第四話 変わってみるのもいいんじゃない 1
えらいことになった。とりあえず家に帰れなくなった。目下、明日から始まる少し遅めの夏季休暇に胸を躍らせながら、悠々と職場から帰宅してみれば自宅にそもそも入れない。
いや、入れたには入れたのだが居られなかった。
今思い出しても屈辱的だ。追われるように部屋を飛び出し、公園までダッシュで逃げてきた。弾みで、ミケランジェロまで抱えて連れてきてしまった。
「どういうこと? なにがあったの? まさかあんた! バラしたの?」矢継ぎ早にミケランジェロに問うてみるも「あー、ボクりん寝てたからよくわかんね。だいたいさ、秩序維持するのに嘘つかなきゃいけないなんて独裁国家みたいに不健全だよねー」と畜生にもっともな説教を食らい、余計に腹が立つ。
日はとっぷりと落ち、夕闇があたりを覆いつくし始めていた。
この絵面、大の大人がブランコでため息をついているなど、途方に暮れています、と公言しているようなものだ。かといって声をかけるような物好きはいない。
コンパクトミラーを開くも、鞠は職務放棄して姿を現さない。今朝の言い合いが原因だろう。まったく大人げない、と乱暴にコンパクトを閉じる。
まずは今晩をやり過ごさねばならないが、まさか自分の部屋に入れないなどと同じ職場の飛騨に助けを乞うこともできない。なぜ入れないのかなど説明するのも億劫だ。
今の朱莉に残された選択肢はただ一つ。
出来れば避けたかったが、実家に帰る、それに尽きる。
実家はここから二駅の下町。今からでも難なく夕飯の時間には着く距離だ。そう考えると途端に空腹感にさいなまれる。
「はあ……」溜息しか出ない。
社会人になって自立すると決めて、イレギュラーはあったものの、トントンと実行に移してきた三か月間だった。挙句下僕として地縛霊を使役するという快挙まで成し遂げた。朱莉の中ではガッツポーズの嵐だったのだ。化け猫はイレギュラーだったが、特に大きな問題も起こしていないので今のところうまくはやっている。
一人で暮らすなんて無理だと家族から散々嫌味を言われた。
いや、正確には“家事もしたことがないようなお前が一人で暮らすなど無理だ、すぐに実家に帰ってくる”と言われていたのだ。
それには首肯を禁じ得ないが、どうだその生活力ゼロと言われた娘が堂々の三か月を乗り切ろうとしているのだと、夏季休暇には帰らず実績を積み、暮れには凱旋気分で帰ってやると、胸を張って意気揚々鼻高々得意満面で実家に帰省してやると考えていた。
それを鞠に言うと(小さいわねぇ)と言われたが、朱莉にとってそれは大きな進歩だったのだ。朱莉はいつものように、“自身の能力をフル活用し”生活を支えているのだと反論した。
だが当然、鞠にこんこんと説教される羽目になる。トーコをある程度制御するのは良いとしても自分の身の回りの家事を一切しない理由にはならない。朱莉が家事で行っていると言えることは食材の買い出しと、植物の水やりにゴミ出しくらいである。
その後はいつものパターンで昭和亭主、小姑、関白宣言、に始まり、行かず後家、甲斐性なし、オールドミス、オヤジギャル、鉄の女、負け犬、ばばあ、と進展し、ガキ、ブス、バカ、パラサイト、処女、博愛主義者、サイコ、ストーカー、寸胴、ブス、あブス二回言った、うるっさーい! ――――と今朝もこんな稚拙な罵り合いで出勤し、眉間にしわを寄せながら黙々と仕事をして夕方部屋に帰ってみたら(おかえりなさいませ)の言葉の代わりに植木鉢が飛んできた。
鞠の力が及んでいないことを咄嗟に察知し、慌ててドアを閉めて難を逃れたが、その後も部屋の中では盛大に物が飛び交い、家具が暴れていたようだ。
原因は解らないがどうやらトーコが再び反乱を起こしたようだった。
「よし!」と一人気合を入れて、誰もいない公園のブランコから立ち上がった。実家に帰るのにそれ相応の気合が必要なのは、家族からの屈辱に耐える以外にもう一つ理由があった。
古びて建付けの悪くなり始めたサッシ引き戸をそっと開くと、小声で「ただいま」と告げる。奥のダイニングからは香しい夕飯の匂いが漂ってきており、否応なく朱莉の味蕾を疼かせる。そして食卓からは家族の団欒ともいうべき哄笑が聞こえてくる。同じ軒が並ぶ連棟式のありきたりな狭い家だ、隣にも聞こえるような楽し気な会話は、朱莉の存在を掻き消すかのような勢いで続けられている。
聞こえてくるのは父と母の声。彼ら二人は年老いても仲がいい。
「この人ってよく見ると悪い顔してるものね」
「そうだろうな、人気があるとそれだけ浮遊票を獲得できるからな」
「引退したらコメディアンになるしかないんじゃない?」
少し間をおいて同時に二人の盛大な笑い声が響く。
普通の人が聞けばところどころ文脈がおかしいことに気付くだろう。
彼ら二人では会話が成立していない箇所がいくつかある。それはいつものことだ。
ダイニングキッチンの戸口に立って、開きっぱなしのドアをコツコツと叩く。
「ああ朱莉、おかえり。ご飯食べるでしょ? あら? ネコちゃん、朱莉の?」
まったくこの母親ときたら、帰ってきたことも、おなかがすいていることもキッチンに居ながらにして、すでにお見通しなのだ。ミケランジェロのことも瞬時に悟ったに違いないと朱莉はため息をついた。
「どおした! 盆の帰省としては遅いし、暮れの帰省には早いようだが?」と、にやにやしながら父は手酌でビールを注ぐ。
「ウチはお盆休みとかないから分担して連休取ることになってるの。一応実家だから帰ってきたのよ。明日には帰るから! あと、この子と喋っちゃダメよ!」とはいうものの明日に帰れる目途はたっていない。だが五日間もらえた夏季休暇をこの家で過ごすのは嫌だった。
「ええ? ゆっくりしていったらいいじゃない、お兄ちゃんとも久しぶりでしょう?」
兄などいない。だってそうだ、目の前のダイニングテーブルの四脚あるうちの二脚は父と母が向かい合わせで座ってテレビを見ながら食事をしているだけで、もう一つある席は荷物が無造作に置かれており、もう一つは空いている。
ところが母はちょっと待ってねと、椅子の上の荷物を片付けだす。
「ミケランジェロはこっちがいいかしらね」と教えた覚えもないのに名前で呼び、座布団をどこからか持ってきて床に置く。
それはともかく、普通なら空いてる席に座ればいいのだ。誰が見たってそう思うだろう。だがここ周防家は普通ではない。
そこは“お兄ちゃんの席”なのだ。
まるで家族がもう一人いるかのようなふるまい。家のダイニングテーブルの椅子以外でも、外でも必ずいつでも一席余分に確保されていた。しかし朱莉は生まれたときからそういった両親の行動を目にしていたわけで、妙ではあるが普通でもあったのだ。
一度冗談で、ほかに誰かいるの? と問うたところ、父も母も目をそらしながら「朱莉は座敷童って知っているかい?」と左斜め後ろからのトリッキーな、答えともとれない問いかけが返ってきたこともあった。
それもそのはずだった。
(おお朱莉、何ならお兄ちゃんの膝の上は空いてるぞ!)
「遠慮する」
(お兄ちゃんはいつでもオッケーだぞ!)鼻息荒くうれしそうな表情を浮かべている。
「伊智郎、そういうのセクハラっていうんだぞ、お前も社会に出る歳なんだから覚えておかないとな」
(あっはっは、そおだねぇ、僕もそういう歳なのかぁ、そうかぁ社会人かぁ)
朱莉は冷めた目を向け、父と兄の会話を聞きながら席に着く。兄が社会に出られるはずなどない。この万年パラサイト、引きこもりのニート、いやそれならまだしも可能性はあろう。朱莉の兄、伊智郎は金なし甲斐性なし実体なしの、霊体なのだから未来の可能性などゼロなのだ。
朱莉は両親のことを嫌っているわけではない。たしかに伊智郎のことをずっと伏せられていたことに憤りを感じた時期もあった。だが、ずっと居たにしても朱莉の目からすればいきなり現れて「やあ! 僕がお兄ちゃんだよ! あかりん!」などと言われる奇妙さは、生まれて間もなく生き別れになった兄妹の再会以上の戸惑いで、むしろ気色の悪さの方が上回る。まして思春期真っ盛りの朱莉からすれば驚愕の極みであった。
朱莉は自分が一人っ子だと思っていたし、霊が見える能力など微塵もなかった。それが中学二年の誕生日に開花したのである。朱莉の両親も強力な霊感応力者で、その二人の遺伝子を継いでいるならばごく自然なことだろう。
中学までの人生の半分を否定され、今までの倍以上の世界を認識せねばならなくなった十四歳の誕生日、朱莉はこれを“五千百十日目の大惨禍”と呼んでいた。
悪気はなかったとしても両親が欺瞞を認めた“あの日” からいまだこの “兄”を正面から受け入れることができないでいた。




