第五話 なんでもはできないの 6
「ちょ、ちょいまて! あと三分じゃ!」
六畳間ほどの部屋の中心で、万年寝床の上で寝巻姿の老人が胡坐をかいて、大画面テレビに向かっている。周囲には食べかけの菓子くずであたりは汚れており、一升瓶が少なくとも三本転がっていて、さらに強壮剤とみられるドリンクの小瓶が脇の座卓に十数本並んでいる。少なくとも数時間はこの場から動いていないだろうことは想像できる。
だが、衰弱した寝たきり老人というわけではないことは一目見てわかる。
五十インチ以上はあると思われる大画面のモニターには、激しい効果音を伴うCG映像が動き回っており、老人によってキーボードとマウスが慌ただしく操作されている。
「ゲーム……?」足の踏み場のない部屋には入らず、廊下で立ち尽くす朱莉はひとまず元気そうな観寧の背中に安心する。
「MMOだよ……まったく」いつものことだと呆れた口調で柱にもたれかかる妙玄。
「おじいちゃんゲームなんて興味あったんだぁ……」
「興味っていうか、シャレにならねぇぞ。年中ここでプレイしてるんだから。なんでも自分が席を外した時にイベントが始まったら大変だとかなんとか……寺のことは俺に任せっきりで念仏すら唱えちゃいねぇ、トンでもねぇ生臭坊主だぜ」
なるほど、妙玄が言う通り一見無造作に置かれているように見えるが、観寧が座する位置からはあらゆるものに手を伸ばせば取れるように、モニターを正面として食べ物飲み物、強壮剤、電話にマッサージ器に、ティッシュに煙草、ペンと紙やらありとあらゆる物が馬蹄形に配されている。そして部屋には異臭を放つ何かがある。
「なんか臭いなぁ、この部屋……」
「っああ! ジジイ!」そう言いながら部屋に飛び込んで黄色い液体の入ったジュースのペットボトルを手に取る妙玄は、ゲームに勤しむ老人の襟首を締め上げる。
「てめっ、何度言ったらわかるんだ! 小便はおむつの中でやりやがれ!」
「あわわ……こらっ、妙玄! お前のせいで兵が十人死んだではないか!」
「バカやろ、知るか!」さらに締め上げる妙玄。
「お、おむつが許容量を超えたのじゃ! 仕方あるまい! それとも何か! わしに垂れ流しにしろと!」
「どっちも不許可だ! ちゃんと便所に行きやがれ!」
さすがに朱莉はその様子を見て部屋に踏み入り止めに入る。
「ちょっと妙玄さん! やめなさいってば、足腰たたないお年寄りにそんなこと……!」そう叫んだとたん、妙玄は激しい音とともに襖を破り頭から押し入れに飛び込んでいた。
足腰が立たない老人どころではない。観寧阿闍梨はカポエラのように両手をキーボード上に配したまま大きく足を広げてアクロバティックな蹴りを放ったのだ。
「何度も言っておるじゃろう! これはネトゲではなく世界の危機を救う崇高なる使命の行使なのじゃ!」
蹴り飛ばした相手を一瞥もすることなく観寧は「朱莉、そいつを連れて僧堂で待っとれ、これが終わったら行く」といい、ゲームを続行した。
「――ネトゲ廃人はみんなああ言うんだよっ!」駄々広い板間の僧堂で、朱莉の手当てを受けながら妙玄は吐き捨てるように言う。手当といっても頬と額に絆創膏を貼るくらいしかできないのだが、さっきのような光景を見た後では頭が動転して、何から訊けばいいのか解らなくなってしまっていた。
なのでこういう時の寄る辺は一つだ。
(鞠さん、鞠さん! 大変だよ!)
(見てたわよぉ。相変わらず元気ねぇ、カンちゃん)
(馬鹿みたいに強いのは相変わらずだけど、なにあれ! 用を足す間も惜しんでゲームに没頭よ? おじいちゃん呆けちゃったのかな?)
「呆けてねぇよ」
(だったらあれ何?)
「神鬼戦譚っていうマッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロールプレイング・ゲーム、略してMMORPGだよ。オンライン上でプレイヤー同士が協力して攻撃したり、防衛したりして陣地の取り合いをするゲームなんだとさ」
(へぇ、鞠さんよく知ってるね?)
「は? まりさん?」
(――え、と?)
「お前、なんで念話で話する訳?」
気づくと妙玄が朱莉の顔をのぞき込んで眉をひそめていた。
「ど、どわぁああ! なんで? なんで指向性念話が漏れてるの!」
「あ……わり。そっちだったか……」
(ありゃりゃ、聞こえるのね、彼には――どうも初めまして、でいいのよね? 周防朱莉の守護霊の、鞠と申します)
「ああ――こりゃどうも。お恥ずかしい所をお見せして申し訳ございません」妙玄はそそくさと居住まいを正して、両手を床につき「私にはあなた様のお声しか聴くことができませんが――印条寺の住職、妙玄でございます、以後お見知りおきを」と言いながら、床にひれ伏すように朱莉に正対して頭を下げる。
「ちょっと、いきなり改まって何? やめてよ」
「お前にじゃねぇよ――俺はさ、霊の声が聞こえる体質なんだ。低級霊だろうが天霊だろうが悪霊だろうが、邪神だろうが――さすがに天上神そのものの声までは聞こえないんだが――ま、垣根なく聞こえちまうんだよ。お前が背負ってる化け猫の声もな」
「ば、化け猫って……事情知っていてよく言うわね。それに何よさっきから“お前”ってえらそうに!」
「ああ、わりぃ。さっきのテンションでつい、な。朱莉ちゃんだっけ? で、そっちの猫がミケランジェロだったな」
朱莉ちゃん、とはこれまた馴れ馴れしいと頬を膨らませてしぶしぶ頷く。こうも素直に是正されると次の言葉に迷ってしまう。どうやらこの口の悪いのが妙玄の本性らしい。
ついでだと思い妙玄の背後にいるであろう守護霊を視ようと目を細める。ほとんどの人の守護霊というのは見えにくい。霊感応力者が視覚野でとらえる霊体というのは、たいてい現世に念力場を置く地縛霊か浮遊霊であり、守護霊は姿を隠している場合も多く、感じ取るのはそれ相応の霊感応力を必要とされる。
「なんか、視えるか?」
朱莉は目を見開き、妙玄の双眸を見つめ首を横に振る。
「いねぇんだよ、たぶん……」
「そん、な。背後霊も守護霊もいないなんて……」
「だから今までさんざん悪霊に憑りつかれてきた。今は自分で自分の身を守る術も覚えたから大丈夫だけどな。ただ空きがあるもんだとしょっちゅう物好きな霊が俺に憑いてくる。今は庭師と瓦職人と宮大工がいいように俺の体を使いやがる。どうも生きてる間にこの寺を何とか再建したかった連中らしい」
(ホントだ、あなたに専属で憑いてる霊はいないのね? 珍しいわ)
妙玄はちらと朱莉の背後に視線を送り、小さく頷く。
「ただ、ない袖は振れねぇからよ。材料が買えねぇから工事は一向に進まねぇ、ってわけだ。だからいつでもは居ねぇ」
なるほど、一介の僧侶というかロックミュージシャンが大工や庭師の真似事ができる理由が分かった。生前一流の職人だった霊が彼の体を借りてそれぞれ作業しているのだ。彼は極端な霊媒体質なのだろう。通常は意識的に相手を受け入れなければ霊に憑かれたりすることはないのだが、守護霊が不在となればそれはそれは出入り自由の便利な存在とみなされて、あちこちから霊が寄ってくる。彼は早苗とミケランジェロが行っていた並法根、すなわち部分同化というものを日常的に行っているのだ。こちらも大変なのだなと朱莉は思う。
「じゃあ僧侶やってるのも、ミュージシャンやってるのも霊の?」
「さすがにそこまで不誠実じゃねぇよ。れっきとした僧侶だよ。それにミュージシャンとしての夢も諦めた訳じゃない――この前のライブ、観てくれたか?」
「あ、いえ……ごめんなさい、あの時は」
「いや、構わねぇよ。人には好みもあるもんな」
(あかりんは行こうとしてたんだけど、ボクりんの件でね。出られなかったんだよ、ね)
おろしたリュックからミケランジェロが伸びをしながら妙玄に言う。
「こら、ミケランジェロ」朱莉はため息をついてミケランジェロの頭をなでる。
「そっか。悪かったな、あの時は。まさかこいつを介して婆さんが喋るとは思ってもみなかったんでな、おかげで俺と洋介君の悪だくみはぶち壊しになっちまった――ま、だが幸せそうなら結果オーライってとこか?」
「――それほどオーライってわけでも……っああ! そうだ! 葬儀の後ミケランジェロのことほっぽりだして逃げたでしょ!」
「いっ、や……俺は、ほら」
「ほらって何よ! おかげであたしの部屋には居候が増えてプライベートぶち壊しなのよ! なんであたしが面倒見なきゃいけないの!」
「いやいやいや、俺は訊いたんだよ、ミケランジェロにどうする? って! な?」そう言って妙玄はミケランジェロに同意を求める。
(ああ――ボクりんは、男は好かないから、気の利かない奴でも女の子の方がいいって言ったんだよ。あかりんの言い方だと、まるで妙玄しゃんが僕りんを厄介払いにしたみたいに聞こえるじゃないか)
「こっちも十分厄介よ!」
(心外だなぁ)
ミケランジェロはいつでも朱莉の辛辣な言を飄々と躱す。いくら獣といえど心臓にまで毛が生えているわけではなかろうに。
「大体あんたね、事情知ってるならトーコがああなるまでにどーして止めなかったの!」
(ボクりんはスーパーキャットじゃないからね、何でもは出来ないよ)
「二人ともまあまあ」妙玄が諍いを止めようと、さわやかな笑顔を向けて微笑む「――そうだ、法衣畳んでくれてアリガトな。礼を言う間もなかったから……」
だが今の朱莉にそんな言葉はどこにも響かない「しれっと一人だけ蚊帳の外に出ないでください!」バンと激しく床を叩いた。




