第四話 変わってみるのもいいんじゃない 3
部活を終え帰宅途中、地元商店街を歩いていると、小さなギャラリーを見つけた。そこには『特別展示 摩天芳武の世界』と銘打たれており、表には一見おどろおどろしい人とも動物ともつかない形象の何かが、荒々しい筆使いとヴィヴィッドな色彩によって描かれている一枚の絵が、ショウウィンドに飾られていた。
画家に詳しい訳ではない朱莉は摩天芳武という名を初めて見た。そして一瞬で魅了された。描かれた絵そのものは美しい、と思わず漏らしてしまいそうになるのに、見れば見るほどにそれが内包する厭らしさというのだろうか、エロティシズムも似た期待と不安が入り混じった衝撃を受ける。
気づいたときにはギャラリーに足を踏み入れていた。
「こんにちは」と掲げられた絵とはまるで対照的なベージュのチノパンと鮮やかなブルーのシャツを着た、若い男性がさわやかに微笑む。胸に名札をつけていることから、ここの人間だと判る。
見た目からして中学生の自分が、絵画を購入するなどと思われないことは承知の上だ。提示された金額は、朱莉の貯金を百倍にしてやっとお釣りがくるほどなのだから。
零の数を数えていると「これは原画でね、リトグラフのものがこっちだよ」と背中越しに声をかけられる。
指示された作品は先ほどのものの版画作品、要するに複製品だ。値段は原画の二十分の一くらい。それでも朱莉には到底手が届かない、大人にとっても大金だろう。
「気に入った?」
ふわっとした笑顔を少し離れた場所から向ける男性に、購入を促そうという意思は感じない。
「なんだか……うまく言えないけど、好きです」
「うん、とても個性的で力のある絵だよね。それだけに好き嫌いは分かれちゃう。魔力に憑りつかれたように惹かれる人も、忌むように避ける人もいる。ちょうどそれは悪魔崇拝のような物なのかもしれないね」
不穏な喩えをする人だな、と思ったが、なんとなくだがわかる。この絵を前にすれば画面から魔力が出ているなどと言いたくもなる。
小学校のころから自分の描く絵が抜きんでていることは意識していながらも、常日頃から周りと協調しなければと考えてきていた。褒められることに悪い気はしなかったが、天狗になり、高飛車だ、一人っ子だから我儘だ、協調性のないお姫様だなどと揶揄されることを嫌った。前に出ようとする気持ちを意識して抑えていた。
自分にこんな絵は描けるのだろうか。
「絵は人柄、ともいえるけど、実はそんな難しいことじゃないんだよ。ただ思っていることを描き切れるかどうかってだけなんだよ。人の本当の気持ちは人を動かす。だから魂を込めて描かれた絵に人は魅了される」
「本当の気持ち……魂を込める……ですか」
「内なる自分へ向けて貪欲に求める姿勢。本来絵は誰かに評価してもらうための道具じゃない。力を誇示するためのものなんかじゃないんだ。観る人は描いた人の探求心に感銘を受けている」
訊けば青年もこの絵に魅了された一人だという。絵を語るにはあまりにも少ない語彙の朱莉にとって、うまく会話が出来ないもどかしさが募る。結局一方的に喋る青年の話を聞いているだけだった。
ギャラリーの青年に礼を言うと、今月一杯やっているからまたいつでもおいでと微笑んでくれた。
摩天芳武のあの世界観を自分の中に取り入れたいという気持ちが、朱莉の中のシュリ・バーミリオンとつながった。人の世の闇を歩き、人知れず影響し、変革させる。
今となってはミニマムな自己顕示欲だと断じることは出来ようが、当時の朱莉にとっては自己実現性を高らかに謳い、自己完結型の主張を繰り返すことが自身への鼓舞であり、他部員に対して抱く優越感の源でもあった。言葉にして言えない矜持。ただの負けず嫌いだったかもしれない。ギャラリーの青年の言葉を完全に理解できなくともそれは仕方のない事だった。
その思いが具象化したのが、有元朝子に対するライバル視であった。朝子が悪いわけではないが、この取るに足らない漫画研究会をぶち壊し変える。無難な生き方、無難な選択、無難な色遣いに筆遣い。守り、媚びる連中を出し抜きたいという思いが広がっていった。
朝子にとって代わり、この部を魔王の色にして染め上げるカタルシスに体が震えた。自分にはそれが出来ると信じた。
その対決の火花が極限に達したのが秋の『全国中学生イラストコンクール』だった。
所詮あんたたちのような有象無象には理解できないだろう、と心の闇を表に出すことなく、朱莉は自分のスタイルで勝負をかけた。
彼女らが信奉する女神の描く絵は華やかですがすがしく、そしてとても可愛らしい。誰が見ても美麗と言える色遣いに感嘆のまなざしは吸い込まれる。
対して朱莉の作品は鮮烈な色遣いで荒々しい筆遣いが見る者を圧倒し排他的な空気が漂っていた。その絵が影響を受けた摩天芳武という作家は、一部のコアなファンに支えられたマイナー作家だ。中学生の漫研部員ごときでは知ろうはずもない。突然タッチを変えた朱莉の事が、さぞ奇異に映ったことだろう
受けなくてもいい、気に入った人だけが見ればいい、やはり本当に自分が描きたい絵を描くべきだ。魂を震わせ訴える。そうすれば人の心に届くものがきっとできると信じた。
作品を仕上げる間に何度かあのギャラリーにも立ち寄った。絵を見せるのは恥ずかしかったのでコンクールのことは黙っていた。閉店になるまで話をした。自分はこれでいいのだという自信が潰えるのを必死でとどめようとするかのように。
「コンクール、頑張ってね」
会期の最終日、閉めかけたシャッターに手をかけ青年はいつも通り微笑んでくれた。黙っていたことを見透かされた驚きよりも、理解してくれているという喜びが上回った。
結果は、部内の事前評価にたがわず朝子が大賞を受賞した。それに対し朱莉は佳作にも漏れた。唯一救いだったのは一人の審査作家から、デッサン力に対してはまだまだと言わざるを得ないが、個性的な色遣いと筆遣いには光るものを感じた、という評を個人的にもらったのだ。
公に評価されたわけでなくとも、朱莉にとっては嬉しかった。自分の思うままに描いたイラストでも評価してもらえるのだ、充分誇ってもよいのだと、これからの活動に弾みをつけた思いだった。いつかあのギャラリーの彼に再会できる機会があれば、報告に行きたいと思った。




