第四話 変わってみるのもいいんじゃない 4
ある日の放課後、部室のドアを開こうと手をかけた時、部員が何やらひそひそと噂話をしているのを耳にした。
“アリアは期待裏切らないっていうかさ、やっぱすごいけど、カブラは別の意味で期待裏切ってくれるわよね”
“そうそう、あの程度で認められたなんて信じられない。審査員に評価されたなんて吹いてるだけじゃないの?”
“実はさ、言ってなかったけど、あたしカブラの描く絵って気持ち悪いから嫌い”
“ああ、そうそう、なんかおどろおどろしいよね”
“なんかあの子一人でスカしてて、高慢っていうか、さすが一人っ子って感じ?”
“腐ってもお姫様なのよ”
“だいたいあの右腕の包帯何? 願掛けのつもり?”
“きもーい”
こんなやり取りがなされた後、哄笑に埋もれる三人の部員の目の前で、勢いよく扉を開くのが自称魔王の転生、朱莉という女の子であった。舐められてたまるかと。
「キモくて結構! お花畑頭ン中に咲かせて一生酔ってろ! 馬鹿ども!」そこに朝子はいなかった。朝子に一方的にすり寄る有象無象の信者三人組だ。
そのままぴしゃりと扉を閉め、廊下に立ち両手に握り拳を作って肩を怒らせる。
“ああ、びっくりした……”
“カブラずっと扉の外で聞いてたのかな?”
“なんかそれって惨めだよねぇ”
“きもーい”
再び哄笑に沸きかえる部室内。
人の悪口は聞こえないところでするものだ。
朱莉は再び扉を開き、ずかずかと部室に入り込み、三人を片っ端から平手打ちにした。場は騒然となり、通りがかった美術教師に止められこんこんと職員室で説教を食らった。
この事件以来部活動から足が遠のき、自宅で悶々と過ごす日々が続いた。
部活にも出ず、学校から帰ると部屋にこもりノートに妄想を書き綴ることもやめ、クロッキー帳に絵を描き続けていた。
「あんた、最近部屋に籠ってばっかりで何やってるの? 勉強してるわけじゃないでしょ?」母親の小言の始まりはまずはこんなところだ。
だがいつもその瞬間に、母は必ずダイニングテーブルの例の空席をちらと見やるのだ。この母の不可解な行動に朱莉もいい加減不快感を持っていた。
「ごちそうさま!」
「ちょっと朱莉、こんな時間からどこ行くの!」
「友達のとこ行ってくる! 借りてた本返すって約束してたから!」
朱莉は母親の制止も聞かずにドアを開け出て行ってしまった。もちろん本を返すなどというのは口実だ。このところ小言を言われるとすぐに癇癪を起して出てゆくようになっていた。
イライラする。何がうまくいってないわけではない。コンクールだって大多数の賛同が得られたわけではないにしても、一流の作家から評価を得たのだ。それだけでも誇っていいはずだった。
確かに朝子には実力で負けている、それは認めている。だから彼女に向かって腹を立てたり憤慨したりすることなどない。勉強が好きなわけじゃないけど、成績は中くらいを保っている。友達だっている。だけどなんだか満たされなくて、せつなくて、やるせなくて、何をするにも憤る。
朱莉はふと右腕に巻いた包帯を見つめる。何をやってるんだと思う。こんなことしてたって何にもならないのに。彼女に勝つためにはもっともっと練習しなきゃいけないのに。
曲がり角に差し掛かった時、衝撃と同時に視界が真っ暗になって尻餅をついてしまった。よそ見をしていて通行人とぶつかってしまったのだ。
「イタぁ……。――あ、すみません、大丈夫ですか?」
朱莉は倒れてしまった街灯の当たらない暗闇の中の相手を労り、手を伸ばした。
「いえ、大丈夫です……あれ、周防さん?」出合頭にぶつかった相手は有元朝子だった。
「あ、アリア!?」
そう呼ばれた朝子は立ち上がりながら「ちょっと、外でその名前で呼ばないでよぉ」と抗議される。
「ああ、ご、めん……」だが顎を引き俯く朱莉に、彼女はすぐに顔を綻ばせて噴き出した。
ずっと心に秘めている対抗心。勝手にライバル視している相手が目の前に居る。
「周防さんはおつかい?」
「ううん……ちょっと、ぶらっとね、気分転換。うまく絵が描けなくてさ」
「そっか、頑張ってるんだね。最近部活に出てこないからどうしてるのかなって思ってたんだ――そうそう、周防さんに言おうと思ってたんだけど、周防さんの絵って、色彩感覚や構成バランスはすごくいいよね、私には真似できないなって思うよ」
「……え、そうなの?」
「ん、そうだよ。絵って人真似はできないから面白いよね。それっぽく描くことはできるけど、でも自分の内側から湧き出たものじゃないから、どこかちぐはぐなものになる。自分の描きたい絵を描けるって、多分一番うまく描けたって思える瞬間だと思うんだ」
朝子の言っていることはなんとなくだがわかる。最初に絵を描き始めたのは何かを真似たはずだが、描いているうちにそれが自分のものになる。身の内から湧き出るように答えを探すまでもなくペンが走り、色彩が乗ってゆく。
漫画研究会に入ったころ朱莉は朝子を意識するあまり、自分の絵が描けなくなっていた時期があった。そのジレンマが反動として反抗心に変わった。そういう事だったのかもしれない。
「最近、コンクールからこっち、うまく書けるような気がしなくて……」
「私もそういう時があったよ。でも大丈夫だよ」
“そういう時があった”ということは朝子は今の自分の状況を経験し、すでに乗り越えたということなのだ。朱莉の思惑は尊敬とともに嫉妬へと転じてゆく。底意地が悪いと知りながら。
「周防さん、摩天芳武好きでしょ?」
「え?」
「わかるよ。私も好きだもん。だけどね、引っ張られちゃうから、彼の絵は強すぎて」
まるで自分の彼氏と付き合っているのだと、女友達から突然告げられたような衝撃だった。それも自分よりもはるかに彼の事を知っていると仄めかされている。
「影響は受けるものだけど、いつか抜けないと。自分の絵は描けないよ。私たちは所詮何も生み出せていない、今の時点では」
参った。朝子はもっとずっと先を歩いていた。いや、全力で走っている。朱莉が感じた困難も、焦燥も、迷いも、彼女は乗り越えてきているのだ。敵わないと思った。
朱莉は嘆息をついて白旗を上げつつ、「これからどっか行くの?」と口元を緩め表情を崩した。もっと話がしたいと思った。
優しい表情を浮かべる朝子は、私服で背中にリュック、小脇に描画用の大きなカンバスを抱えていた。
「ああこれね、今わたし美大受験予備校に通ってるんだ。東京芸大のデザイン科狙ってるの。難関だからね、中学の時からやっておかないとダメだって」
さも当たり前のように、彼女は朱莉に言った。悪意はないのかもしれなかったが、今の朱莉には蔑まれているようにも聞こえた。
「私、将来デザイナーになるのが夢なんだ」
「え、漫画家とかイラストレーターとかじゃなくて?」
「アハハ、あんなのは遊びだよ。息抜きで好きな絵をかいてるだけ」
「――そう……なんだ」
「それに将来絵を仕事にしたいって考えたら、あんな水物商売じゃ不安だし、やりがいだって規模小さいじゃない? 読者のためとかファンのためとか、挙句はああしろこうしろって横槍入るし、泣く泣く言いなりなって、部数に怯えて干されないようにゴマすってさ。そんなの私はごめんだな。どうせ目指すなら大手企業のデザイナーって決めてるの」
唖然とする朱莉をよそに、朝子の将来ビジョンは世界へと羽ばたいてゆく。
自分は将来のことなんて何も考えていなかった。ただ目の前のライバルに勝つことだけ、そればかりに拘って、妙な自尊心ばかり膨れ上がらせていた。時を戻れるなら、封印が解くとか馬鹿なことやり始めた自分を絞殺してでも止めさせたかった。
「どうしたの周防さん、顔色悪いよ?」きっと青ざめているのだろう。そんな自分を心配してくれているのだ。
だが今の朱莉には彼女が薄ら笑いながら言っているようにしか聞こえなかった。最低だ、こんな自分。
「――なんでもない」
「でも、なんか具合悪そう……家まで送ろうか?」
憂慮の気持ちを勝者の余裕か、などと思うひねくれ具合も正視しがたい。
「なんでもないったら!」
朱莉は踵を返し駆けだしていた。悔し涙だろうか、頬を伝う液体がなぜ、どんどんと、とめどな零れてくるのか判らない。
朝子が悪い訳でも何でもない。結局まだ自分は負けてなかったのだ。負けていると自他ともに公言しながら、負けを認められていなかったのだ。
たどり着いた誰もいない公園で朱莉は乱暴に右腕の包帯を解いた。
慣れない毛筆で象徴的な文様を書いた符がはらりと足元に落ちる。
「何ができるって? あたしに何ができるって? 何かができると思った? できてるって思ってた? できてないじゃん、何もわかってないじゃん……死にたい……恥ずかしい……あたしは馬鹿だ……馬鹿……ばかで最低だ、キモいんだよ……ば、か……」
湿った声で呪文のようにつぶやくと、符を足裏で踏みつけた。粉々になり読み取れなくなるまで、原形がなくなるまでぐちゃぐちゃに踏みつけた。
いつかは自分も陽光の元で空を飛ぶのだと、天高く舞い上がる鷹のように輝かしい朝子をいつも恨めしく見上げていたはずだった。だが自分は朝子とは違う。目指す高みも見えなければ、どこへ飛ぶともしれず、描いた絵は周囲から忌み嫌われただけだった。これではまるで醜い夜鷹だ。いっそ燃え尽きて星になりたいとさえ思った。
だがいくら星空を見上げても、再び飛び上がる事が出来る気がしなかった。




