ハブ ア グッドスリープ,グッドトリップ
僕の生きる世界はこの狭い部屋だけだ。
消毒液の香りがする無機質な白い部屋。
大きな窓には白いカーテンが掛けられ、外の光を薄く透かしている。
そして部屋の真ん中に置かれた一台のベッドの上が、僕の生活圏だった。
僕に会いに来るのは主治医、看護師、そして両親のみ。
「悠吾くん、体調はどうかな?」
「血圧と体温測りますね」
「悠吾、遅くなってごめんね。今日も元気にしてた?」
毎日こんな調子で代わり映えのしない日々。
この部屋にやって来る大人たちは皆優しいけれど、僕が聞きたい話を聞かせてくれる人は一人もいなかった。
「あーあ」
僕はわざと大きな声でため息をついて、枕に顔を埋め突っ伏した。
僕が一人でも退屈しないようにと、母親が買ってくれたRPGのゲーム。
最初は夢中になってやっていたけど、攻略の仕方がわからず途中から物語を進められなくなってしまった。
「こんなときは……あいつに会いに行こう」
ため息混じりに呟くと、真っ白なシーツに包まれた掛け布団に潜り込みそのまま眠りに落ちた。
――僕は眠るのが好きだ。
夢の中では自由だ。好きな場所へ行き、好きなものを食べ、好きな景色を眺めることができる。
身体の負担もお金もかからない、手軽な小旅行というわけだ。
そんな夢の中で、最近友だちができた。
「恵斗!」
名前を呼ぶと、快活そうな少年がこちらを振り返る。
「悠吾、このところよく会うね」
彼は嬉しそうに笑いながら僕に駆け寄ってくる。
「そうだね。ねぇ、今日恵斗は『あっち』の世界で何してた?」
「朝はサッカーの練習。帰ってきて、昼飯食べて――眠くなったからソファに横になってたら、ここにいたって感じかな。悠吾は?」
「ゲームやってたんだけど、全然進めなくて行き詰まっちゃってさ。飽きたからそのまま寝た」
「ふて寝ってやつね」
そう、僕たちは『ここ』が夢の中だと認識している。
誰しも『これは夢だ』と夢の中で気付いた経験が一度くらいあるかもしれない。
しかし、あくまでも夢の中の自分は夢の中の自分。夢だと気付いたとしても、現実のように思い通りに行動したりすることはできないだろう。
そして朝目覚めてしまえば、その記憶もすぐに消えてしまう。
けれど、僕たちは夢の中でも現実と同じように考え、行動することができる。
現実世界の記憶を夢で共有することができるし、目覚めてからも夢での出来事を忘れることはない。
この不思議な体験は、普段外に出ることのできない、そして友だちのいない僕にとって心の拠り所になっていた。
ただ、この夢には一つだけ条件がある。
「ねぇ、悠吾がやってるゲームって何てやつ? 俺、目が覚めたら攻略サイト見てきてやるよ」
「◯△※□……」
「あぁ、これはダメなんだ」
僕たちは一部の現実世界での情報を夢の中に持ち出すことができない。
自分自身にまつわる話は大体できるが、それ以外の現実世界に存在するものの話は共有することができないことも多いのだ。
共有できること・できないことのボーダーラインは曖昧で、僕たちは都度そのボーダーラインを探りながら会話をしていた。
「まぁゲームのことは一旦忘れてさ。今日は何して遊ぶ?」
「またサッカー教えてよ」
「オッケー」
にこりと笑う恵斗の手に瞬時にサッカーボールが現れる。
夢では欲しいと思ったものがすぐに具現化できるのだ。
恵斗がボールをポン、と右足で高く蹴り上げた。
「わっ、ちょっと急に……」
慌てて僕はそのボールをヘディングで恵斗に返す。
「いいじゃん」
恵斗はそのボールを胸でトラップし、足元に落とすと再び右足で僕に返した。
夢の世界では、病気の身体が嘘のように軽快に動ける。
恵斗からのボールを左膝で受け止め、そのままリフティングする。
「教えなくても十分うまいじゃんか」
朗らかに笑う恵斗へボールを返す。
「こんなの夢の中だけだ」
僕は苦笑いで答えた。
現実の僕は、ベッドの上から動くこともできずに日がな一日ゲームをするか、窓の外を眺めることしかできない。
「悠吾はさ、何の病気なんだ? 夢の中で会う限りじゃすごく元気そうだけど」
「◯△※★……」
「えっ、これもダメなの?」
うまく言葉を発することができなかった僕に、恵斗は驚きと落胆の入り混じった表情で言った。
しかし、僕は少し安堵していた。
夢の中でぐらいは、病気のことなんて忘れて対等に人と接したっていいだろう。
もしかしたらそんな僕の願望が夢に表れたのかもしれない。
自分の都合の良いように世界が回る――そんな夢の世界は僕にとってはとても居心地がよかった。
「あ……ごめん悠吾。母さんが呼んでる。そろそろ起きないと」
「うん、またね」
「またな」
そう言って手を振る恵斗を見送るのと同時に、僕は目が覚めた。
寝ぼけ眼でぼんやりと白い天井を見つめる。
「あら悠吾。起きたのね、おはよう」
声のする方へ視線を滑らせると、花瓶に花を生ける母親の姿が視界に入った。
「母さん……来てたの」
「うん、今日は仕事が半日で終わったから早めに来られたのよ」
「そう」
身体を起こそうとするが、重くてなかなか起き上がれない。夢の中ではサッカー選手のように機敏に動けていたのが嘘のようだ。
「無理しないで、悠吾。そのままでいいから」
「……ありがとう」
その言葉に甘えて、僕は横になったまま視線だけを母親に向けた。
「それよりね、聞いてよ悠吾」
母親はベッド脇の椅子に腰掛けると、声を弾ませた。
「来週の悠吾のお誕生日ね、一時帰宅してもいいって先生が言ってたの!」
来週?
誕生日?
あぁ、もうそんな時期なのか。
「へぇ……」
「もう! 悠吾ったら嬉しくないの!?」
僕の生返事に、母親がふくれっ面をした。
嬉しくないわけではない。何もない病室にいるよりは、外出したほうが幾分か気持ちも晴れるだろう。
しかし、帰宅するにも両親の手を煩わせなくてはならないし、重い身体を引きずって遠くの家まで帰るメリットを見いだせないのも本音だった。
「あぁ、ごめん」
嬉しいとも嬉しくないとも言わず、僕はぷりぷりと怒る母親をなだめた。
***
夕食を済ませ、帰宅する母親を見送ると僕は早々に布団をかぶる。
眠たいわけではなかったがゲームをする気にもなれなくて、目を瞑りながら頭の中で独りごちる。
一時帰宅かぁ。
家に帰るのはいつぶりだっけ。
母さんはすごく嬉しそうだったけど……。ちょっと気が重いな。
どうせ母さんにも父さんにも迷惑かけるだけだし。
誕生日なんて……僕にとっては何にも……嬉しく……ない……。
そんなことを考えながら、いつのまにか眠りに落ちていた。
「あれ、悠吾?」
「恵斗」
「一日に二回も会うのは初めてだな」
「だね」
「……何か元気ない?」
夢の中でしか会わない僕の変化に、ずいぶんと目敏い。
しかし、夢の中でしか会わないからこそ、僕は強がることもせずありのままに自分の気持ちをさらけ出すことができた。
「現実の僕は、外出するときは車椅子なんだ。移動も大変だし、一人じゃできないことも多い。だから僕が家に帰ったら、両親に迷惑をかけてしまうんだ。だったら別に帰らなくても……」
「そうだとしても、ご両親は家で悠吾の誕生日を祝いたいんじゃない?」
「僕は誕生日なんて特別な日だと思ってないから、祝いたくないよ」
「ご両親にとっては特別な日なんだろ」
「でも、人に迷惑をかけてまで帰りたくないよ」
僕の話はきっと恵斗にとっては、うじうじした面倒臭い話だっただろう。
それでも彼は一生懸命に僕の話を聞いてくれた。
「悠吾の気持ちはわかったよ。それじゃあさ、どうしたら悠吾は誕生日が楽しみになる? 家に帰りたいって思える?」
彼の思いも寄らない質問に、僕はしばし思案した。
僕は、僕がしたいことは……。
「恵斗、きみに会いたい」
そんなこと、無理に決まってる。でも、身体的に出来ることが限られている僕にとっては、それが頭に浮かぶ唯一の願いだった。
『無理だよ』という恵斗の言葉を聞きたくなくて、ぎゅっと目をつぶる。
しかし、恵斗は僕の手を強く握るとこう言った。
「わかった!」
顔を上げると、そこには太陽みたいに笑う恵斗がいた。
「その代わり、悠吾も協力しろよ」
「う、うん。でもどうやって?」
***
目覚めると、とっくに朝日が登った後だった。
僕は昨日の夢を反芻するように思い出す。
あのあと恵斗は、僕に関することをいくつも聞いてきた。
入院している病院の名前、自宅のある街の名前、最寄り駅の名前……。
その答えのほとんどは声に出せず、伝えることができなかった。
唯一言葉に出来たのは、僕の苗字と誕生日のみ。
手掛かりというにはあまりにも頼りなさすぎる情報だったが、恵斗は持ち前の明るさで僕を励ましてくれた。
「大丈夫! 俺が絶対に悠吾のことを見つけてみせるから」
でも恵斗には申し訳ないけれど、僕は半信半疑だった。
名前と誕生日だけで、どうやって探すって言うんだろう?
そんな僕の心が通じたかのように、それから夢で恵斗と会うことはなかった。
そして誕生日当日。
看護師に見送られて、僕は父親の運転する車に乗り込んだ。
車が出発し、父親も母親も楽しそうに僕に話し掛けてくる。
しかし、僕の心はどんよりと暗く、重かった。
きっと恵斗と会うことは叶わない。
家に帰れば、両親が僕のことをお祝いしてくれるだろう。
でも、それが盛大であればあるほど、僕の心には申し訳なさが募るのだ。
せめて恵斗と会えたら、そんな思いも払拭できるのに。
流れる景色をぼんやりと眺めながら、自宅までの短いようで長い時間をどうにか乗り切った。
***
自宅に到着する手前で車が停まる。
「……? 何でこんなところで停まるの?」
不思議に思った僕は母親に尋ねた。
「ここからは車椅子で家まで行きましょう」
「何で?」
「いいから」
母親は嬉しそうににこにこと笑っている。何が何だか、意味がわからない。
しかし僕は言われるがままに車椅子に乗り、母親に押されながら家を目指すことになった。
この角を曲がれば、すぐに僕の家だ。
見慣れた、けれど懐かしい僕の家。
――の前に、同じように見慣れた少年の姿があった。
「悠吾!」
少年は僕の名前を呼ぶと太陽のような笑顔で駆け寄ってきた。
「恵斗……何で……」
震える唇で彼の名を呼んだ。
「悠吾の名前をネットで調べたんだ。そしたら悠吾のお父さんがヒットして。悠吾の病気、すごく珍しい病気なんだな。お父さんがその病気の支援団体で活動してるって出てきたから、連絡してみたんだ」
「え……え……?」
「それでご両親に事情を説明して、今日会わせてもらえるようにお願いしたんだよ」
そんなまさか。本当の本当に恵斗が会いに来てくれるなんて。
僕はいつの間にか瞳から大粒の涙をこぼしていた。
「……僕、何で自分はこんなに辛い目に遭わなきゃいけないんだろうって……ずっと思ってた。病気になって、一人じゃまともに何もできなくて、何のために生きてるのかもわからなかった。けど、今日初めて、僕が病気になったことは無駄じゃなかったんだって思えたよ。恵斗、きみに会えたから」
――これが僕と大親友との出会いの話。
僕はもうすぐ旅に出てしまうけど、大丈夫。きっと僕たちなら、どこへ行ってもまた出会えるはずだ。
『また会おうね。おやすみ。良い旅を』