第一話 ようこそホテル・カリフォルニアへ 1
周防朱莉はつまれた段ボールにもたれ胡坐をかいて、眉間に皺をよせていた。
「引っ越し業者のアルバイト一名が作業中骨折、一名が吐き気を催してリタイヤ。家電を配達に来た業者の二人は真っ青な顔をしてそそくさと逃げ帰り、挨拶に行った隣の住人には奇人変人を見るような目を向けられ、三羽のカラスがテラスの柵にとまってさっきから大合唱している――これは、あんたの仕業か?」
朱莉はそう言って虚空に視線を移した。
もちろんこの部屋、件の契約した超格安事故物件には朱莉以外の人間はいない。外から見れば朱莉が独り言を言っているようにしか思えないだろう。
だが朱莉には明確に問いただすべき対象が見えている。
その対象は朱莉の質問に対し応える。
(お主がちゃんと確認しないのが悪いのじゃ)おそらくは誰にも聞き取れない、朱莉の思念に直接語り掛けてくるのは若い女性の声だった。いや、少女と言ってもいいだろうか、まだ幼さを残したみずみずしさが漏れてくるような話し方だった。
「ふ……どこに隠れてたの、あの時隅々まで確認したはずよ」
(ふふ、隠れてたとな? 私は神霊体ぞよ? 壁抜けて隣の部屋に行くなどどうということはないわ。マンションは隣の部屋と壁を共有しているんじゃから、部屋から離れられなくても部屋から一時的に出ることはできるのじゃ、もちろん隣じゃなくても下の階だろうが、屋上だろうが、元の部屋の一部にさえて触れていればな)
なるほどそういう裏技があるのかと感心しつつ、「で、しんれいたい? が何のために……」朱莉は目頭を押さえてため息をつく。
(ここは私の……あー……ウチじゃ、当然でじゃろ?)
「……なんだ、やっぱただの地縛霊か」
(……ちっ、がう! 神霊体だじゃっ! 殺すぞ!)
「はいはい、でぇ、あたしを追い出したいってわけ? じゃあやってることが益々おかしいでしょうが。ずっと居たんならあたしが入居を決める前に、最初から出てきなさいよ」
(ちょっと外の空気を吸ってたのでよぉ、気づいてはいたけどよ、またいつものカモが来たってくらいでね。けど、まさか……よもや霊感応力者だったとは思わなんだわ)
「カモ?」
(こっちの話、じゃ。とにかくあんたはちょっと面倒だからダメじゃね、ルームシェアはさせてあげないぞよ)
もはや無茶苦茶である。“彼女”が何をイメージして話しているのか朱莉には判らない。
「はぁ……誰が好き好んで地縛霊と住みたいかっての」
(こ、……次に地縛霊とか言ったらほんとに殺すからな。わかったらホラ、出て行ったら? 山ちゃんに電話かけて解約申し出たらいいじゃ……よい、のじゃ!)
目の前に浮遊する白っぽい霧のような浮遊体、それは無茶苦茶な口語と無邪気な声色で朱莉を煽ってくる。感情的になると地が出るようだ。
極めて不快だ、こんな不快さは久しぶりに味わう。
「いやよ、お断り。出てゆくならあんたが出て行きなさい。それから鬱陶しいから普通に話していいわよ?」
(ぬっ、鬱陶しい……ま、まあよかろう。下賤なお主に判りやすい言葉で話してやるとしようかの!)
「……えー、ありがたきしあわせにぞんじますしんれいたいさま――はい、では続きをどーぞ」
(では遠慮なく――あっ、やだなぁ、オネェさん。さっきの引っ越し屋さんの惨状見たでしょ? それに今まで何人か入居してもほとんど一ヶ月ともたなかったって聴いたでしょ?)
突然天井の真新しいシーリングライトが明滅を繰り返す。
朱莉はそれを恨めしそうに見上げ、聴いてねぇよそんなこと、と言外に舌打つ。
(それがどういう意味か分からないならオネェさん相当残念だなぁ? 霊感応力者でしょ? ねえ、ひょっとしてバカなの? その金髪とかバカっぽいしねぇ」
急に饒舌になったと思ったら、人の神経を逆なでするような事しか言わないのか。さっきの方がましだと思った。
「うっさい! あたしは貯めに貯めた貯金全部はたいてココの保証金払ったんだ。今出たら次がない」
(それはそれはご愁傷さまぁー。私には関係ない話ね。とにかくここは私が住んでるの、だから荷物の梱包解く前なら退去も便利だろうと思って早々に出てきてあげたんだけど、人の親切心台無しにするとろくなことが無いわよ)
「すでにこの状況がろくでもないわよ」
(ま、今日はゆっくり考えればいいわ。こっちも一日で出てゆけという程酷な要求はしないし。私は寛容なる神なのよ)
「はン、神だってぇ? この地ばく――」言いきる前に目の前を信じられない速さで白い何かが飛んだ。その直後はらりと朱莉の前髪の一部が床に落ちた。
(そうそう、私は寛容ではあるが気は短い、覚えておけ。――――じゃ、そゆことで)
そう言って朱莉の目の前から白い霧はすっと消えた。
寛容だが気が短いのと狭量で気が長いのはどちらが危険だろうかと考えていると、後に宙をひらひらと舞う紙片が降ってきた。
さっき目の前を飛んだ白いものはこの紙か、と持ち上げる。
一瞬呪文が書かれた呪符か何かだろうかとも考えたが白紙だ。概ね意味はないと見る。これは念動力を使ったポルターガイスト現象。
なかなかに厄介な霊であると心に刻む必要はありそうだ。朱莉はこれを残した霊への当てつけも含めて、丸めてくずかごへ投げた。
この物件の事故年月は三年前の六月に遡る。
当時ニュースでも割と盛んに報道されていた事件だったが、それはほんの一時期だけで朱莉も思い出すのにいくつかネット検索を試みねばならないほどだった。
高級マンション一家惨殺事件。
加害者とみられる当時十四歳の中学生女子生徒が両親と姉を刃物で刺殺、自身は血みどろのままトイレに籠り目張りをし、二種類の混合禁止洗剤を使っての塩素ガス自殺を試み、命を落としたという痛ましい事件である。
ことの動機は被害者も加害者も死亡してしまったため判然としないが、家庭内のトラブル、とりわけこの犯行に及んだ妹の精神状態が不安定であったことから起こした、衝動的な犯行だったのではないかと言われている。しかしながら警察はそれ以上の追及に意味を喪失し、やがてマスコミは衝撃的なスプラッタゴシップを早い段階で貪り尽すと雲散霧消し、事件は月日とともに人々の記憶から薄れていった。
近年まれに見る凄惨な事件の割に人びとの記憶に残りづらかったのは、当時加害者である妹の年齢がごく若く、学校の同級生などへの影響、また高校生であった姉の周辺も然り、彼らが新築のマンションに入居したてで、芸能人やテレビメディア関係者も多く住まう近隣住民への配慮等、事件の具体性を大いに隠ぺいする必要性にかられたのだ。
そのため報道番組は全画面をモザイク処理をせねばならないほど不自由で、微に入り細を穿つ昼のワイドショーの常套手段が行使できなかったことも関係している。
したがって朱莉をはじめとする多くの入居希望者は、ここがあの事件の現場であったことを知らずに内覧に訪れる。
宅建業法で定められている事故物件の旨を明示する場合も契約一歩手前の重要事項説明時まで伏せておいたとしてもなんら違法とはなりえない。しかしそのようなケースで契約を交わしたとしても後にトラブルとなることはまず避けられないため、植丸不動産ではあらかじめ独自に作成した、契約に至るまでの事前確認書面を用意している。朱莉が内覧の際に署名を求められた書類である。
とはいえよくある契約者を煙に巻くような難解な文言が並んでいるわけではない。多くは住宅現状において不服等はないこと、事故物件であること、現場を現認して納得したかどうか、家賃が安い分、保証金に相当する敷金礼金部分は通常よりも高いこと、ほとんどは社会通念上当たり前のことである。特殊な条件としては当物件に住民票を置き一年以上居住すること、などが平易な言葉で書き連ねてある。
しかし最後の一文、“一年以内の退去には契約違約金が課せられる”だけは恐々としたものを感じたので署名前に、担当の山岸という若い営業マンに確認してみた。
「一年間住んでいただければ何の問題もないんですよ。弊社が負う事故物件の告知義務の期限に関してはいつまでという明確なライン決めはないんですが、こうしてお安く借りていただくのは、物件の心理的嫌悪感を薄めるという目的もございます。今後心理的瑕疵の告知をせずに済む優良物件として案内するためには、道義上せめて一年問題なく住んでいただいたという実績を示しておきたいのですよ」
「まあ、前に長期にわたり誰かが住んでいたという履歴があれば気持ちも和らぎますかねぇ……」
理解は示してみるものの、心理的瑕疵そのものの対象が直接目にできて、その言葉を耳で聞くことができる朱莉にとっては前住人実績など何の意味も持たなかった。要は“いるかいないか”が問題なのだ。
で、“それ”はいた。内覧の時はいなかったのに。
いったい何の恨みがあって……いや何の目的があってあの霊は住人の入居と退去を促しているのか。文脈からして前にも何人かの入居者がいたが、あえて招き入れ、そして追い出したように捉えられる。
自分のことを神と騙っていたが、おそらくあの浮遊する霧は声からして、被害者の姉か加害者の妹のものだろうと朱莉は考える。あるいはまったく別の悪霊かもしれないが『場』から離れられないというなら地縛霊だろうと考えるのが自然だ。
朱莉は携帯電話をバッグから取り出し、二十畳のリビングに匹敵する広大なテラスに出て山岸へと連絡を取る。
《ああ……もご、周防さん? いかがです……引っ越しの進捗は?》
彼の電話越し、バックグラウンドが騒がしい。時間的におそらくは定食屋あたりで昼を摂っているのだろう。
「ちょっとお尋ねしたいんですがぁ、あの解約違約金ってどのくらいお支払することになるんですか?」
《ぶはっ》
味噌汁でも吹いたのだろうか、山岸はいささか狼狽えていた。
《いっ、ちねん分ですよ、家賃一年分。むあ、確認書類の文脈からしてお察しいひだたけるかと思うんですけど……ズズ》
一年で退去するつもりなど毛頭なかったので金額までは聞いていなかった。家賃三か月分くらいだろうと勝手に思っていた。
「いっちねん? ですか……」
《んはい、そうですよ。あにか問題ありました? モグモグ》
山岸は電話しながら食っている。おそらくその咀嚼音からして――もはや契約が終われば、入居者など客ではないという態度が感じ取れる。
「ちなみに山岸さん、もう一つ訊きたいんですけど、あそこの入居者って事件後私で何人目なんですか?」
《……モグモグ……》
「聞いてます?」
《え、ええ……い、いやぁあ》
「何人くらい入ったのか教えてください、一年もたなかったわけですよね、その方々も!」
《……モグモグ、ング》
「てめっ、カツ丼食いながら話してんじゃねぇよ!」