第三話 「ウチはひとりで生きていくねん」 1
「ええ? ほんとに行くんですか?」
「そろそろね、腰据えてもええかなって思ってさぁ。犬を飼いたいから一軒家がいいかなって」
「でもぉ、飛騨さんお金持ってるんだから、なにもいわくつきの物件なんて……」
「節約できるに越したことはないやろ? あいにくウチはそういうの気にせえへん性質やねん。仏さんにだって毎日のように触れてるわけやし、前の仕事では人間の中身見るのなんて日常茶飯事やったんやから、どうってことないわ」
植丸不動産を紹介してほしいという飛騨の頼みを断りきれなかったのは、自身のあの生活ぶりを飛騨に公開したためであると自戒する。確かにあの家賃であの物件ともなれば誰もが羨むであろう。心理的瑕疵物件であることを気にしなければ得しかないではないか、と言う飛騨の弁も、山岸の営業トークに準じる。
だが事故物件はそこがポイントではないのだ。“いるかいないか”その一点に尽きる。
内装品などは徹底的に掃除してリフォームを施せば新品同様になる。だがそれでも消えてなくならないのが残念した霊の類である。
安い物件には目に見えない問題とかがあるかもしれないから、やめておいた方がいいと言えば、ならば朱莉の部屋には何か問題があるのか? と、当然そういう話になる。
言えるわけがない。殺人鬼の地縛霊と仲良く同居しているなど。
世にいう悪霊のほとんどは地縛霊の類である。その土地や状況に依存して『念力場』を持っているが故、霊障を起こすことが多い上に、力の弱い霊でも場の持つ力により、念と結合してほかの霊を呼び込みやすくなる。
酷いものになると大昔からそこに居る地霊や変質した浮遊霊体や、本店の営業部から出張ってくるような本物の悪霊などと結びついて取り返しのつかないダークスポットとなっている物件もある。
霊感能力のある朱莉などがそのような場所に踏み込むと途端に霊が寄ってくるものだから、極力心を閉ざさねば、わんさと自宅へとお持ち帰りしてしまう。
普段はこれらから過不足なく鞠が守ってくれるため、軽い腹痛や生理不順を引き起こす程度の影響しか受けないが、ないならないで良いことだ。むやみにそのような危険な場所に足を踏み入れるのは気が進まなかった。
そのこともあり、最後の最後まで飛騨に紹介するのは避けていたのだがやむを得まい、朱莉はしぶしぶ飛騨を植丸不動産に連れてゆくことになった。
「飛騨様、賃貸をご希望とのことですが、近ごろは金利も底ですし、いっそご購入を検討されてはいかがでしょう?」
何気に飛騨の貯蓄額や年収を聞き出していた山岸が、いくつかの物件情報を携えて席に着いた。
「ええ? 購入ですか? 私はまだ独身ですし……」
戸惑う飛騨の横から朱莉が口を出す。
「そうですよ山岸さん。独身女性が家買っちゃったなんてもう詰みじゃないですか、その上ペットに犬なんて飼ったら、“WAN――ひとり私の生きる道”なんてエッセイ夜な夜な書いちゃいますよ!」
朱莉のデリカシーの欠片もない援護射撃に、飛騨は口を半開きにして横目で睨み、店内の空気が凍り付きそうになった。
しかしそこは悪徳不動産屋の敏腕営業山岸である。
「いえいえ、最近では珍しくないことですよ。おひとりでも支払える程度の格安中古物件を購入して、今後ご結婚なされるようなことがあればそこに住むもよし、賃貸に出して家計の足しにするもよしです。昨今の低金利ならローンの月々の支払いは家賃には到底及びませんし、こちらの物件など三十五年ローンで月々三万五千円ですよ。物件所有は旦那に黙っておいて儲けた賃料はヘソクリに、なんて使い方をしておられるご婦人もおられますよ」
電卓をたたいた山岸が提示した物件は一軒家だった。
平面図をのぞき込んだ飛騨と朱莉は二人して鼻の下を伸ばした。
土地面積は約百坪、平屋で部屋割りは4SLDKと表記されている。四部屋にリビング・ダイニング・キッチンと、Sはサービスルーム、つまり納戸と呼ばれる物置である。
土地が百坪もあれば贅沢に庭に面した縁側があっても様になる。平面図だけなら素敵な家だと朱莉は思う。
「ずいぶん古い家のようですけど、広すぎますよねぇ、一人じゃ」
「もともとは地元の名士の別宅で、あまり使ってはいなかったようですから築年数の割には状態はいいんですよ。建材もいいものを使っていますしね。それに物件の価値とはすなわち土地値です、上物はほとんど価格には反映されないものです。たとえ手放したいとお考えになった場合でも、これだけの土地があればディベロッパーがマンション建設用地として話を持ち掛けてくることもやぶさかではありませんよ。立地も悪くありませんし」
朱莉は思うのだ。ならばなぜ現時点でマンションは建っていないのかと。公示されて一年も経つのに。
口を開こうとしたが、山岸が無言で“営業妨害は勘弁してくださいよ”と強い視線で訴えかけてきており、飛騨は朱莉を肩で押しのけて物件の平面図に見入っていた。
考えてみれば七月も末だ。とりあえず売り上げが上がらずとも実績は作っておきたいのだろう。
まあ、目も当てられないような不良物件なら殴って縛ってでも契約を止めればよいことだし、優良物件なら本人が気にしない以上、お買い得には間違いない。
「建物の周りは大きく取ってるんですよね、贅沢な作りです。ぐるりほぼ日本庭園が造成されてますし、ワンちゃんも自由に駆け回れる十分なスペースがあります、池もありますから鯉だって飼えますよ」
なあにが“ワンちゃん”だ、ワンちゃんどころか馬でも駆け回れるぞ、と朱莉は盛り上がる二人に興味を失い、体をそらすと氷の解けかかったアイスコーヒーをすする。
両手を組み合わせ目を輝かせる飛騨にかける言葉は、今はない。
「わたしぃ、大きな犬と暮らすのが昔からの夢だったんです、ゴールデンレッドリバーとか!」
傍らで二人の会話を聞いていた朱莉は心中で、レトリバーだよ “赤い川”かよ、と鼻で笑った瞬間、コーヒーが鼻腔に逆流してむせた。
「でしょう、狭い庭に四六時中つながれっぱなしなんて、ワンちゃんにはかわいそうですよね。やはり鎖のついた首輪などないにこしたことはありませんよ」
そういって山岸は自身のネクタイを少し緩める。
「山岸さんはペット飼ってらっしゃるんですか?」
「ええ、うちはシュナウザーなんですけどね」
「ドイツ人みたいな名前ですねぇ」
「ドイツの犬種ですよ、シュナウザーはドイツ語で“ひげ”っていう意味なんです」
――だな。ああ、この後は飛騨にビアガーデンでも強請ろうかと算段を始める朱莉は、売るために必死に話を合わせるノリノリな山岸に身を引きつつ半眼でとらえていた。
それとは別に、鞠がさっきからごちゃごちゃと言っているので植丸不動産の店舗内に視線を巡らせる。さっきから感じていた違和感はこれか。
見てみると、やけに浮遊霊が多い。
(浮遊霊は念力場が薄いから霊障を起こすほどの力はないけど、やな職場ねぇ)
普通の人間でも雰囲気の悪い場所には長居したくないと思うのが常であるが、飛騨も山岸も極度の不感症なのか、能天気質なのか、まるで平気なようである。
霊感応力のある者、あるいは気質を持つものが霊の多い場所に行くと寒気を感じたり金縛りにあったり、朱莉のようにお腹を壊したりする。この悪寒はグォングォンと唸る、天井に据えられたポンコツエアコンのせいではないことは確実だ。
これも広義における心的外傷ストレスといっていいのだろうか、ともかく霊感応力者という人種は不必要に感度のいいセンサーを備えている生き物と言ってよいだろう。しかもそのセンサーが役に立つことは稀で、ほとんどは無用なノイズを拾うだけの長物である。
「とりあえずそこ、見に行ってみましょうよ」
朱莉は腹痛の気配がしたので、慌てて二人を促した。
飛騨が席を立つと同時に手に取った物件詳細情報の備考欄には、お約束の『告知事項あり 心理的瑕疵』としっかり記載されていた。




