第五話 なんでもはできないの 4
男は朱莉の許可の元、体を起こし、深々と頭を下げる。
「ただ、シュリ様……あなた様のような方がここに居を構えているという事は後々厄介ごとの引き金となる恐れがあります、老婆心ながら何卒ご用心を。私はあくまで雇われのゴーストスィーパーにすぎません。本来明かすべきではありませんが、今回のクライアントは植丸不動産です。私は長年巣食っている地縛霊からこの部屋を解放しろという命を受けたまで。しかし、時と場合によっては再び事を構えることもあろうかと思います」
「ほう、この場に何か問題でもあるのか?」
「お惚けになってもらっては困ります。まさか樋井山をしらないとでも……?」
藪蛇だった。男が言った樋井山という山、霊山の名前なのか、高等な霊的存在であれば知っていて当然という事なのだろう。見透かされることを恐れて朱莉は応える。
「なんだ……そんなことに頓着しておるのか、人類は……ふっ」ダメ押しで鼻で笑ってみる。
「人類……まあ、あなた様ほどの存在であれば一括りにしてしまわれるのかもしれませんが……戯れにここにおいでなさった訳ではありますまい。その真意を私のような者に教示いただけるとはよもや思っておりませんが」
「ふははっ、まあ見ているがよい、人間よ。うおっほん! あー、あまり長くこれやると喉が……いや、我の意識支配下でこの女を虐げると腐ってしまうのでな、そろそろ元に戻さねばならん。よいか?」正直なところ酷い倦怠感で気分が悪い。技を使えば寿命が縮まる、という言葉を思い出し顔をゆがめる。だが、もう一つ言っておかねばならないことがある。
「はっ、では私めはこの辺で退散いたしましょう」男は名を名乗りもせず、恭しく頭を下げ身を引こうとしたので、朱莉は慌てて声を強くして引き留める。
「まっ、またれよ! まだ貴様を許すとは言っておらん」
「は……」男は瞬間的に恐怖に包まれた表情を浮かべ身構える。
「やはり……このまま無事に帰す訳にはいかないと、そうおっしゃるのですね……」戦慄を含んだ男の言葉尻は覚悟を示していた。
「……いや、今回の狼藉、我が城のドアと窓ガラスの修繕費用は貴様がもつというのであれば、許してやっても良いが?」
(朱莉ちゃんってやっぱり小市民よね)
(うっさいな、このまま帰したら、あたしが弁償しなきゃいけなくなるじゃない)
「私のオフィスです」と男が差し出した名刺を念動力で引き寄せる。右手に疼痛が走り全身に汗をかく。
体が無理を訴えている。「……せっ、請求書は……ここに送ればよいのだな?」
無言で首肯する男を見送り、壊れたドア枠に手をついてトーコに悟られないよう安堵のため息を吐く。
(なんか……よくわかんないけど上手くいった……でしょ?)
(でしょじゃないでしょが! 何も解んないでよくあんな対応するわね? ま、とりあえず一難去ったけど、あの子はどうするつもりよ? 朱莉ちゃん的には駆除してもらった方がよかったんじゃないの)
鞠が言うようにトーコはソファの背もたれから小動物のように顔を半分覗かせてこちらの様子をうかがっていた。
朱莉はゆっくりと彼女に視線を合わせると、薄く微笑みを返す。だがトーコは警戒しているのか何らリアクションを起こさず、やや引き気味である。もう一仕事。
朱莉はふっと息をつき、一度目を伏せ、首を左右に振り、それから大きく手を広げ「トーコ! おいで!」と無理やり笑顔を作った。
トーコはそれを受け、文字通り宙を走って朱莉の胸へと飛び込んだ。彼女が実体だったら、押し倒されていただろう。もう立っているのもやっとだった。
「わあああああ、シュリ様ごめんなさい! 私はシュリ様のことを疑っていました! やはり、やはりあなたは魔界の王なのですね! 魔族三十六氏族を統べる最強の朱の王、皇帝を守るため地獄の門をお一人で守り、この世との境界で息絶えるまで人類と戦い、現世に転生体として生まれ変わるまでに二千六百年、ようやく得た実存実体がイケてないこの女の身体とはおいたわしい限り。ですが私は下賤なる地縛霊の身ゆえ、外見に惑わされあなた様の本質を見抜けませんでした。あなた様ほどの存在の御傍に居られること、恐悦至極にぞんじますぅうう!」
朱莉は安堵の息とともにへたり込んだ。
しかし、自分の胸の中で泣きじゃくる少女を抱きしめながら、好き勝手にシュリ・バーミリオンを称賛する少女の発言に対し、疑問が沸き立つ。
魔族三十六氏族とか、息絶えるまで人類と戦っただとか、転生だとか、そんなことをこのトーコに語った覚えはない。朱莉は戦慄し、目を泳がせる。
(朱莉ちゃん……何がしたかったわけ?)
(い、いや……状況的にさ、か弱い存在が不安な表情を浮かべてこちらを窺っている、なんて時は両手をばっと広げて、力強くああ言うべきかなと……つい、反射で)
(それもなんかよくわかんないけど、まあ難局は去ったみたいだから私は抜けるわよ、はあ、疲れた疲れた)
(う、うん――それよりトーコの言ってるこの設定って……)
背筋にぞくりとするものを再び感じ、鞠が抜けてゆくのが分かった。しかし朱莉自身に新たに発生した煩慮の念はそれを上回る不快感をもって、すでに全身を駆け抜けている。
「トーコ……あたしの正体のこと……」
トーコは一瞬びくりとして、たじろぎ、おもむろに一冊のノートを傍らから取り出しひれ伏した。
(申し訳ございません! シュリ様のお部屋を掃除しているときに見てしまいました。これはシュリ様が、このイケてない女の体に同化してしまわぬよう書き記しておいた波動書記だったのですね……私はこれを見てシュリ様は魔王などではなく、おおかた中二病的に書き記した痛い黒歴史ノートだと、恐れ多くもあなた様は魔王を騙る俗人の腐女子だと思い込んでしまいました――――どうかお許しください、この罪、どんな罰でも受ける所存でございます!)
トーコは土下座の姿勢のまま、『Dintulni Abwehren Shri Vermilion Molihua』と書かれたノートを床に置き朱莉に差し出した。
ちなみに『ディントウルニ・アブフェアエ・シュリ・バーミリオン・モーリホア』とは『周防朱莉』の四文字を分解し、イタリア語とドイツ語と英語と中国語を順番に並べただけの意味しかない。読みも当時の朱莉の想像で、発音もでたらめである。従っていくら朱莉がシュリ・バーミリオンを騙ったところで、韻枢術的には名前が意味を成さないのである。そしてとうの昔に捨てた名は、朱莉の過去感傷的ダメージにしかならなかった。
(これ、朱莉ちゃんのノート、中学の時に一生懸命書いてたやつよね。自分を魔王の生まれ変わりだとか、ちょっと信じてたもんね、あの時)
だらだらと流れてくる嫌な汗。
朱莉は今すぐにでも獣のような雄たけびを上げ、足元でひれ伏す少女を蹴り飛ばし、ダッシュで開け放たれたテラスから、真っ暗な十八階の空へと身を投じたい気分だった。
(あー、終わりましたか)
と、そこに音もなく四足で近づいてくる獣が一匹。
(うっはぉ! なにこれ? これあかりんが書いたの? うっひょ、恥ずかしい!)
「ミ、ミケランジェロ……あんた、早々に逃げ出しやがって!」
(なになに……すおうあかりのしょうたいは、まかいのこうていにつかえるじゅうろくてんまおうのひとり、せんこうのしゅりであり、『しゃいにんぐてれぶーすと』というわざで、こうそくいどうができる、しゅんてんのしんれいであり……よをしのぶにんげんのすがたをとき、ほんらいのちからにめざめるには、てんまえんらいのここうあらはりし――)
「よっ、読むなぁああああ! だあっ!」
咄嗟に朱莉は、残る力を振り絞り、ミケランジェロの首根っこをつかんで漆黒の闇が覆いつくすテラスへと投げるが、彼は空中で身をひるがえし、猫らしくしなやかに着地する。
(シュリ様!)
(朱莉ちゃん!)
(ふう、あぶないあぶない、ボクりんじゃなかったら死んでたぞ……ふむ、あかりん。キミは立場をわきまえてないようだねぇ)闇に光る双眸が不敵な笑いを秘めている
動物愛護の精神は結構だ、だがそれは動物が書いて字の如く、“動く物”としていたならばの話である。しゃべって人の世に干渉してくる猫を猫としてなど認められるものか。
(ミケを投げるなんてひどいです、落ちたらどうするんですか!)
(魔王を演じるのもいいけど、やりすぎよ)
猫好きの二人に責められ、ただひたすら顔をしかめるしかない朱莉は体力の消耗とともに急速に精神力を消費してゆく。そして「なんなの……」と俯きながらつぶやく。
(え?)
(なあに? きこえなかっ――)
朱莉は責め込む二人を押しのけるように立ち上がり「んなんなんふたりとも! あたしがどれだけ今まで苦労してきたかわかってんの! ええ? ふっざけんな! ばかにすんなぁ! だあああああっ!」目を血走らせ、両こぶしを天に振り上げ叫ぶ朱莉を見て、二人の“家族”はおののき言葉を失う。
「ふ、は……ははは、わ、我に逆らうでない! 我はこの城の主ぞ! ふあっはは! 我に逆らうものはこの手でくびり殺してやるわい! 我に逆らうものは……我は……あ!」
そうしてこと切れるように朱莉は白目をむいて、バタンと派手に仰向けに倒れた。
(え、シュリ様?)
突然倒れた朱莉を目の前にして驚き駆けよる。
(シュリ様! どうしたんですか!)
トーコはなす術がなく、ただ狼狽し薬箱を探しにおろおろと部屋の中をはしりまわる。
事情を知る鞠は、腰に手を当てて横たわる朱莉を見下ろしている。
(ありゃあ……頑張りすぎたか。一晩寝れば元気にはなるんだけど、どうしよう。私からトーコちゃんに伝えられないし……)
初めてやった律法根であれだけの無理をすれば、体力も精神力も使い切るのも無理はな
かった。
すると、(おやおや、お困りのようですな?)テラスの暗闇から姿を現したミケランジェロがすたすたと鞠に近寄ってくる。
(まあね……猫の手も借りたいとは、このことかしらね――ミケ、お願いできる?)
(ま、仕方ない。鞠しゃんの頼みなら一皮脱ぐよ)
鞠はふうと嘆息し、膝をつき(朱莉ちゃん、お疲れさま。ゆっくり休みなさい)と、朱莉の頭をなでて愛おし気にはにかんだ。




