされたのかはわからないが、ともかくトーコも平常運転のようだし、目の前の問題は片付いたと言っていいだろう。
(おや、今日はにぎやかやねぇ。お客さんかいな)
(あ、おばあちゃん、お帰りなさい)
早苗がひょっこり現れる。早苗はここのところ朱莉の部屋にいない時は、昔の知り合いや、行きたくても行けなかった海外の観光地なんかを訪ねて回っているらしい。
(おばあちゃん、お味噌汁褒めてもらったよ!)
(おお、そうか、そらよかったなぁ)
「いやぁ、本当においしいですよ。味噌はあくまで風味付けにとどめ、出汁本来のコクが季節の具材の味を完璧に引き出していますね。そしてこのご飯の炊き方も絶妙です、コメにちゃんとうまみが残っている」どうやらトーコは早苗のことも麻邦に話しているらしいことが窺える。
(はは、あんた口がうまいな。褒めたかてなんもでぇへんで)早苗はすっと移動し、キッチンの鍋をのぞき込みうんうんと頷いている。
見ただけで味などわかるものだろうか。それにご飯など洗って水を測って電子ジャーで炊く限り一緒だろう、と朱莉は白飯を口に運ぶ。
が、――いや、違う。何が違うのかはわからないが、明らかに印条寺で食べた白飯とは違う。
おいしい。
比べて初めてわかる程度と言われればそれまでなのだろうが、人の自己感覚ほど当てにならないものはない。比較級あってこそ人は高みに登るという競争原理を思い出す。
麻邦と朱莉はほぼ同時に「おかわり」と茶碗をトーコに差し出していた。
黒づくめの男と向かい合わせの奇妙な食事を終えると、麻邦を玄関まで見送り、ドアを閉めて息をつく。式神で出来たドアはひとりでにノブを変形させ施錠した。
「ああ、疲れた。なんかさぁ、陰気な奴だと思ってたけど割といい奴よね。話もうまいし」朱莉はソファに腰かけ、冷蔵庫から取り出した缶ビールをグラスに注ぎこむ。
(そうですね)トーコは洗い場で食器を洗っている。
「式神のメンテにまた来るとか言ってたけど、どのくらいで経念劣化するのかねぇ?」
(さあ)
「あ、そうだ、妙玄さんってこの前話したことあるでしょ? お坊さんの」
(ええ)
「なによぉ、なんかテンション低くない、トーコ? その彼と昨日ね、会ってさ――――」
水道の蛇口がいささか乱暴に閉じられ、流水の音が途切れる。
びくりとして顔を上げると、目の前に半眼のトーコの顔があった。
「な、なに?」
(――あのな、無断外泊とかな、NGだからな? あり得んだろ? せめて連絡入れろな。私が地縛霊だからって舐めてんじゃねぇよ……)
「いっ、いやあ、いや! 舐めてない! それに関してはだね! なあミケ……!」ミケランジェロの姿を探すも、リビングから離れた、テラスの最も遠い場所にちょこんと座ってこちらを見ている。明らかに避難しているといった様子だ。
(言い訳できる立場か? どうも男と一晩明かしたみたいに聞こえたんだが?)
「いや、いやいやいやいや! な・ん・に・も、ございません! でしたっ!」
両掌をかざしながら、必死で鞠を呼び出す――が応答はない。
トーコは盛大にため息をついて、やがて身を引く。
(――――もう、いいよ。昨日あなたが食べなかった分が冷凍庫にあるからさ、明日からはそれでちまちま食いつなぐといいよ)
「え、ご飯……これからないの?」
(……さあね)
そう言い残すとトーコの霊体はすっと目の前から消えた。
すっかり泡の引けた黄金色の液体の中、気泡がチラチラと踊っているのを呆然と見つめる朱莉だった。




