第二話 放浪者の狂詩曲 2
(はン、毛も生えそろってないようなガキが、知ったような口きくんじゃないわよ。ポリシー? 解って言ってんの? 新しい飲み物じゃないよ? あっ! 死んでるから新しいのが発売されてても知らないか? それ以前にあんたはこの部屋から出られない、世間知らずの引きこもりちゃんだもんね、あーあ仕方ないなぁ、ごめんごめん、残念ニート、パラサイト、穀潰し、中二病、モラトリアム症候群、内弁慶の言うだけ番長」
問いかける、とは穏やか過ぎる表現であり、この場合適切ではなかった。
発された言葉はともかく、朱莉は彼女を煽り、自尊心を傷つけることで彼女への“干渉”をこちらから試みたのだ。
だが、その結果、(死ね)という低く短い言葉とともに、当然のようにリビングの中の食器やノートや本が狂瀾怒濤に飛び交った挙句、朱莉を押しつぶそうとソファやローテーブルや、主を失った壁際のサイドボード、食卓のダイニングセットまでもが大挙して押し寄せてくる。
備品の多いLDKでやるべきではなかったと思ったが後の祭りである。家具に迫られ身動きが取れなくなった朱莉に向かって鉛筆、シャープペンシル、フォーク、アイスピックその他、先端恐怖症でなくとも向けられたくないものが次々と飛んできて、背後の壁に突き刺さってゆく。
(ひゃはー! しねしねしねしね!)
どすどすと音を立てて先鋭物が突き刺さった後は、部屋にある電子レンジ、トースター、オーディオセットに扇風機、あらゆるものが壊れながら壁に当たり、突き刺さり、嵐のような殺意が朱莉に向けられた。とどめはもちろんお約束の包丁である、システムキッチンから引き抜かれた三徳と出刃とペティナイフ、三本立て続けに飛んできた。
“彼女”が動かせる範囲のものすべてが朱莉に襲い掛かると、それらは順次力を失い崩れてゆく。念動力のパワーは長くは続かない。これは“彼女”の能力の限界があるためだろう。投げつけられた室内備品に埋もれ朱莉の姿は見えなくなってしまう。
静寂の中、呑気な鳥のさえずりだけが聞こえるのどかな初夏の昼下がり。窓外から飛び込んでくる反射光に照らされ、そこには血まみれになり原形をとどめない女の顔と、無残に押しつぶされた体が横たわっているはずだった。
“彼女”は勝ちを確信し、高らかに嗤う。
(ふ、はっははは! 私に逆らうからだ! 霊感応力があるというだけの人間が、勝てるとでも思ったのか? 身の程を、わきまえろ――――」
霊とて一度に大きな念動力を使えば消耗する。“彼女”の口調は明らかに息が切れていた。顔面に飛び込んできた刃物だけでも朱莉を死に追いやるには充分だった。だがより強い恐怖を、より異常な混乱を地縛する悪霊は求める。人の恐怖の感情は悪霊の負のエネルギーを増幅するからだ。
だが状況は“彼女”の思うようにはならなかった。
(え?)
積み上げた瓦礫の様な家電製品を押しのけて、朱莉は何事もなかったかのように変わらずそこに立っていた。顔の周りは飛んできた先鋭物たちで埋め尽くされていたが、朱莉の顔どころか体にも傷一つついていなかった。
(な、なんで……、なんで一つも中ってないのよ……)
朱莉はにやりと不敵な笑いを浮かべて、“力”の抜けた家具たちを押しのけ蹴散らす。
「見えたぞ……貴様の姿、くくっ」声を落としドスをきかせた朱莉は鋭い目つきで嗤い、真正面の“彼女”を見据える。
(あ、あんた……何者?)
さっきまでとは明らかに違う朱莉の様子を感じ、焦りの表情を浮かべたセーラー服の少女。ストレートの長い髪はつやつやとしていて美しかったが、女としての魅力を語るには目鼻立ちがまだ子供だ。これがポルターガイストの正体だった。
「くっくっく……ふはははは……」
朱莉は彼女の質問に答えることなく大仰な含み笑いを続ける。
(い、あ、なに? なんなの? こっち来るな!)
やがて怯え後ずさる少女の霊は、再び念動力を使い足元にあったゴミ箱を投げつける。
しかしそれはまたもや朱莉を避けて背後へと弾き飛ばされる。同時に中身も散乱したがそれら丸めた紙屑の一つすら彼女の体に中ることはなかった。
少女は戦慄のまなざしで壁に突き刺さった包丁を念動力で引き抜き、再び朱莉の背中に差し向ける。だがそれも朱莉を意図的に避けるかのような奇妙な軌道を描き、彼女の頬すらかすめることなく、一直線に少女の霊体を突き抜けて反対側の壁に当たって落ちた。
形勢は完全に逆転し、朱莉が少女を壁際に追い詰めていた。
「無駄だ。世を忍ぶ仮の姿を纏っているとはいえ、六千八百万年前に降臨し世界の恐怖を支配した我ぞ。まして貴様ごとき一霊体の身分で盾突こうなど笑止千万。貴様が我を知らぬとみて、今までは見過ごしてやっていたものを……どうやら灸を据えてやらねばならんようだな」喉の奥の奥、内腑から絞り出すような別人の声色は、もはや普段の朱莉の澄んだ声ではない。
朱莉は少女の首元へと手を伸ばす。少女は完全に怯え、ガタガタと身を震わせて今にも崩れ落ちそうになっていた。
(た、たすけて……)
虫の様なか細い哀れな命乞い。
「――ふむ……このまま消滅させるのもなんだな」朱莉は少女の首を掴みかけると、そこでぴたりと手を止め、身を引き、しばし思案するように両手を腰に当てた。
少女は朱莉が身を引くと同時に床に這いつくばり土下座をして、(う、おおおたすけください! こ、これは、ほんの、出来心で! ちょーしに乗りました! 今後はあなた様に仕えることを誓います、どうか命だけはお助けください!)
目の前の得体のしれない、おそらくは自身より高位にあるであろう存在と悟り、咄嗟に非礼を詫びた。
「ふん、立場で態度をコロコロ変えるのはポリシーに反するのではないのか? それに貴様の命などとうにないであろう。貴様ら霊にとっての最大の恐怖、それはすなわち消滅だ。我は貴様の式を素粒子のレベルにまで分解することも出来るのだぞ? 今すぐ消滅されたくなければ貴様が散らかしたものをすべて元の場所へ戻せ、貴様への沙汰はそれからとしよう」
ポルターガイストの少女は命令されるがまま、念動力で動かした家具を元の場所に戻し、食器や文房具すべてを整然と元通りに仕舞った。
力を使いすぎたのだろう、霊とはいえあれだけ一度に念動力を使用すれば消耗する。少女は息も絶え絶えに、ソファでくつろぐ朱莉の前に跪き、全てを元に戻したことを報告する。そして、霊でも汗をかくのだなと朱莉はほくそ笑む。
「うむ、ご苦労であったな。では貴様を我の軛から解くとしよう。荷物をまとめて我が城から出てゆくがよい」
氷のような視線で少女を斜め上から見下ろし、組んだ足先で出口の方を指した。ところが少女は涙目で訴えかけてくるような視線を送ってくる。
(は……し、しかし……ご、後生でございます! わたくしめは地縛の霊、故この場から自分の意思で離れることはできないのです。どうか部屋の隅でも壁の中でも結構です、ココに居させてくだせぇ」
まるで悪代官と虐げられた農民のようではないかと朱莉は思い、ますます面白くなり黒い嗤いを顔中に広げる。
「ほほう、地縛霊とな。なれば仕方あるまい、では貴様の居場所は……そこだ」
(玄関……ですか?)
「ばかもの、消滅されたいのか?」
(い、いえいいえええいいえ! ドアですか! わたくしめはドアに憑りついておけと!」
「ドア……? ふむ、そうだな、ドアか、それはいい。我が出かけるときは行ってらっしゃいませ、帰ってきたらお帰りなさいませ、と言うのだぞ。ああ、それから護符術者や呪術者や聖職者のような不審者は遠慮なく追い払え、それに他の霊が入ってくるようなことが無いようにこの城を守るのだぞ」
(わ、わかりました! では早速!)
「ああ、待て待て。我が留守中は部屋の掃除、洗濯、我が帰宅するまでには食事を用意しておくのだぞ? 居候させてやるというのだ、そのくらいは当然であろう?」
(はっ、ははー! 命を助けていただいた上に主様のお世話役を賜りこの上なき幸せ! この身に代えましても我が主様を御守りする所存で参りたいと思います!)
朱莉はちらと横目で時計を確認する。
「うむうむ、良い心がけじゃ。貴様が我の下僕である限り良きに計ろうぞ。――ああ、それから我はこれより少し出かけるのでな、早速だが留守を頼むぞ、トーコ」
(――――! と、トーコ?)
「玄関扉の子だからトーコじゃ、何か不服かのぉ?」
(あ、や……いっ、いいえ! 滅相もございません! わたくしめトーコ、主様の留守を預からせていただきます!)
「判ればよいのじゃ。では行くとするか――」おもむろに腰を上げ、まだ解いていない梱包をちらと確認する。
(――あの! 無礼を承知でご尊名を……その、主様の……)
「我の名を、と申すか?」他意があるようには思えなかった。自分が仕える相手が何者なのか知りたいのだろう。
(是非拝聴いたしたく!)トーコは床に吸い込まれそうなほどひれ伏し懇願する。
「我が名をか!」朱莉は威嚇にも似た問い返しの中で高速で頭を回転させる。
(ひっ、……是非に)朱莉の気迫にトーコはさらに縮こまる。
「うむ――――我が名は……我が名は……ディ……そう、ディントウルニ・アブフェアエ・シュリ・バーミリオン・モーリホア、魔界を統べる皇帝に仕えし十六天魔王の一人、またの名を『閃光の朱き鋼王・シュリ・バーミリオン』である!」
(せ、閃光の……シュリ……!)
さっきまで晴れ渡っていたはずの窓外は厚く黒い雲に覆われ、一条の稲光が空にたなびき、朱莉の硬直した顔面を不気味に照らし出していた。
(なんと魔界の王である主様に狼藉の数々! 今までの非礼どうか、おっ、お許しください! ひいいいいい!)トーコは畏れひれ伏し、悠々とした足取りで部屋を出てゆく朱莉を見送った。




