第五話 なんでもはできないの 5
翌日、うっそうと茂った雑木林の山道を朱莉は歩いていた。歩きやすいようにスニーカーにジーンズ、Tシャツは背中に背負ったリュックのせいで汗でべたべたに濡れていた。
(朱莉ちゃん、なんでミケランジェロまで連れてくるのよ)
「だあって、とりあえずトーコからの疑いが晴れたとはいえ、ミケは私の事情全部知ってるんだからやっぱまずいじゃん、こいつがいつ口を滑らせるかわかんないからね」
(失敬だな、ボクりんは口が堅い男だ)
「ミケぇ、どの口が言うかなあ? あたしの実家で散々ウチの事情暴露したでしょ」
(……ん、いや……ボクりんはただ母上様にキャラットグルメ缶をいただいて世間話を少々していただけで、なにも人の生き死に関するような悪だくみはしてない!)
「こいつ、食いもので買収されやがったか……」
(朱莉ちゃんもあんまり変わらない方だと思うけど)
「失礼ね! あたしはぁ、食べ物に釣られてるわけではなくて対価を受取っているの!」
(同じだよ)
(同じよね)
蝉が大合唱を繰り広げる雑木林を抜けると、やがてその先は竹林になる。道は荒れ放題で軽自動車が通れるかどうかといった幅しかない。
「おじいちゃんとも久しぶりだなぁ」
(そーよ、前に直接会ったの三年くらい前じゃない?)
「そんなになるかな? たしかもう百は超えてたような……生きてるかな?」
(亡くなってるわけないでしょ、就職祝いにテレビもらったんだから)
「あはは冗談よ。ま、生死の境界があたしほど曖昧な人間もいないと思うけどね――たしかこの辺だったんじゃないかなぁ」
朱莉は竹藪の途中で立ち止まり、あたりを見回す。人の手も入っていない竹林だ、木々は好き勝手に生え放題で、あたりは薄暗く気味が悪い。こんな人里離れた山奥に人が住んでいるなど誰も思いはしないだろうが、かつてこの道は旧街道で茶屋や宿場もあって栄えていたのだという。そしてその中心には印条寺という古くから伝わる寺院があった。
朱莉が前に訪れた三年前も廃墟の様ななりをしていたが、参拝客もろくに訪れない上に、ハイキング客はこぞって“廃寺”などといって目印にしているくらいである。最近では廃墟マニアなどがちらほらと訪れるようだが、いずれにしても寺として機能しているようには見えない。
「おじいちゃーん! いきてるぅ?」
(相変わらずの荒れようね……まあ、無理もないか)
崩れかけた門と壁には蔦が這い、その奥は雑草が生い茂りとてもじゃないが中に進入しようという気にさせない。ただこんなお化け屋敷然とした佇まいでありながら、霊の類は一切見当たらない。これこそが朱莉が“おじいちゃん”と呼ぶ観寧阿闍梨その人が健在であるという証である。
朱莉はそのままずんずんと境内に入ってゆきお堂の周りを巡る。ところがどうだ、部分的にではあるがきちんと草が刈られ、庭が綺麗に整えられている箇所がある。お堂の一部も新たに壁板がやり替えられた跡があったり、瓦もところどころが新しくなっている。傍らには電動工具や大工道具、セメント袋や一輪車が置いている。
「あれぇ、おじいちゃんやる気だしたのかなぁ?」
きょろきょろとあたりを見回していると「なにか、何か用ですか?」と声がする。どこから発せられたものかすぐにわからず、さらに声を探してあたりをうろつく。そうしているうちに「うえうえ、うーえ!」と再び声がする。
見上げた屋根には青い作業服を着た青年が瓦を抱えて立っていた。タオルを頭に巻き、サングラスをしていて顔は解らないが、明らかに百歳を越えた老人ではないことは解る。
「ああ、業者さんですか? ここの住職を訪ねてきたんですけど」
「だれ?」屋根の縁に座り込んで値踏みするように上から朱莉を見下ろしている。
失礼な工事業者だと、朱莉はむっとする。
「周防といいます! こちらの住職の知り合いです!」
青年はタオルの上からぼりぼりと頭を掻いて、やがて気づいたように「ああ、ジジイか」と、梯子を伝って軽々と降りてきた。
こんな廃寺のような住職でも観寧は名高い僧侶だ、まして若者から“ジジイ”などと呼ばれるような人物ではない。
朱莉は不快感をあらわにして、一言言ってやろうと青年に詰め寄る。
「ちょっとあんた――」
しかしサングラスと頭のタオルをとり払った青年の顔を見て、何も言えなくなった。
「あっれー? 天華会館の――!」
(ありゃりゃ)
「み、妙玄さん……なんで!」
「ここの住職は俺だよ、ジジイは中にいるんじゃねぇかな」
妙玄は頭に巻いたタオルをとり、両手で髪をくしゃくしゃと掻き、視線でお堂の中を指す。
「え? いつからなんです。おじいちゃん引退したの?」
「引退って、僧侶にそんなもんあるかよ。ただ俺が寺の守りをすることになっただけだよ。それでこんな事やってるってわけ」
妙玄はツナギの作業服に覆われた長い手足を広げておどけるように言うと、ついてきなよ、と朱莉を中に誘う。
思えば天華会館でも葬儀のたびに印条寺の名前は見ていたはずだった、なのにそれとは気づかなかったのは若い僧侶、妙玄のインパクトが強すぎたためだった。
バンドマンの次は土木作業員かと、ますます訳の分からない僧侶だと訝しみながら、朱莉は彼の広い背中を視界に入れつつ、本堂の階段に足をかけ、堂内へと足を踏み入れた。
別に彼に案内してもらわずとも観寧が寝起きしている坊の場所など知っているが、左に坪庭を見つつ廊下を歩いて妙玄の後に続く。驚いたことに以前は枯れた雑草がわんさと茂って泥沼のようになっていた坪庭は、鏡の様な水面を揺蕩わせて緑の蓮の葉が数本凛と佇んでいる。三畳間にも満たない坪庭だが、実にシンプルな庭の造りに思わずため息が出る。
「これは……妙玄さんが?」
「ああ、庭とかわかんねぇけどさ。とりあえずちょっとずつは綺麗にしていかなきゃなって。金がないから全部DIYだよ」
妙玄はそういうも見事なものである。その場にある物で上手くこの三メートル弱四方の空間に池と石と植物を上手く配して、小宇宙を作り上げている。彼を買いかぶりすぎかもしれないが、中心に佇む蓮の植生はまるで、宇宙に浮かぶ生命の源を象徴しているかのようで、見る者に心の平静を与える。
やはり音楽という創作的なことに携わるが故のセンスなのだろうか、作業着姿にセンスの欠片も感じはしないが、人間の見た目と中身が比例しないということは朱莉が一番よく知っている。
外から見てみれば廃屋同然ではあるが、居住スペースに近づくにつれ、割にまだきれいに保たれていることが判る。電気も問題なく通っているようだ。ちらと覗き込んだキッチンが埃まみれで手つかずというわけでもなく、ちゃんと生活感がある。
「妙玄さんはここに住んでるんですか、おじいちゃんと」
「そりゃあ住職だからな。寺の修繕と維持は最低限の義務だよ」
「ねえ、もしかしておじいちゃん病気か何かで寝込んでるとか?」別の部屋の傍らに介護用の成人おむつが置かれているのが見えた。
「いや、そういうわけじゃないんだが――あの、お前さ。さっきから“おじいちゃん”って呼んでるけど、どういう関係? 身内じゃないだろ?」
自分だって“ジジイ”なんて呼んでるくせに、とは思ったが「昔からお世話になってるんです、ほとんど身内みたいなものですよ」と、二年前にここに来た妙玄よりも付き合いが長いことを暗に示す。
しかし「――まあ、その身内が俺ではあるんだけどな。すごく遠いんだけど」と頭を掻きながら応えられると返す言葉もない。
「そ、そうなの? 遠いってどのくらい? おじいちゃんは身内はいないって言ってたけど……」
「ははっ、ジジイの従妹の孫なんて正直なところほとんど他人だよな。もっとも数少ない身内の中から俺が選ばれたってことなんだけど――おい、ジジイ! お客さんだぞ!」
身内とはいえ、やはり年長の者に対してその物言いはいかがなものかと思うが、朱莉は妙玄が開いた障子戸の部屋内をのぞき込む。
ムッとした空気が朱莉の顔をなぜると共に異臭が鼻をつく。そこに開かれた光景は驚くべきものだった。室内は雑然とし、まだ夏だというのに部屋は閉め切りエアコンが効いているという様子はなく、明らかに換気がなされていない不衛生な環境だった。




