第三話 「ウチはひとりで生きていくねん」 追伸
件のミケランジェロはテラスのわずかな軒下にできた陰で、だらりと横になって気持ちよさそうに寝ている。それをトーコが愛おしさを隠し切れないといった様子でしゃがんでじっと眺めている。
もう一時間になる、よく飽きないものだと朱莉はサンクロージャーに水着の体を横たえ、サングラス越しに見ていた。
夏という理由だけで水着を新調したが、使うあてもないのでこうしてテラスで気分だけ味わっている。世間では夏休みも後半だ。洋介は元気でやっているだろうか。
結局、ほとんど脅しとも取れるような申し開きがなされ、個々の事情は知れ渡ったが妙玄と洋介が画策した通りに事は運ばれることはなく、葬儀は混迷を極めて終わった。
そもそも猫がしゃべったのだ。朱莉はその仕組みを知っているにしても、洋介も一条家の面々も会葬者らも驚愕以外の反応を示せず、やがてそれは畏れに転じた。化け猫だと。
さすがに妙玄もフォローしようがなかった。
その後微妙な空気感のまま出棺されるも、誰もミケランジェロのことには触れることなく、妙玄も火葬が終わると逃げるようにして葬儀場をあとにしており、あの洋介ですらすっと、いつの間にか姿を消していた。葬儀場に残されたのはミケランジェロとキャリーバッグのみ。
(家族ってのは冷たいもんやなぁ、洋介だけは解ってくれると思ったんやけどねぇ)
そういって老婆はさめざめとハンカチで目元をぬぐうが、もちろん嘘泣きである。
「ばあちゃんね、ありゃダメだって。猫がしゃべるなんて不気味以外の何物でもないよ。あんなことしたら後々家族として暮らすのが辛くなるでしょうに。洋介君も結局妙玄さんに言われた通りにしてただけなんだし……」
(ふん、そら生きてる時はな、思ってても言えん事なんかよおけあるもんや。けどあの子らの態度見とったら我慢できんようになってなぁ、死んでまで気ぃ遣うことないって思て口を借りたんや)
お説ごもっともではあるが、今となってはこの老婆が息子夫婦と距離を取り、一人で暮らしていた理由がよくわかる。結局家族の中で自分は “何者にもなれていない”という思いがより自身を内側へと閉じ込めていたのだろう。
(不器用にも程があるよ。結局猫の手を借りなきゃ言えなかったってことでしょ?)
(やかましいわ。あれだけの資産を残したんや、バチは当たらんやろ)
確かに早苗自身が社会に対して貢献した度合いは計り知れない。そこにぶら下がっている人々の生活を支えていることも確かだろう。目に見える形が金銭であったとしても、目に見えない形で間接的に感謝はされているはずだ。
(このマンションかてうちの土地なんやで)
(えっ? そうなの?)
にやと老婆はいやらしい視線を朱莉へと送った。
(シュリ様、今日はおばあちゃんに肉じゃが教えてもらうんです、楽しみにしててくださいね!)トーコはこの老婆にすっかり懐いている。混乱の昨日から、早苗はミケランジェロとともに朱莉の部屋に居候をしている。
「はいはいわかった。四十九日を迎えるまでにロートルが貯め込んだリソースを吸い上げておきなさい」
(一日一品ずつとして……おお、おばあちゃん直伝の四十八手が私のモノになるのですね!)とトーコは両手を握り合わせ、目を輝かせる。
「トーコ……それ違うやつな? 外で言っちゃダメよ?」
(ええよええよ、トーコちゃん、料理でも裁縫でも何でも教えてやるさかいなぁ)
「ばあちゃん! それより家に帰らなくていいの? 洋介君のことは? まさか見限ったとか――」
(――もちろん、かわいい孫や、それは変わらん。やけどあんたも知っての通り、死者が生者に関わることはタブーとされておるのやろ? 私は死んだんや。遺された者が私のことを偏屈な老人だと思うならそれもええ。崇め奉られようなんぞ思わん。息子宅とはいえ、今まで寄り付きもせんかった家に今更上がり込むのも変やろ。それにな、ミケランジェロとの縁が切れてあの子、今日から学校に行くようになったんや。それはそれでいいことやとは思わんか?)
確かにそんなふうに解釈すればありな話かもしれないが、一つ心残りなことがある。
「じゃあ、ミケランジェロは? どうすんのよ、結局行き場なくしたじゃない」
(そりゃあ、あんたが家で面倒みるって連れ帰ってきたんやろ? 責任持ってくれんと困るのぉ、なあトーコちゃん?)
(はぁあい! 私ミケランジェロの面倒見まーっす!)元気よくトーコが挙手する。
サンクロージャーから勢いよく起き上がり、サングラスを外し、両掌を睨みながらわなわなと震える。
「ちょっとまてぇ……なんだこれは、あたしが何をした? むしろ今回は功労賞だろ……」
サングラスに映る鞠が手のひらをこちらに向けて、にこやかな顔をのぞかせる。
(いやあ、これも何かの縁だと思って受け入れるしかないわよねぇ、おっほほほ!)
「……いや、あんたこの災厄を阻止しようって気なかったのか……」
(だあって、邪魔だし、役立たずだし)
「っこっこの、ドグサレ守護霊が!」
周囲の状況を忘れて思わず叫んでしまった。
(シュリ様ぁ、誰とお話してるんですか?)
トーコが音もなく近づいてきて朱莉の視線の先を覗き見る。
朱莉は慌てて声のトーンを落とし「うぐっ……ま、魔界じゃ、魔界の古い友人とちょっと通信しておったのじゃ」と視線をまぶしすぎる空に転じる。
(まあまあ、ミケよかったなぁ、にぎやかなお家で。次はお嫁さんもらわないかんなぁ)
と早苗はミケランジェロの傍らにちょこんと座り腹を撫でながら言う。
――何かが変だ。
「はあっ? お嫁さん? メスでしょミケランジェロ!」
(何言ってんのや、ほれみてみなさい、まごうことなきれっきとした男の子や、あんたみたことないんか?)
腹を見せて寝転ぶミケランジェロの股間を指さす老婆。
「――いや、あります、ありますとも! ぬ……ヌードデッサンモデルのやつとかならチラッと……ってぇえ、そういうことじゃない! 三毛猫なのに雌じゃなくて雄な――――マジか!」
(朱莉ちゃん悪い顔になってる)
(シュリ様ミケランジェロを売り飛ばそうとか考えませんでしたか?)
(ほほっ、まあ好きにすればええわいな)
(ちっ、バアサン薄情だなぁ。まあでもいっか!これからは美少女中学生と綺麗なお姉さんと和服美女のハーレムだね! ボクりんだいかんげぇ!)
朱莉は心を読まれるほどに顔に出たかと顔を背けるが、すぐに向き直り目を丸くして立ち上がり、あたりを見回す。朱莉の視界には早苗、トーコ、サングラスのレンズに映る鞠、そして実体のミケランジェロだけだ。頭数が合わない。
「――――ちょ、ちょっとまて! 最後に喋った奴誰……?」男の子のような声のくせに過剰な美辞麗句と欲望丸出しの下品なセリフ。
(誰って……ミケランジェロに決まってるじゃないですか)トーコがケロッとして言う。
――稀にいる念話が可能な個体。
ババアはいずれお迎えが来るとしても、地縛霊に加え自我をもって自由に話す化け猫との共同生活が始まる。しかも言動からして化け猫には鞠の姿が見えているようだ。本格的にまずい。
(あっ、お姉さんお姉さん、ボクりんはビルズのサイエンスしか食べないんでそこんとこよろしくね! あと売り飛ばそうとしたら呪い殺すから、そこんとこもよろしく!)
呆然と立ち尽くす朱莉を真夏の日差しがじわりじわりと熱線で焼き付けてくる。
今年の残暑は厳しい。
この紫外線、SPF50で受け止めることが出来ているのかと、ふと不安になった、という顔を作って気を紛らわせる。
サイドテーブルに置いていたスマートフォンが着信を告げる。
《やっほー、朱莉? 家買ったで! ほんでな、さっそく犬をな――》
「えっ、保健所?」
いかにも飛騨らしい。保健所で保護されている大型犬を譲り受けに行くので一緒に行かないかという誘いだった。
あの古屋敷を買ったのか。
犬を飼うならついでに猫はいかがですか? 価値ある雄の三毛猫です。と言おうとしたが、猫好き地縛霊と猫派守護霊と化け猫の冷ややかな視線のコンボにおののき口を噤むしかなかった。