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5 麻邦沙助 Superwoman

 漆黒のビジネススーツとソフト帽に身を包んだ男は、活気のよいラーメン店のカウンターに腰を下ろした。即座に差し出される氷の浮かんだ冷水のコップをサングラス越しに一瞬目をやり、続いてメニューに視線を落とす。


 真夏の午後二時を少し過ぎた時間帯だったが、まだ遅い昼食をとる人々がまばらにおり、多くは何らかの仕事に従事する者たちばかりである。隣の席で汗をかきながら一心不乱に麺を口にほおばるサラリーマンの手元の涼し気なガラス容器に目をやる。窓外で“冷麺はじめました”というノボリがゆらゆらと踊っている。


 だが男はそれには興味を示さず淡々と「ラーメン大盛り」と口にする。


 店員は、本日何十回目だろうか「麺の硬さ、脂身の量、ネギの量などが選べますがいかがいたしましょう?」と機械装置のように問いかけてくる。


 ここのラーメン店の店員は皆勢いがいい。店員同士がそこここで声を掛け合っており、うるさいくらいだ。


 黒づくめの男は面倒くさそうに、カウンターに張り付けてある“麺の固さ―コナオトシ・ハリガネ・バリカタ・カタメ・フツウ・ヤワメ・ヤワヤワ”、“脂身チャーシュー―多め・少な目・抜き”、“ネギの量―多め、少な目、抜き”という選択一覧表を見やる。この手の表の一番下には決まって“情熱―多め・熱め・高め”とあるのはご愛敬である。


「ええと……コナオトシ、チャーシュー抜き、ネギ抜き、情熱抜きで」


「はっ?」


「いや、だから全部抜きで」


 男は時間にうるさい。食事とて出てくるまでに五分以上かかる店には入らない。この店員とのやり取りの煩雑さに声を荒げかけてしまう。


 かくして男の注文したラーメンは三十秒と経たずカウンターテーブルに運ばれてくる。白濁した豚骨スープに揺蕩うのは、打ち粉を落とすためだけに湯にくぐらせた、極めて固い、生にほど近い麺である。


 九州北部の豚骨スープのラーメンは細麺が主流で、これを固めで食すのが通とされており、十数年前から全国的に広がり、端々で派生した麺の固さの呼び名がそれぞれで定着している。


 多くはハリガネかバリカタ、あたりが好評スタンダードだが、麺に使われる小麦粉を味わうという達人になると、生でも構わないという。ただ店としては調理すべきものを調理しないで客に提供する訳にはいかないため、真実のほどは定かではないが、コナオトシなどという、形だけの麺茹で工程が生まれたという。


 しかし男は決して通ではない、達人でもない。時間が惜しい男なのだ。最も茹で時間が短い麺、いらぬ会話で時間を浪費したくもない。運ばれてきた器に箸を差し入れ、一気に麺をすすりだす。


 男は真っ黒なスーツの上着を脱ぐこともなく、頭にかぶったソフト帽をとることもなく、ともかく周囲には異様な空気を放っていた。注文したラーメンの奇異さもさることながら、暑苦しいことこの上なし。


 男がビジネスマンでないことは一目で明らかである。いや、ビジネスには携わっているのかもしれない。だが彼の隣のサラリーマンがやや肩をすくめるほどにその姿は奇異である。


 年嵩は二十代から三十代ほど、黒いスーツに黒いシャツというコーディネートに、腰まである長い髪はまったくもって堅気の職業を感じさせない。この異様ななりに店員をはじめ店にいる客のすべてが、男の五分間の一挙手一投足をひそかに注目していた。





 闇に響く足音。腹ごしらえを終えた男は真夏の路地を歩き、雑居ビルの階段を黙々と上っていた。三年前に火災があり、二階から五階までの全十室のテナントで十二名の死者を出すという痛ましい事故の記憶を抱える物件である。


 その後改装され、消火設備も消防規定に則り設置されたものの、たびたび火にまつわる事故が、ある一室にだけ頻発するという奇妙な現象が起きていた。店子の火の不始末など人為的なミスがあったわけではない、その部屋が空き室となっている時期でもたびたび出火しているからだ。侵入者による放火があったのではないかと警察や消防の調べも当然入ったが原因は突き止められなかった。


 いつしかこの部屋は呪われていると噂されるようになり、人が寄り付かなくなった。古い作りで全体は薄暗く、部屋はスケルトンにされ、きれいに掃除が施されていたが、最近のぼや事件のものだろうか、床の一部が黒く焦げて炭化している。


「本当に放火はなくなるんですか?」


 ビルの大家、紀の川五郎は丸々とした体躯に短い手足をあたふたと動かしながら、男の背後をついてゆく。


「オーナー、これは放火ではないと何度も言ったでしょう」


「いやしかし、あなたの言っていることが私にゃてんで理解できないもんでして……特殊建物清掃業ですか」


「理解できなくても構いませんよ、いずれにせよこのボヤ騒ぎが収まればいいんでしょう、オーナーとしては」


 黒いスーツの男は懐から電卓を取り出し、キーを叩く。そして鞄から出した請求書用紙に金額を書きこんでゆく。


「そりゃあもう、そうしてもらえれば言う事はない」男は出された見積書を見て納得したような顔を浮かべる。


「ただ、ですね。私はあなたからこの依頼額をいただくわけですが、あなたも対価を支払わねばならない可能性があります」


「なに、どういうことだ。私と君の間で交わされる契約なのだから、君に支払うのが本件解決の対価だろう」


 紀の川五郎はいささか不機嫌な声を出した。見積もりに載ってない金以外は払わないと。


「いえ、そうではありませんよ。ここは施工者の私と依頼人の紀の川さん、そしてもう一名の方の関係する現場なのですから――三角形を思い描いてください。頂点がそれぞれの立場なら辺は三つ、三角形なのだから当然ですよね。あなたと“彼女”の関係性ならこのような図形は組上がらないんですが、まあその第三者に物事を依頼するというのは得てしてそういうものです」


「な、何だ……彼女? 彼女と言ったか?」


「ええ、そこの空テナントに居座ってらっしゃる彼女……ええと名前は野掘……きょう子? ああ失礼、野堀洋子さん、と――本件は我々三者の合意的契約の上で行われる特殊建物清掃、すなわちゴーストスィープ……よろしければこちらの契約書にサインを」


 紀の川は野掘洋子の名を聞いた途端ガタガタと震えだし、「なっ、なにが、なにが起きるというのだ!」と滝のような汗を流しながら、男の袖をつかむ。


「因果律。このすべての宇宙の理に沿って我々は生きています。在るものを消滅させるとなればツケを払わねばなりません。かといって今のあなたと野堀さんの間で話し合いが成立するとは思えませんので、こうして私が調停者として出張っているわけです」


「な、何が言いたい?」


「負の念を正転換させずに、成仏――すなわち円満な霊界昇天はあり得ません。つまりあなた方が和解できない状況下で選択できる手段は一つ、対象の消滅です」


「だからそれを消し去ってくれればいいのだ! 百五十では足らんと言うのか? くそ、あの女め!」

 興奮した紀の川は気づかなかった。テナント内の空気密度が一気に上昇したことを。黒づくめの男は眉をひそめてその不快感に抗う。


「いえ、金額の問題ではありませんよ。私はあなたから対価をいただいて彼女の式を素韻枢分解しますが、彼女に組み込まれている“あなたに相当する分枢”には影響を及ぼします。これは最初にご説明させていただきましたよね――――もっともどの程度の影響があるかなどやってみなければわからないことですが」


 男は紀の川に悟られないようため息をつき、内ポケットから懐中時計を取り出し、蓋を開いて横目で時間を読む。


「私にツケが返ってくる……と?」


「ええ、お腹をこわす程度で終わる場合もあります。命をとられたという話は聞いたことがありませんから、現在のご自分の損得を勘定なされればよいかと――――さて現着五分です、これ以上の説明は無意味ですので早々にサインをお願いします」

 

紀の川はじとりと長身の男を仰ぎ見ると、拝むように契約書にサインをし、震える手で差し出した。



第五話テーマソングは『Superwoman』キャリン・ホワイト


曲名からしてポップでストロングな印象がありますが、しっとりしたバラードです。

「私はスーパーウーマンじゃないから、何でもはできないの、そんなに強くは居られないの」といった恋人の気持ちが離れてゆく様を、強く悲し気に歌い上げた名曲バラードでございます。


さて、これはテーマソングとしてイケてるのかどうか?


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