第五話 なんでもはできないの 2
「もしもし? 山岸さあん? もしもーし!」
外の光の照り返しで掃き出し窓は鏡のように、スマートフォンを片手に立ちすくむ朱莉が映っており、その傍らには鞠が両手を腰に当てて立っているのがみえた。
(朱莉ちゃん、これちょっとやっかいな奴っぽいわぁ)
「ねえ鞠さん! あの人なんなの? 真っ黒で暑苦しい……」
(おそらくは呪噤師の類……韻枢を操る者。こっちも一時的に組み入るわよ)
鞠はやや畏まった表情ですっと手をかざすと、朱莉の周囲に通常の人には見えない、半透明の輪を造りだす。輪は朱莉を取り囲んで円柱状に伸び、体ごと筒に収められたようになって、やがてぞくりとする冷たい衝撃とともに円柱は細い線となって朱莉の天頂に収束し消えた。それ以外は何も起きていない。
「あれ、鞠さん? どこいったの? なんかやった?」
(朱莉ちゃんの中に私が入ったの、二心同体ってとこね。これで私は自分の体のようにあなたの身体を動かすことも出来るし、朱莉ちゃんも強力な念動力が得られる、ってわけ)
「え……すご。魔法みたい……こ、これってあれでしょ、フュ――」
(――律法根よ。朱莉ちゃんの式と私の式を掛け合わせてる状態。こんなサービスめったにしないんだからね?)
「なんすか、そのツンデレ発言は……」
(とりあえず状況次第じゃ荒事になるから!)
朱莉は自分の意思とば別の意思、すなわち鞠の意思により窓に張り付き中の様子をうかがうため耳を澄ませていた。
妙な感覚だった。自分の意識も鞠の存在も感じるのに、体は意識している半分くらいしか制御できない。意識を離せば鞠に体を乗っ取られるようでもあるし、逆に強く求めれば、鞠を取り込めそうにも感じる。こんなことができるなんて朱莉は今まで一度も鞠に教えられたことはなかった。それだけ非常事態と言う事なのか。
山岸の言ったゴーストスィーパーの男は、背中まである長髪に全身黒づくめの暑苦しいスーツ姿で、清掃員というには洒落すぎているように思えた。トーコはソファに腰かけたまま腕組み、リビングの備品を宙に浮かせて今にも闖入者を攻撃しようと構えている。
「私は厚生労働省認可特殊土地建物清掃業の清掃士の者です。本日はお話合いに参りました」
(ふん、私が見えるの? 随分な霊感応力があるようね――しかし、うちのドア蹴破って、どう見ても話し合いって態度じゃないでしょう)
「鍵を開けたのですがね、どうも開かなかったもので少々特殊な手段で開きました」
(結界を破って? 強盗にでも来たの?)
「度重なる霊障にこちらのオーナー様が頭を悩ませていると、私に霊掃をご依頼されましてね。こちらに入居されていた方はすでに退居なさったとお聞きしていましたが――」
トーコは半眼でテラスに居る朱莉に視線を流すとにやりと笑う。
窓からテラスに締め出されたままの朱莉は二人のやり取りをただ見守るしかなかった。ここの契約者は自分なのに、何を勝手に話を進めているんだと窓をたたいて抗議した。
それに対し今気づいたかのような顔を向けて、男がちらと朱莉を見据える。
「彼女は?」
(あの人間はあたしが飼っているペットよ。あんたがここで変な真似をしてみなさい、あの女をテラスから弾き飛ばすわよ)
「おやおや、大切なペットではないのですか?」
男は不思議なものを見るように朱莉の顔をまじまじと覗き込んだ。
剣のように鋭い眼、尖った鼻に薄い口、白い肌に真っ黒な衣装も相まって、冷徹という修飾語がよく似合う男だと朱莉は背筋に寒いものを覚える。が、今は人を選り好みしている場合ではない。
「――お兄さん! ここ開けて! おねがいします!」朱莉は懸命に叫んだ。
男はトーコに目を向け「開けなくてよろしいか?」と問う。
(人質の言うことを聞く監禁者がどこに居る)
「ふむ、なるほど。ペットではなく人質ですか……」
朱莉と初めてやり合った時と同じように、室内の備品は浮遊状態でスタンバイしている。男が動くのに合わせ、ポットやフライパン、鍋、包丁はもちろん、箸もフォークも総動員で兵隊のようにキリキリとに射線を向け警戒している。
トーコはこの事態を予測していたのだろうか。それとも過去に何度かあの男のようなGSの類を相手にしてきたのか。すぐに攻撃をしないあたり、手慣れていると感じる。
男も男で自分を取り囲む異様な状況にたじろぎもせず、部屋内を興味深げに歩きまわる。第一、あの結界の中で平然としていられるのは常人のなせる業ではない。男は壁に掛けられた額の絵の前で立ち止まる。
「ほう、この絵は、あなたですか?」
トーコは答えない。
その額に収めた絵は、朱莉が戯れにトーコを鉛筆画で描いたものだ。トーコの姿を鞠に説明するためでもあったが、トーコはそれをとても喜んで大事にしていた。
男はくまなく部屋を見て回ると再びトーコの前に立つ。
「なかなか良い部屋ですね。悪くない――して、なぜあなたはこの物件に留まろうとしているのでしょうか、ぜひお聞かせ願いたいのですが」GSの男は恭しく胸に手を置き首を垂れる。
(ふん、慇懃無礼とはまさにこのことだな。これから除霊しようとしている相手に向かって……ここはあたしのうちだから。それ以上の理由が必要なの?)
男の横顔はわずかに笑みを含んでいる。けして目の前の女子中学生に畏怖を抱いて慇懃な態度を貫いているわけではないことは、朱莉の目から見ても明らかだ。これは圧倒的優位者による、人を見下したジェスチャーにすぎない。
「法的にはあなたのうちではありません。またあなたのご家族のうちでもありません。あなたのご家族が亡くなった直後、親族の方々は物件相続後に売却を希望し、当該の物件は競売にかけられ、落札者である植丸信輔氏の所有する不動産として登記されております。いわばあなたは他人の財産に不法侵入かつ不法占拠を続けているわけです」
男は懐から取り出した何枚かの書類をトーコに向けて見せた。おそらくは法務局から取り寄せた登記簿の写しだろう。
(はン、だからどうしたって? 警察でも呼ぶか?)
「いいえ。人の法で対処しきれないことはあなたも重々承知のはず。あなたはこの世には存在しないことになっているのですから――」
(――けど、あたしのことが見えるあんたにはどうにかできる、と)
「荒事は望みませんので、どうか穏便に退去を願いたく」
(どくわけないじゃない)
「左様でございますか。あなたには選択の余地があります。このまま私に消滅させられるか、話し合い納得して正転換、すなわち成仏するかのいずれかです」
(どちらもお断りね)
男はトーコの答えに何も返さず、静観している。
しばし無為に時が流れる。トーコからの応えを待っている、ともとれる。
(――ちょっと、何とか言いなさいよ)
男は黒のシャツのポケットから懐中時計を取り出し、ぶら下げるようにして時間を読んだ。
「五分」
(ごふん?)
「五分経ちました、話し合いの結果これ以上の議論は無意味と判断し、これより実力行使にてあなたに退去いただくことになります」
(ちょっとまて! 話し合いなんて――)
「もはや問答無用! 超過勤務は依頼主のご負担となりますのでっ!」
男は上着のポケットに両手を差し入れたかと思うと、すぐさまトーコに向かって掌を突き出した。その両手の指の間には何枚かの紙片がはさまれており、書かれている文様などからして呪符の類であることは確認できる。
トーコの対処はプロフェッショナルに対しあまりに遅すぎた。慌てて念動力を発動するも一瞬男の韻唱のほうが早かった。
「――悪霊退散っ……解っ!」
男が両手の指を組み合わせてつくった印を結ぶと同時に、トーコは座っていたソファから弾き飛ばされた。
トーコは物理体ではないため、床や壁に激突することもなければ、それによるダメージを受けることもない。霊視能力のある朱莉から彼女が弾き飛ばされたように見えたのは、男の持つ何らかの力で彼女の念力場を歪められたということを表している。人にして彼は鞠と同じ事が出来るのだ。
男の手の内にある呪符は水蒸気のような霧となってほとんどが消えたが、何枚かが残っていた。
「おや? うまく式が成立しませんでしたね、この部屋の分枢をぶつけてみたんですが。あなた一人の支配下ではないという事ですかね、やはり……」と男はトーコの受けたダメージのほどを観察して、一人納得したような顔つきをした。
(やっぱりね……それにしても、へえ、朱莉ちゃんの描いたあの子の絵似てるわねぇ)
「う、ええ? いまそれ? てか鞠さんトーコが見えるの?」
(今の私はあなたと同体で、あなたが見ている物が私には見えるし、私の能力はすなわちあなたの物でもあるのよ)
「ってことは鞠さんの持ってる念動力とかがあたしにも使える、ってこと? そんな便利なこと出来るならなんで今まで……」
(あんまり頻繁に使うと朱莉ちゃんの寿命縮むのよ)
「え? どのくらい?」
「五分で一年くらい」
「ええ! なにそれ! ライブチャットよりひどいじゃない! すぐに解いてよ!」
「……それ何かわからないけど、あの娘が癇癪起こして朱莉ちゃんを地面にたたきつけたら寿命どころじゃないわよぉ? もうさっき突き飛ばされたので朱莉ちゃんの体は紐づけされてるから彼女の念動力でチョイよ、私が憑いていなければね」
鞠の言葉はいつでも冷静で正確で的確だ。真夏の日差しのせいで噴出していた汗は冷や汗に転じ、朱莉の首元からそれほどない胸の谷間へと伝って垂れた。




