玉響の時
明月院、長谷寺など鎌倉には紫陽花寺と呼ばれる寺が多い。
けれど花菜の中では、紫陽花寺と言えば「彼」と逢える名も知らぬ寺であった。
住職の姿とて見たことがない。
花菜は自分が住まう鎌倉の地を散策するのが好きだ。
仕事が休みの日には、デジカメを持ってほうぼうを歩いて回る。
鎌倉は坂が多いが美しい土地だと花菜は思う。
江ノ島、七里ヶ浜、鎌倉山――――――――。
無心にシャッターを切る光景がたくさん見つかる。
ある日、いつもの散策コースから外れ、気ままに歩いてみた。
鎌倉の名所はほとんど行き尽くしたので、名もなき場所に行ってみたかったのだ。
九十九折の道を曲がって曲がって。
階段を何か所が上り。
雨がぱらついていたので、傘を忘れた花菜は急ぎ足だった。
だから、正確な道順は憶えていない。
気がつけば、古びた小さな荒れ寺が目の前にあった。
古色蒼然とした佇まいだ。
「お邪魔します…」
一応、小声で断ってから門を潜り、縁側のほうに回る。
もうだいぶ古びているような外観だから、花菜の体重にも耐え切れるか不安だったが、腰掛けると、ぎし、と言ったのみで、縁側は沈黙してくれた。花菜は持っていたハンカチで自分の髪や肩を拭いた。
改めて庭を見回すと、そこには紫陽花が咲き誇っていた。
青、紫、水色、と寒色系を中心に彩り鮮やかである。
土が酸性なのだろう。
そしてそれぞれの花に置かれた露がまた、紫陽花の美しさを際立たせている。
「誰だ」
不意に響いた男の声に、花菜はぎょっとした。
隣に先客がいたのだ。
声をかけられるまで全く気づかなかった。
この寺の人だろうか。
不思議なことに花菜の左側には半透明の膜のようなものがあり、向こうを見え辛くしている。視界に紗がかかったようだ。
「あ、すみません。誰かいらっしゃるとは思わなくて。無人のようでしたので」
「謝らずとも良い。私も紫陽花に招かれた客人に過ぎぬ。この寺は無人らしいな」
「そうですね」
花菜はほっとして相槌を打った。
それから二人、言葉もなく雨に打たれる紫陽花を見ていた。
不思議と気詰まりはせず、流れる空気は静穏だ。
以降、花菜は度々、その寺に行き、男と並び紫陽花を見るようになった。
自己紹介めいたことは一切しない。
すればこの、夢のような時間が覚めてしまう気がした。
男は仕事で難題を抱えているようだった。
異国から敵が来る、と古めかしい例えの内情を花菜は知らないが、彼の心が少しでも安らかであればと願った。
「そなたに触れてみたいな」
紫陽花の盛りも過ぎた頃、男が言った。
その日も雨だった。
淑やかに降る雨だった。
花菜の心臓が跳ね上がる。
「触れて良いか?亭主はおるのか?」
「いいえ…」
「そうか。私には妻がおる」
錐で突かれたように、花菜の胸が痛んだ。
「元の軍勢は手強い。防塁を作らせはしたが。私の命とて長らえるか解らぬ…」
これを聴いて、花菜の記憶にある歴史上の事柄が浮かび、しかしすぐ消えた。
「……負けないでください」
「励ましてくれるか。…では触れても良いか?」
「狡いです」
「頬に触れるだけだ」
「…はい」
やがて伸ばされた手が、膜を超えて花菜の頬に触れる。
大きくて温かくてざらりとした手。
豆が何度も破れて固くなったような。
我に帰れば花菜は泣いていた。
終わりの時が来たのだと悟った。
彼は彼の時代に帰り――――――そうして二度と逢うことはない。
もう花菜には解っていた。
これは有り得べからざる、数百年の時を隔てた邂逅だ。
紫陽花の玉響が見せた夢が、消えようとしている。
「私は花菜と言います。興田花菜」
ここに至り、初めて名を告げる声は震えている。
花菜の目からこぼれる雫を拭いてやっていた手が離れた。
「良き名だ。私は北条時宗。生涯の終わる前に、そなたに逢えて良かった」
その言葉からは時宗の、直面している難事に立ち向かおうとする意気込みと覚悟が感じられる。
それが夢の終わり。
直垂上下を着て微笑む時宗の姿が一瞬だけ明瞭に浮かび上がり、やがてぼやけて消えた。
花菜は追い縋るように手を伸ばしたが、空を掻いただけだった。
その後、花菜は北条時宗のことを調べた。
とは言ってもスマホ検索である。
鎌倉幕府八代執権である時宗は、元寇で二度、元の大軍を退け、三十二歳の若さで病没している。
今の花菜より年上だが、やはり若い。
あれから何度かあの紫陽花寺に行こうと試みたが、一度も行き着けなかった。
(もう逢えない)
〝そなたに逢えて良かった〟
(私も、あなたに逢えて良かった)
例え玉響の時間でも同じ紫陽花を見て過ごせた。
空に虹がかかる。
もうすぐ梅雨も終わる。
来年、また紫陽花の季節になれば、花菜は時を超えて出逢った男を思い出すだろう。
そこだけ、彼に触れられた頬に自分で触れるだろう。
巡る季節の中で、もう二度と巡らないものもあるのだと花菜は知った。
この作品を、C.Sさんへのお礼に寄せて。