第一話 ようこそホテル・カリフォルニアへ 2
「くそ、逢魔が時か……」
朱莉はテラスから山間に沈む美しい夕日に目を細めた。朱莉の借りた部屋は地上十八階建ての最上階で、これとほぼ同じ景色が部屋に居ながらリビングのソファに座って優雅に楽しめるのだが、今はそんな気分ではなかった。
少し気を落ち着けろと、背後の山間から吹き抜ける清涼な風が、朱莉の傷んだおくれ毛をもてあそぶ。
普通よりも高額な保証金を払ったばかりだ。まして家賃一年分相当の違約金など支払えるわけがない。親にすがろうにも、彼らがそれしきのことで同情して手を差し伸べてくれるとは思えない。
ここから電車でわずか二駅の実家だが、今更戻る気はない。そもそもあの家が嫌で就職を機に一人暮らしを始めようと思ったのだ。
大学を出ても就職は決まっていなかった。周りの学生の半分以上がその体たらくだったからすっかり気が抜けていた。何とかなるだろうと。
だがいざ社会の風に吹かれてみれば我が身はさながら、毛皮を一糸まとわぬ因幡の白兎である。白兎のように虚言に翻弄され取り返しのつかないことに身をやつすほど愚かではないが、地方芸大のデザイン科を出たというだけの自分に、どれほどの価値があるかと問うてみれば明快である。
恐ろしいほどの霊感応力の持ち主であれ、それと人生の豊かさが正比例するわけではない。両親がいい例だ。父は中小企業の中間管理職、母は市役所職員、よくある自称中流家庭。ただ朱莉をこの歳まで育て、望んだ学費の高い美術大学にまで進学させてくれるだけの甲斐性はあった。
そのことには感謝する。だがあの家には問題がある。いや、あの家族に問題がある。
朱莉はしばし大学時代までの自分を振り返り、深いため息をついて沈みゆく五月の夕日を見送る。
バイト尽くしの学生時代、卒業間際になって慌てて就職活動を始め、何とかこの六月からの異例の中途採用で滑り込んで就職を決めた。
今は仕事をして生計を立てることが目下朱莉に課せられた重要な責務だ。そうしなければこの県下最低クラスの激安の家賃すら払えない。職種だって贅沢は言えなかった。
朱莉が就職することになったのは『シエルブリリアント』という結婚式場である。
『AUNグループ』傘下に属する、業界大手の結婚式場の職員といえば聞こえがいいが、離職率が激しく今期も五月で早々に新入社員が退社し、人員が不足していたのだそうだ。
職務内容は朱莉の経歴を見越し、式のプランやデザインをコーディネートするウェディングプロデュース部門へと編入されるという話で採用された。
全国的にも有名な『AUNホールディングス』という巨大複合企業における世間の評価は悪いものではない。入社一か月やそこらで退社するような輩はおおかた根性のない甘ちゃんで、理想と現実のすり合わせが出来なかった者たちに違いない。
朱莉は目下企業の体裁や将来性を顧みて就職を選ぶつもりはなかったが、長いものには巻かれておくが良いとの周囲のアドバイスに従ったまでだ。それに、少しでも自分のセンスや技術が生かせる職場であることをうれしく思ったし、そこそこに明るい未来を描くこともできた。
だが自分は人付き合いはあまりうまい方ではないと自負する。人との感覚がずれていることは芸大に行くまでもなくわかっていることだった。まして結婚式場というお仕着せの華々しい舞台で、自分のようなエキセントリックな人間がうまくやっていけるのだろうかという不安はあった。
「ねえ、鞠さん。あたし上手くやっていけるかなぁ」
荷造りの梱包を解き切らないまま散らかった部屋を一旦置いて、地縛霊に切られた前髪を気にしながら洗面所の鏡越しに語り掛ける朱莉。もちろんこの一人暮らしの洗面所には朱莉以外の人間はいない。
ところが鏡に映った朱莉の背後の壁がぐにゃりと歪み、そこに人型の影が形成されてゆく。それと同時に(どうしたの、今から泣き言?)という声がする。いずれも朱莉にしか感知できない鏡の中の人物であり、声である。
母親よりも少し若い、四十がらみの美しい和服の女性が鏡越しの朱莉の背後に現れる。
幼少の頃からつかず離れず、ずっと一緒に居た朱莉の守護霊、鞠である。
朱莉はほぼどんな霊の姿も通常の視覚野で捉えることが出来たが、この鞠だけは鏡の中でしか姿を見ることができない。理屈は解らないが、自分の霊体を自分で視認できない事と同じような物だろうかと思っていた。
「だってあたし今までコンビニでしか働いたことないし、結婚とか考えたこともないし。それに、彼氏とか作ったことないし……それに、こんなだし」
(今からやろうって仕事に向いてる向いてないとか、そういうこと延べて言うものじゃないわ。いずれもこれからのあなた次第、あなたは自分で言うように完全な存在ではないのだから、偉そうなことを言わない)
鞠の言う事はいつでも正確で正論だ。声色は艶っぽく落ち着いていて、紡ぐ言葉は聡明で温かい。
困った時、悩んだ時はいつも鞠が相談相手になってくれた。母のような存在と言ってしまっては実の母に対しても、鞠に対しても失礼だと感じ、今までも口にしたことはない。ありていに言えば頼りになるずいぶん年上の姉か、親戚の叔母といった感覚で接している。
鏡越しに映る鞠の姿はだいたいいつでも同じで、和服に髪をあげて結い、切れ長の目と奥ゆかしい唇を持つ日本美人といった風貌だ。その髪型や着物の柄などから、なんとなく江戸時代やそれ以前の人ではないように思える。あえて言うなら明治時代か大正時代、あのあたりで亡くなった女性の霊だろうかと思う。
この淑やかな女性に対し色を落とし過ぎ金髪に近くなった髪と、目の周りを執拗に描きこんだ自身の姿はまるで中途半端な欧米人だ。
(まずはあなたが受け入れられるような努力をしなくちゃいけないわね)
鞠がそう言うように、朱莉は芸大時代からずっと髪色が黒であったことはなく、金はもちろんピンクであったり青、赤、緑、銀一通りの色に染めては戻しを繰り返してきた。就職活動時期だけはさすがに黒髪に染めたが、就職が決まってしまえばたちまち元のギャル風貌に戻した。
「誰彼となくこっちの都合も考えないですり寄ってくる人間は嫌なの! 外側の印象で優しいやら気が弱いやら、柔らかいだとか、清純だ、処女だ、ウブだとか、勝手に決めたがるのが人ってもんよ。これは私の自分を守る鎧なの」
人によって自分の印象が勝手に決められるなら、単純な方がいい。解りやすくて軽くて無害で、誰も触れたがらないような、そんな人間に見えるように振る舞ってきた。
(でも大人の世界は見た目の一発勝負よ。まずは懐に入ることが肝要。今までは守っていればよかっただけでも、これからはそうはいかないわよ)
「ふん、大人の自覚って見た目なわけ?」
(まあ、あなたが思っているように大人は大人に対して懐は深いものではないわね。大人が優しいのは子供として見られているからなのよ、要するにまともに相手にされてないってこと。そろそろ卒業しなさい)
「言うは易しだよ……こっちの世界にいる側からすればそんなに綺麗に考えること出来ないよ――それにここにいるあの子、鞠さん見た?」
(ああ、感じることはできたけど私とは次元が違うからこっちからは見えないわ。今はいないみたいだけど……ねえ朱莉ちゃん、その子どんな子なの?)
鞠は少し楽し気に声を躍らせる。
「なんでちょっと嬉しそうなのよ――あたしにもまだ見えないよ、“干渉”はしてきてないからね」
(いいお友達になれたら、一人暮らしでも寂しくないじゃない)
「いいよ、別に。あたしは鞠さんがいたらそれでいいもの。それに悪霊の気があるのよ? あんなのと上手くやっていけると思う?」
(あっちもこっちも見えて、付き合っていかなきゃいけない苦労は、私のような凡俗には計り知れないけどね。まあ、これも何かの縁だと思って受け入れるしかないわ)
「もうっ……いつも締めの言葉はそれなのね。ほんと頼りにならない……」
(はいはい、じゃあ役立たずはさっさと消えることにしますわねぇ)
「ちょっとまって!」
(なあに?)
「髪……切るの手伝ってほしい。後ろ、自分じゃうまくできないから――で、気分転換に髪染める。どれがいいか選んで――」そう言って鋏とヘアカラーを数種類洗面台に並べた。
鞠は視線を合わそうとしない朱莉の背中越しに、薄い唇を少しゆがめてほほ笑んだ。




